表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

はじめまして、インキュバス

初めましての投稿です。インキュバスが出てきますがエロくはないです。

頭痛が、酷い。


太陽を遮るような高いビルも、押しつぶされそうな満員電車も、ミスを押し付けてくる上司も、注意しただけで嫌な顔をする新人も、何もかもが頭痛の原因にしかならない。

多くを望んだわけではない。ただ会社に行って働いて、家に帰ってきて自分の時間を少し過ごす。休みの日には好きな映画を観たりして、そんな風に極普通に過ごしたいだけ。

けれどそんな何でもない生活を手に入れるのは、とても難しいことだった。

就職難でようやく入った会社はブラックで、定時に帰してもらったことなど一度もない。休みの日もしょっちゅう呼ばれるし、上司はこちらの声が聞こえてないのかというくらいに話が通じない。そんなところに何年も務めていれば、頭痛くらい当たり前に毎日酷い。先日の健康診断では極度の貧血という結果が出て、医者には「よく立っていられますね」なんて言われた。

人間気力があれば割とどうとでもなるのか、貧血であろうと頭痛があろうと、毎日同じように出勤できる。


「時津さん、これ駄目」

上司に呼ばれて振り返ると、先程渡した書類を渡された。

「資料間違えてるから」

「で、でもこれ」

貴方が指示した資料ですよね?と言い返そうとしたがぐっと堪える。こんなやり取り今までも何回もあった。一度言い返した時は酷かった。まるで私の気が狂ってるかのような物言いで文句を言ってきた。

「…すぐ直します」

書類を受取り、パソコンに向き直る。…また残業。今日も残業。きっと明日も明後日も、ずっと。私の能力が至らないのもあるのかもしれない、でも圧倒的に人が足りなすぎる。これ以上どうしろというのだ、とため息を吐いてタイムカードを押してからまた席へ戻った。

ようやく問題を修正して仕事を終えた頃には、もう終電に近い時間だった。早足で駅へ向かい電車に乗り、空いている席に座ると、そのまま眠ってしまいたいくらいに体が重くなり、頭がズキズキと傷んだ。

痛み止めを飲んでもいつまでも治らない頭痛。座っていてもクラクラするような感覚は、貧血のせいなのか、疲れのせいなのか。最近は睡眠時間も少ない。たまに早く帰れても、あまり眠れない。目を閉じて浮かぶのはパソコンの画面で、耳ではタイプ音が響いている気がして、眠れないのだ。

「……疲れた…」

疲れた。そんな独り言しか出なくなった。


フラフラと駅からマンションまで帰り、鍵を取り出し玄関へ入ると、ふと違和感に気づく。

…なんだろう、この甘い香り…。

電気をつけるため手探りでスイッチの方へ手を伸ばしたが、体が揺れる。

「あ…」

これはやばい、と思った時には、ドサリとその場に倒れていた。意識はまだある。でも体がうまく動かない。ぐっと腕に力を入れても、体を支えられない程に力が入らない。どうにか床を這ってベッドへ向かう。

「うう…」

ぐっとシーツを引っ張りながらなんとかベッドへ上がり伏せたまま、着替えもせずそのまま目を閉じた、その時だった。


「おい」


聞いたこともないくらい低い声が耳元でして、ぞくっと鳥肌が立ち目を再度開けた。電気をつけていないせいで周りは暗く、何も見えない。でも確かに今誰かがいた。ぐっと体に力を入れてなんとかうつ伏せの状態から仰向けになるが、起き上がれない。ぞわ…と鳥肌が止まらない。男の声、だった。不審者、変質者、泥棒、強姦魔、殺人鬼、そんな言葉が頭をぐるぐると回るが、どうしたらいいのかも分からず声を出せずにいると、ギシ…とベッドが軋む音がした。それと同時に、顔の横に気配を感じ、ベッドが沈む感覚がした。真っ暗だけどハッキリと分かった。

人の手が、自分の顔の横に置かれている。直ぐ側に人の体温を感じる。息遣いを感じる。恐怖で声を出せずにいると、また同じように低い声が狭い部屋に響いた。


「おい聞こえてんのか」

「ごめんなさい」

やっと出た言葉は謝罪の言葉だった。とにかく目の前にいる侵入者を怒らせないように必死で、体を微動だにせず呟いた。

「…あ?」

「財布…財布なら玄関…玄関に置いたままのカバンにあります、から…く、暗いから顔も、み、見てない、し…だ、だから」

だから殺さないでください、と言いたかったけど、そう言ってしまったら余計殺されるんじゃないかと思って言葉が出なかった。

ぶるぶると体が震え、涙が勝手に出てくる。何も言ってこない相手に恐怖を感じながら、どうか、どうか命だけは助けてくれと願った。今までのことが走馬灯のように頭を駆け巡る。走馬灯だっていうのに楽しい思い出よりも社会人になってからの嫌な思い出ばかりで、恐怖と疲れとでわけが分からないくらいに涙が溢れ出してきた。

その時パッと明かりがついた。いきなり明るくなった部屋が眩しくて一瞬目を閉じて、またそっと開けると、信じられない光景に目を見開いた。

「…酷ぇ顔色」

顔をしかめながらそう言った目の前の男は、どう見ても人間ではなかった。いや人間…のような体ではあるのだが、やたら筋肉質で、今まで見たことのないくらい整った顔ではあるが目つきが悪く怖い顔。瞳は真っ黒で、中心だけが赤く光っている。黒い髪をオールバックのように後ろへ流していて、そして頭から出ている大きな角と、背中から生えている大きな翼。ー悪魔。まさに悪魔という言葉がピッタリの姿だった。

男は私に覆いかぶさったまま、手を私の顔にそえた。よく見ると爪も鋭く、口から覗く歯も狼の牙のよう。気づくと、先程感じた甘い匂いが更に強くなった。

「なんで効かない?」

「は…?」

「…お前今どんな気分なんだ」

どんな気分と言われても、酷い気分としか言えない。相変わらず頭は痛いし、体は重いし、怖いし、甘い匂いに酔って吐き気までしてきた。

「き、きもちわる…」

「あ?」

「吐きそ…」

「は!?おいふざけん―」

「どいて」

もう訳が分からなくなり、目の前の男を突き飛ばす勢いで起き上がりベッド横の小さなゴミ箱を手に取って、思いっきり吐いた。仕事の合間にかろうじて口にしていた栄養ドリンクやゼリー飲料くらいしか胃に入っていなかったせいか、吐くことすら苦しくてボロボロと涙も同時に出てくる。あまりにもひどく咳き込みながらゴミ箱を抱えてる私の横で、呆れ顔の男が、ため息を1つついて「ったく何なんだよ…」と面倒くさそうに背中をさすってきた。もう不審者だとか悪魔だとかは考えられなかった。

「うっ…」

何もかもがどうでもよくなるくらい、疲れていた。疲れていたし、嫌になった。ボロボロの状態で帰宅したら訳のわからない状況になっていて、体調は悪くなる一方で、でもこんな状態でも頭の隅には明日の仕事の事が浮かんでいる。きっとこんな状態でも出勤せねばならないのだ、それを思うと涙が止まらなくなって、ただただ抱えてるゴミ箱と背中をさする誰かも分からない大きな手に、少しの安心感を見出すしかなかったのだ。

人間かも分からないその男の手が温かくて、優しく感じたのは、自分が弱っているからだろうと、自分に言い訳をして、黙ってそのままゴミ箱に向かって泣いていた。


しばらくして、ようやく止まってきた涙をそのままに、男の方を振り返ると、男は背中の手を止めてぎょっとした顔でこちらを見た。

「顔やべぇぞお前…」

「……」

涙と鼻水でぐっちゃぐちゃで酷い顔だというのは、自分でもわかる。

「うう…ティッシュ…」

ベッド横にあるティッシュボックスをとるが、空だった。…ああそうだ、帰りにティッシュ買ってこようと思ってたのに。もう何もかもうまくいかない。何もできない。私の人生本当に駄目だ。なんて馬鹿なことを考えると、また涙が出てきそうだった。

「ったく…こっち向け」

「う゛ぐ」

ぐいっと顔を引き寄せられて、ごしごしと顔を拭かれた。痛い。

「きたねえ」

そう言って男は私の毛布の端で私の顔を拭き終わると、またため息ひとつ。毛布あとで洗わないと。

「もう気持ち悪くねぇか?」

「え?…あ、…はい」

いつの間にかあの甘い匂いも止まっていた。そしてやっと少し冷静になってきた。冷静になると同時に、目の前の男への恐怖も戻ってくる。

一体誰?何?何が起こっているのだろう?

「興が冷めちまったな」

「…あなた、誰?」

今更すぎる質問に、男は呆れ顔で口を開く。

「インキュバス」

「イン…」

「今夜はハズレを引いたな、お前体酷いぞ」

「体?」

「不健康体すぎてインキュバスの霧が効かねぇ。俺といても何も感じねぇだろ?」

「感じるって何を…」

「性欲」

「…そっか、インキュバスってそういう…悪魔…」

そうだ、そうだった。インキュバスとは、確か人間の女と性交しにやってくる悪魔だ。霧とは、さっきの甘い匂いのことだろうか。催淫効果でもあったのだろうが、今の私に効くわけがない。性欲どころじゃないのだから。でも目の前の男は確かに、インキュバスの名にふさわしい姿だ。

「めんどくせぇ…」

面倒だと思うならばさっさと帰って頂きたい。正直こんなこと今でも信じられないし、すぐに眠って朝起きて、ああ夢だったんだ、と思いたい。

「あのー…なんかすいません。…あの、玄関からでも窓からでも、どうぞお帰りいただいて…」

「あぁ?」

そんなに凄まないでほしい。ただでさえ怖い顔なんだから。美形だけど。

彼の尖った耳が、なんだか面倒そうにぴょこぴょこと揺れる。そして彼の背後からにゅっと出てきたのは長い黒い尻尾で、その尻尾を私に向けて言う。

「インキュバスは一度標的を決めると、その女を一度は抱かないと離れられねぇんだよ」

「えっ!?」

「あーードジった。最近喰ってなかったからなぁ。遠目からじゃ体の健康度は分かんねぇんだよなぁ」

「はあ…あの、じゃつまり、私と……」

目の前の彼を指差す。

「グラート」

「はい?」

「名前」

「グラート、に、私がその…一回は抱かれないと、貴方は私から離れられない、と?」

「ああそうだ」

ふざけるな、と言いそうになった。ただでさえこちとら人生に絶望しはじめていたところなのだ、勝手に標的にして勝手に居座るな、と怒鳴りそうになったが、言っても無駄そうだし怖いしやめた。あまりにも理不尽な話だが、よくよく考えれば彼はインキュバスで、これはインキュバスの習性上仕方のないことなのだろう。

いかにも目の前で「我不満なり」みたいな腹の立つ顔でこちらを見ている彼は……まぁ改めてみても顔が良い。インキュバスってこんなに美形なのか。

なんだか疲れて面倒になってきた私は、ベッドにまた横になって言った。

「じゃあどうぞ」

「は?」

「適当に済ませてどうぞお帰りください」

なんかもう、どうでもよくなってきた…。インキュバスに抱かれようが、抱かれて何かを喰われて死のうが、明日出勤することに比べればなんでもないような気さえしてくるのだ。

死にたいわけではない、どちらかと言うと命は惜しい。でも、生きる目的も分からない。

どうせ生きててもやることといえば、明日会社へ行くことだけなのだから。

死んでしまえばもう仕事に行かなくて済むのだろうか…

「もうどうでもいい…生きてても、いいこと…ないし」

ギシ、とベッドが軋む。彼の、グラートの体がもう一度私に覆いかぶさる。さすがに体が強張り、顔に触れた彼の手にびくっと目を瞑るが、同時にぎゅむっと鼻をつままれた。

「な、なに…!?」

「いや無理」

そう言うと、彼は私から離れた。

「どういうこと?」

「今やってもお前何も感じねぇだろ」

「そりゃ…そうでしょうね」

疲れすぎて快楽なんて感じ取る余裕は無いだろうから。それでもしないと彼は帰れない。

「百戦錬磨の名が廃る」

「は…?」

「地蔵みてぇな女抱いて何が楽しいんだよ。インキュバスだぞ俺は」

「……でも」

「お前何か勘違いしてねぇか?別にインキュバスは命までは取らねぇよ、少し快楽と精気を貰うだけだ」

そうなのか。…そうか、死ぬわけではないのか。ホッとしたような、がっかりしたような。

「今のお前抱いてもつまんねぇ。寝ろ」

バサッと毛布を投げられて、グラートはベッドの前のソファーにどかっと座った。

目なんかすっかり覚めてしまった。ただでさえ不眠症気味なのに。でも体は寝たい寝たいと悲鳴を上げている。

毛布をかけ直し、ソファーの方へ顔を向けた。立ち上がってベッドからソファにうつった彼を見てて気付いたが、彼は背も高い。天井に角がついてしまうんじゃないかってくらいだった。

じっとグラートの顔を見ていたら、顔をしかめて舌打ちされた。

「さっさと寝ろ。その馬鹿みてぇな体元に戻してさっさと抱かれろ」

あんまりな物言いに、笑ってしまった。きっと人間の思考の範疇では考えてはいけないのだろうな。

目を閉じると、ぱちりと電気が消えた。彼が消してくれたのだろうか。真っ暗になった視界と、静かになった空間で思い出したのは、体調の悪さでも、会社のことでもなく、先程背中に感じた温かい手の感触だった。

そうしているうちに、眠れないはずなのにいつの間にか私は夢の中にいた。

最近は寝ても悪夢しか見なかったのに、その日の夢は不思議な夢だった。何もない真っ白な空間で、ゆっくりと眠りにつく夢。誰かが頭を撫でてくれている。この感触を知っている。誰の手か、分かる。これはー…


はっと気づくと、外はもう明るかった。カーテンの隙間から光がさしていて、その光がソファに座っていた彼に当たっていた。

「……」

少し軽くなっている体を起こし、ベッドから降りてそっとソファに近づき、屈んで彼の顔を覗き込む。どうやら寝ているようだった。窓から差し込んだ光が彼のまつ毛に当たって、少しだけキラキラと光っている。何度見ても美形だ。インキュバスは、標的にした人間の好みに合わせた姿になれると聞いたことがあるが、本当なのだろうか。…というか、夢じゃなかったんだなぁ…。

「どう見ても本物だよなぁ…」

ソファに垂れた尻尾に触ろうとすると、グラートの目がぱちっと開いた。吸い込まれそうな瞳に、少しだけ体を引く。

「おはようございます…」

「……体は?」

ふあ、と欠伸をしながらグラートが言った。

「体?」

「良くなったかよ」

「…あ、…はい、少しだけ…。久々に、よく眠れた…ような」

「だろうな」

「?」

「夢を書き換えてやったからな」

「夢を?」

ぐっと伸びをして、グラートは立ち上がってカーテンを開ける。眩しそうに目を細め、翼と尻尾をパタパタとさせながら彼はまた口を開く。

「悪夢見てちゃ体休まんねぇだろ」

「あ…ありがとう」

自分の体を狙ってる奴にお礼を言うのはいかがなものかと思うけど、でも昨夜は本当によく眠れた。久々に、悪夢も見ず。とても有り難かった。

「大体なんでお前そんな体してんだ?毎日魔王とでも闘いに行ってんのかよ」

「ははは…まぁそんなようなもんかもしれません」

魔王ね。そうかも。会社という名の魔王城と上司という名の…

「あ!!」

ばっと時計を見た。9時20分。始業は9時。完全に遅刻だ。サーッと血の気が引いていき、グラートが声を上げた。

「うぉっ、顔色悪っ!お前まだ…」

「ど、どうしよう、やばい!」

「おい!?」

着替えようと服に手をかけたが、パジャマじゃなくてスーツのままだった。そうだ、昨日帰ってきてそのまま寝たんだ。顔も化粧を落としてない上に昨日泣いて無理やり拭いたままでぐちゃぐちゃ。髪も寝癖でめちゃくちゃ。絶望しながら洗面台に走って顔を洗っていると、後ろからグラートが声をかけてくる。

「おい」

「ごめん帰ってきてからまた話を聞くので!」

「その体でどこか行く気かてめぇは!?」

「いつものことなんで!でも今日はだいぶマシ!」

バシャバシャと水をはねさせながら顔を洗い、髪をとかす。そこで気づく。ああ、お風呂にも入ってない…!駄目だ、何からすれば…!

ふらふら、と濡れた顔のまま玄関に放ったままのスマホを手にとると、会社からの着信が鬼のよう。これは時間通りに出勤していない私を心配してのことではない、ただただ「ふざけんなさっさと仕事に来いてめぇ」という催促の電話である。

「おい床…」

顔から滴る水で濡れた廊下を見てグラートがタオルをこちらへ投げてくれた。

「あ、ごめん…ありがと…」

顔を拭いて、深呼吸してスマホから会社に電話をかける。案の定めちゃくちゃ怒られた。そりゃ寝坊した私が悪いけど、電話に出て早々一言目に「この愚図女!」と怒鳴ってくるのはどうなんだ。必死で謝って、すぐに支度して出勤すると告げて電話を切った。そしてカバンにスマホと冷蔵庫にあったゼリー飲料を突っ込んで、準備に戻る。ずっと黙っていたグラートが怪訝な顔でこちらを見ていた。

「そんな体で行くほど大事なところか?」

「…そう。そうです。そうじゃないと生活できない」

そう言っても納得してなさそうな顔で、彼は準備をする私を目で追っていた。準備が終わり、カバンを掴んで靴を履き始めたあたりで、彼は後ろからまた話しかけてきた。

「お前名前は?」

そういえば言ってなかったか。

「春子。時津春子。好きに呼んでくださいな。…勝手に呼んじゃってたけど、グラート、で良かった?」

「…別に構わねぇけどよ、本当にお前、」

「じゃ、行ってきます」

グラートはそれには答えることなく、私は扉を閉めて会社へ向かった。


やっと少し体を休めれたのに、また今日の仕事も地獄だった。遅刻してきたことを午前中の間ずーっとちくちく文句を言われ、相変わらず訳のわからないミスを押し付けられ、溜まっていくばかりの仕事。持ってきたゼリー飲料を飲む間もなく時間がすぎていき、いつの間にか夜7時。今日はもうこのへんで帰ってしまいたい。帰って部屋にいるインキュバスをどうするかについても考えきゃいけないのだ。けれど遅刻してきた手前、たまっている仕事を放っていくわけにもいかない。といっても私の担当の仕事ではないのだが。

せっかく少しよくなった体調も、またどんどん悪くなっていく。頭痛も貧血も酷い。けれどそれを上司に言ったところで、「他の人間はもっと仕事してる」だの「お前だけだ具合の悪いのなんて」などと言われるだけ。ああもう、本当に何もかも投げ出してしまいたくなる。どうかしてる、こんな会社。

「おい時津!」

「はい」

上司に呼ばれてそちらに駆け寄ると、こちらに唾を飛ばしてくるような勢いで怒鳴られた。

「何考えてる!?これはお前の仕事だろ!!」

そう言って投げられた書類の束は、…私の仕事ではなかった。いつものこと。そしていつもより更にひどく怒鳴りつけてくるのは、私が遅刻してきたから。私が、私が悪い。

そんなことを思いながら、頭痛は酷くなる一方で、体に力が入らなくなってきた。

「申し訳ありませ…」

「ぐっ…」

最後まで言葉を紡ぐ前に、上司のうめき声で遮られた。…うめき声?俯いていた顔を上げると、私の背後から伸びた誰かの手が、目の前の上司の顔を鷲掴みにしていた。苦しそうにうめき声を上げ目を見開いている上司にびっくりして後ろを振り返ると、グラートがいた。


「てめぇか?こいつの体の原因」

グラート、と分かるものの、角も尻尾も、翼も、尖った爪さえ無い。けれど人間と呼ぶにはあまりにも異質で、周りにいた会社の人間はみんな口を開きっぱなしでこちらを凝視している。瞳の色がそのままなのも詰めが甘いんじゃないのか、とかそんなことと同時に、なんで、いったい何処から。いつから。とも思った。

「なっ…なんだお前っ…!警察を呼べ!!」

上司が怒鳴るが、みんな固まったまま、誰も電話をとれない。上司が電話に伸ばした手を、グラートのもう片方の手が掴む。ギチギチ、と音がしそうな程強い力だった。上司が悲鳴を上げる。

「てめぇのせいで俺が迷惑してんだよ」

ぞっとするような表情で、グラートは上司に詰め寄った。「ひぃっ」と情けなく声を上げた上司はそのままぶるぶると震えだした。そして私に向かって悪態をついた。

「時津!!お前のせいか!?」

必死の形相で叫ぶ上司見て、恐ろしさよりもなんだか面白さが勝ってしまって、何かが切れたかのように笑ってしまった。

「あははは!」

突然笑い声をあげた私に、上司どころかグラートまで驚いてこちらを見た。

そうか、そうだ。どうかしてるのはこの会社だけじゃなかった。どうかしてる会社をどうにかしなかった私が一番どうかしていたのだ。

「本当にそう。こいつのせい。私のせいじゃない、こいつのせいだし、会社のせい」

そう言って上司に向かって告げた。

「今日で辞めます」

責任も仕事も押し付けてくる上司も、同僚も、新人も、会社も、どうでもいい。「辞めます」とたった一言告げるだけで何もかも壊れる人生なんて無い。この先苦しみながらずっとこの会社に出勤し続けるくらいなら、辞めて苦しんだ方がずっといい。なんでこんなことに気づかなかったんだろう。きっと体が限界だと、思考もおかしくなってくるのだ。

「ふざけるな時津…!」

「無理ですもう辞めます。あとの処理は後日ちゃんと済ませますけど、今日はもう帰るんで。じゃ」

カバンを掴んで部屋から出ようとするあたりで、彼の名を呼んだ。

「グラート帰ろう」

そう言うと、彼は上司から手を離してこちらへ向かってくる。懲りもせず、上司が鬼の形相で後から追ってこようとしたが、グラートの姿が一瞬で元に戻り、尻尾が生えてきたと同時に真っ黒な霧がぶわっと部屋に広がった。そのままドアを閉めると、中から音が聞こえなくなった。

「何したの?」

「数分後には全部忘れてるだろうよ」

「…便利」

「だろ?」

私が笑うと、彼もまた笑った。昨日会ったばかりの、しかも自分の体を狙ってるような男に安心感を覚えてしまうのは、きっとまだ体が疲れていて、正常な判断が出来ていないからだろう。それでも晴れやかになった気分と共に、彼と帰路についた。明日、正式に退職届を出そう。


マンションに戻ると、どっと疲れがきて玄関でつまずいてしまった。

「おいおい」

それでもグラートが腰を掴んでくれて、転ばずに済んだ。

「ごめん、ありがと大丈夫」

ふらふら、と歩いてベッドに座る。やってしまったなぁ、という気持ちはあったが、後悔はしていない。大丈夫、仕事ならまた見つかる。とりあえず今日のところは、この解放感を味わっていたい。隣に座ったグラートが、ため息を吐く。

「あんなことのためにそんな体になったのかよ」

「そう。…ほんと、馬鹿みたい。…でも、きっとグラートがいなかったらずっとあそこにいたかも。ありがとう」

「……別にお前のためじゃねぇけどな」

「私の体のためね。分かってるよ。…この部屋から出ることは出来るんだね」

「お前の家か、お前の側か、それ以外は無理だな。お前自身がいなくてもこの部屋に居ることは出来るが、お前の側から離れて外を自由にウロつくことは無理だ。だからこの部屋を出たらお前のいたあの会社まで勝手に引き寄せられた」

「なるほどね……まぁ、早く解放してあげないとね、あなたを」

「……」

「…昨日よりはね、体すこーしだけ楽だと思うから…試してみる?ちょっとは感じられるかも」

「………」

そう言うと、グラートはこちらに近づいてきた。押し倒されるかと思えば、引き寄せられた。彼の胸に突っ込んでしまって、心音が聞こえる。悪魔でも心臓あるんだ、なんて思っていると、ぎゅうっと抱きしめられた。

「…駄目だな、まだまだ全然本調子じゃねえ。睡眠時間も血も栄養も何もかも足りてねえ」

「すごい、そんなことまで分かるの?」

「これだけ密着するとな」

「そっか…」

無意識に、本当に無意識に、彼の背中に手を回していた。そうして更に彼の体温を感じると、我慢できずにぎゅっと抱きしめ返してしまった。

「おい」

何か文句を言いたげな彼だったが、無理矢理離そうとはしなかった。あたたかい。昨日、背中を撫でてくれた時もそうだったけど、彼は体温が高い。インキュバスってみんなこうなのだろうか。心地よくて、ずっとこうしていたい。離さずじっとしている私を、諦めたのかグラートはまた少し抱きしめてくれた。苦しいくらいに。

「……あなたに」

「あ?」

「あなたに、インキュバスに抱かれるのがどんな快感かは想像もつかないけれど、今はとっても、とっても気持ちいい」

「………そうかよ」


彼はそのまま黙って、しばらく私を抱きしめてくれていた。どく、どく、と互いの心音が重なって、少しだけ早まったそれはまた少しずつ小さく落ち着いていって、それと一緒に小さくなっていった頭の痛みは、いつの間にか消えていた。



続きを書けたら書きたい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ