2 無価値な存在
ディースブルク伯爵領に存在する伝説は、国外にも知れ渡っているとても歴史あるものだ。
そしてその伝説に基づいた祭りであるディースブルク伯爵領の討伐祭は、毎年多くの観光客が訪れる大きな催し物となり、その経済効果は莫大なものになる。
伝説の内容としては、戦の女神が魔力を持たないディースブルクの領民を魔獣たちから守るために様々な工夫をすることによって、民たちを守り切り最終的には魔獣を打ち倒すという伝説だ。
そしてその伝説の中で登場する民を守るためのアイテムとして、アマランスの花という球体の小さな花をつける植物を編んで冠にしたものが登場する。
そのアマランスの花冠は、魔獣たちの魔の手からディースブルクの民たちの姿を隠し、戦の女神は心置きなく戦うことができたという伝説のシロモノだ。
アマランスの花冠には姿をかくす効果があると言われていて、透明人間の伝説にも登場しているこのあたり特有の魔法道具だ。
そしてその伝説にあやかって、教会で戦の女神の加護をつけたアマランスの花冠を販売することによってディースブルクは多大な利益を生んでいる。
だからこそ年に一度開かれる討伐祭は、ディースブルク伯爵家にとってとても大切な意味を持っているのだ。
「出店については、治安を著しく乱すような物はメインの通りではなく娼館がある通りにするようにといったではありませんか! どうしてこのようなリストになっているのかすぐに確認してください!」
「はいっ」
「次……これ以上、運営費から予算を割くことはできません、自分たちで対処法を考えるようにと通達を!」
「わかりました!」
「次!……」
祭りが一か月後に迫った今の時期、ディースブルクの屋敷は、目まぐるしいほどの忙しさに見舞われる。
父は大概屋敷にいないので変わらないとしても、屋敷の中まで街の有力者たちが行き交うのでとてもあわただしい、そして数年前から母と街の準備に参加している爵位継承者である姉は今年も酷くやつれていた。
「ヴァネッサお姉さま、お久しぶりです」
そんな彼女に手間をかけることは、ラウラはとても気が引けることだった。
しかしニコラも慰めてくれた事だし、自分からも少しでも透明人間を脱却するために必要なことをするべきだと考えて、ラウラはヴァネッサの執務室を訪れた。
彼女に用件のある使用人たちの後ろに並んで婚約破棄の書類を手にして順番待ちをした。
ついにラウラの番になり、ラウラは久々に人に会ったのでいつもの通り気弱な眉を下げる笑い方をした。
「……」
「お忙しいところ申し訳ありません。お話があってまいりました」
「……」
「私の婚約破棄についてです。ご存じでしょう?」
持ってきていた婚約に関する書類綴りをラウラはヴァネッサの前へと差し出した。
しかし彼女はラウラのことをまじまじと見つめて、それからふと視線を逸らす。
それから大きく鋭い声で「次!」と言い放ったのだった。
……やっぱり駄目なのね……。
いつもどおり無視されたラウラは、静かにそう考えて、次に並んでいた使用人に順番を譲るように横にそれた。
すると申し訳なさそうに後ろに並んでいた人は会釈をしてから、ヴァネッサに用件を伝える。
それにヴァネッサははきはきと答えて、討伐祭の準備を進めていく。
確かに忙しいだろうことは理解しているし、一大イベントなのだから夢中になることだって仕方がない。
それでもラウラだって屋敷の屋根裏部屋でずっと今までも祭りの準備に参加していたし、ディースブルクの家に貢献しているつもりだ。
それがなぜこんなにも蔑ろにされなければならないのかわからなかった。
ラウラが落ち込んでいると、執務室にあまったるい声が響いた。
「お姉さま~。リーゼが来たわよ~。この平民どもを下がらせて」
はちみつでも喉に塗り付けてから声を出しているのかと疑うような甘い声で、リーゼが執務室の入口から声をかけた。
その様子にヴァネッサは一度、目を見開いてから額を抑えて頭を抱えたが、そばにいた使用人に合図をしてリーゼの言う通り用事があって来ていた彼らを全員下がらせた。
リーゼの隣には、レオナルトがいるが、最近はいつでもこうなので驚くこともなくその場にいたラウラとヴァネッサは、彼らが部屋の中に入ってくるのを見つめていた。
平民たちはすぐに使用人の指示に従って下がっていくが、ラウラはこの屋敷で透明人間なので声をかけられず、丁度婚約破棄についての話をしに来ていたので当事者の彼らもいることにチャンスだと思った。
「リーゼ。……私とレオナルト様との婚約破棄についての書類を見たのだけど、これでは私が有責で婚約破棄をするようなことになってしまっている」
言おうと思っていたことをラウラは部屋に入ってきた彼らに口にした。
ニコラの言葉通り、ラウラの生きている世界は狭く、家族と婚約者しか知らない。
だからこそ執着を断ち切って自由になるべきだというニコラの言葉を参考に、別の人を見つける為にせめて不利にならないようにラウラなりに主張をしようと考えたのだ。
「これでは私の経歴に傷がついてしまうし、別の婚約者を見つけることもできない。だからきちんと正しい理由を届け出るようにして、少しでも慰謝料のやり取りがあった方が━━━━」
「お姉さま、この部屋何かうるさくない?」
「……」
「悪霊でもついているんじゃなくて? 何かさっきからガヤガヤ変な音がするのよね、それも腹立たしい音!」
リーゼの言葉にラウラは思わず黙り込んだ。
彼女たちとは目が合わない。まるで自分が本当に透明人間になったような心地がする。
ラウラは今ここにいて、彼らとは家族で、姉妹できちんと血も繋がっているというのに、存在を許してはくれない。
黙り込んだラウラの事を見向きもせずに、ヴァネッサはリーゼの言葉に思わずといった感じでふきだした。
「っ、ふふっ、そうかもしれません。怠け者でごく潰しの幽霊でもすみついているんでしょう。気味が悪いです。本当にっ、さっさと出て言って欲しい」
「ねー! ほんとですわ! 邪魔、それであの人とレオナルト様との婚約破棄の件、適当にこっちで作っておいたわ。まったく、無意味で無価値な透明人間のくせに、レオナルトとの婚約破棄を拒むとか、腹が立ちますわ!」
「そうですかわかりました。リーゼに対処してもらって助かりました。これでやっとあのごく潰しを追い出す口実が出来ました」
目の前で繰り広げられる会話にラウラはついていけず、やっぱりただ、呆然としてしまって、彼女たちを見つめていた。
役に立つためにラウラだってきちんと仕事をしているのに、どうしてこんな風に言われなければならないのだろう。
ラウラにだって怒る権利ぐらいはあるはずなのに、声を荒らげるのも拳を握るのも得意ではない。
……それに、婚約破棄は私を追い出す口実にする予定だったのね。
今更ながらにその意図を知って体の力が抜けてしまう。
「これで心置きなく今年の討伐祭を迎えられます。
……それにこの部屋にいる悪霊も、討伐祭が終わるころには、自分でその存在の無価値さに気が付いていなくなるかもしれません。
……私としてはできるなら存在価値を証明してほしい所ですかが」
「何言ってますの! できるわけないわ。姉妹は私たち二人だけなんだから支え合って二人でがんばっていきましょうね、お姉さま」
「……そうですね」
「私の存在も忘れないでくれよ。イステル子爵家にリーゼをもらう立場として私たちも全力でこのディースブルク伯爵家に協力するからな」
今まで姉妹の話に口を挟まなかったレオナルトは、最後のいい所で共に協力すると口にして、リーゼは「流石レオナルト様! 頼りになりますわ!」と返し、ヴァネッサも彼に笑みを向けた。
家族ではないレオナルトですら彼女たちとの会話に入れているのに、今、この場にいる当事者であるはずのラウラは自分がまったく無視されている状況に耐えられず、視線を背けて急ぎ部屋を出ていこうと出入り口に足を向けた。
しかし、数歩歩きだしたところですれ違う時に、今まで無視を決め込んでいたレオナルトがスッとラウラの足元に足を差し出した。
……っ!
蹴躓いてバランスを崩す。
転ぶところまではいかなかったが、背後から小さく舌打ちの音が聞こえてきて、恐ろしくなりラウラはその場を離れたのだった。