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花幻  作者: 夏野
三章
9/11

 (かたく)なに閉ざされていたお葉の(まぶた)が、ぴくりと動いた。

「お葉、聞こえるか」

 やがてお葉は瞼を開けた。瞳の焦点が定まり、半次の声を識別すると、彼の方を向く。布団に寝かされているお葉の身体は、(なまり)のように重く、まだろくに動かすことができないようだ。

「…………」

 まだ声すらも、出せなかった。けれどお葉は、半次の存在を理解している。

 お葉は丸二日、眠っていた。

 街道に野ざらしにされたお葉を見つけたのは、半次と重蔵である。お葉の身に何があったのかは、一目瞭然だった。二人はお葉を店まで連れ帰り、それからは半次は、寝る間も惜しんで看病していたのである。

 翌日になると、お葉は半身を起こせるようになった。

「少しでも食っといた方がいいぜ。ゆっくりでいいからよ」

 半次がお葉のために(かゆ)を器によそっていると、ふいにお葉が尋ねた。

「ここは……?」

「布田五ヶ宿にある煎餅(せんべい)屋だ。いま俺、ここで働いてるんだぜ」

「……どうして私を……」

 なぜ半次が介抱してくれているのか。なぜ自分は布田五ヶ宿にいるのか。半次はお葉の身に起きたことを考慮して、この問いをはぐらかそうとする。

「どうでもいいじゃねぇか。ほら、早く食え……」

 半次がお葉の肩に手を触れた瞬間、お葉は目に見えてわかるほど、びくりと身体を震わせた。

「……!悪ぃ……」

「……今さら、気にしたりしない」

 お葉は平然を装おうとしたが、動揺は隠せずにいる。ふとしたことで、お葉は最悪の記憶を思い出してしまうのだ。それを、飯盛女郎をしていた自分が、今さらと、そんなことを言ってしまうお葉に、半次は何も言えなくなった。

 お葉は毎晩、自身がされたことを思い出しては泣いていた。怖がらせてはいけないと、半次も重蔵も、何もできなかった。

(千種さん……)

 涙が(あふ)れる中、必死に思い出すのは、千種の姿だった。

 ごろつきたちはお葉を口実に、千種を呼び出そうとしていた。でも、千種は来なかった。

 お葉は多大に打ちのめされている。

 危険な目に合うとわかっていて、来るはずがなかったのだ。でも、捕らわれている間、お葉は千種が来てくれると信じていた。

 信じたところで、裏切られる。身をもって知っていたことなのに、愛してしまえば、疑うことをしなかった。

「半次さん、私、もう出て行きます。お礼は後で必ずしますから」

「出て行くってどこに……千種っていう男のところに戻るつもりか」

 半次は千種の名前を知っていた。しかしお葉はそのことを気にとめる余裕はなく、一刻も早く、半次の元から姿を消したかった。

「まだ身体も本調子じゃないんだ。しばらくここにいろよ」

「これ以上、迷惑はかけたくありません」

「迷惑なもんか。散々(ひど)い目に合ったくせに、またその男のところに戻るのかよ」

 どの口が言うのか。半次は自分でそう思った。しかも、お葉に対して、言葉を選ばすに言ってしまったことも、後ろ髪を引かれる。だが、半次は冷静ではいられなかった。

「千種さんのところには戻りません」

「じゃあどこに行くってんだ。頼れる人もいないくせに、強がるんじゃねぇ!」

「……また、女郎に戻ればいい」

「ばか言うな!」

 半次はお葉の気持ちも(かえり)みず、彼女の両肩を(つか)まえる。

「身元も確かじゃない女なんて、どこも雇ってくれないのよ。女郎になるしかないじゃない」

 お葉は泣きそうだった。お葉をこんな考えにしたのは、誰だ。半次はそれが自分だとわかっている。

「俺と一緒にいればいい」

 半次はお葉を押し倒した。かつてしたように、お葉を感じようとするも、お葉に本気で抵抗される。

「抱きたいなら、女郎になってから抱いて……」

 その言葉で、半次は力を失った。

(なぐさ)め方なんて、これしか知らねぇんだ……」

 覆い被さっている半次が静かに流した涙が、お葉の(ほお)に垂れる。どうして彼が泣くのか、お葉にはわからなかった。

 半次はお葉から身を離すと、部屋を出て行った。


 町の外れに、小さな尼寺がある。その尼寺には重蔵と同じ歳くらいの尼僧がいた。今までは一人で切り盛りしていたのだが、歳を取るにつれ、段々と手が回らなくなり、下女を募集していた。

「俺は反対だ。尼寺なんかに、お葉を預けられるか」

 重蔵は尼僧と知り合いで、お葉を下女にと紹介しようとした。しかし、半次が許そうとしない。お葉と離れるのが、耐えられなかった。

「このままじゃお互い幸せになれないのは、お前さんが一番よくわかってるだろ。お前さんはまた、同じことをくり返すつもりか」

「…………」

「別に会えなくなるわけじゃねぇんだ。もう一度、死ぬ気で頑張ってみろ」

 重蔵に説得され、半次はしぶしぶ(うなず)いた。そして尼寺に下女として行くことに、後で確認したお葉にも異論はなかった。

「親父、これは……」

 半次は部屋の端に置かれていた一枚の紙を目にして、重蔵に尋ねた。

「さっき代官所の役人が持ってきた手配書だ。ここらにも来るかもしれねぇって、知らせに来たんだ」

 半次は手配書に書かれている名前と顔を見て、目を見開いた。


   *


 お葉が姿を消した。そんな前触れはなかった。むしろこれからも共にいてくれると、浮かれていた。

 実はお葉は、早く逃げ出したかったのではないだろうか。逃げていいと言ったのは自分だ。でも、お葉が自ら姿を消したとは、認めたくない。

 どうしても、ほしかった。三十両で身請けできたとは思えないほど、心に刺さる女だ。だけど、すべてが自分の思い通りになると考えるほど、傲慢(ごうまん)でもなければ子どもでもない。

 お葉が自分のことを好きにはなってくれない可能性があることなんて、百も承知していた。ろくな生き方をしてこなかった男に惚れるわけがないと、惚れてはいけないと強がってみせたときもある。

 どだい無理な話だった……とは、未練にまみれていて自分に言い聞かせられなかった。

 まさか、何かあったのではないかと案じもした。だが、調べた限りでは特に事件という事件も起きていない。でも、自分の知らないところで、事件にでも巻き込まれたのではないか。お葉は無事なのだろうか。

 お葉の姿を見ない限り、千種の心の焦燥(しょうそう)は止まない。

(くそっ……!)

 千種はお葉を探して町を歩いている最中、誰かにつけられていることに気づいた。今はお葉のことで頭がいっぱいで、一刻も早く彼女を見つけたいというのに。

 不機嫌な千種は、わざと行き止まりの場所まで歩を進めた。千種をつけていた男たちは、簡単に追い詰めることができたと思って油断している。

「何の用だ?」

 千種は男たちの顔に見覚えがあった。おみつの言っていた、ごろつきたちだ。

 何がおかしいのか、男たちは嫌な笑みを浮かべながら話した。

「お前は薄情な男だな」

「どういう意味だ」

「惚れた女を見捨てるなんざ、よっぽど俺たちのことが怖かったのかよ」

「見捨てる……てめぇら、お葉に何かしたのか!」

 お葉がいなくなった原因が、彼らに関係しているとすれば……千種の怒りは頂点に上がった。

「おみつから聞かなかったのか?」

「おみつ……」

 たしかお葉が姿を消した日、おみつは家に来ていた。しかし彼女は、お葉のことを尋ねても、いなかったと答えている。

「こいつは傑作(けっさく)だぜ。おみつの奴、もらうだけもらって、お前に隠しやがった」

 男は言い終わるのと同時に、千種に殴られた。

 倒れた拍子に男の(ふところ)から地面に転がった匕首(あいくち)を千種は奪い、一人の男の首に突きつける。あとの二人は、身動きができなくなった。

「お葉に何をしたって聞いてるんだ」

 千種の男を見下ろす目は、氷のように冷たい。男を殺そうとする意思に、躊躇(ためら)いがなかった。

「あの女を人質にとって、お前を呼び出したんだ……恨むならおみつを恨め!お前が来なかったら、あの女は俺たちが可愛がってやった……」

 言い終えるよりも前に、千種は匕首を男の喉元に突き刺した。

 千種はすばやく匕首を抜いて、近くにいた一人の腕を切りつける。次いで短い悲鳴を上げた男の心臓に、突き刺した。残る一人も、千種の氷の目からは逃れられなかった。

「お葉はどこにいる」

「か、街道に捨てた……」

 正直に言えば千種は見逃してくれるのではないかという一縷(いちる)の望みは、虚しく切り裂かれた。

「ひいっ……!」

 何の因果か、千種が表具屋としてのはじめての客であった老婆が、千種の犯行を目撃して、腰を抜かしている。

 千種は顔に飛び散った血を吹いて、その場を去った。

 家に帰ると、会いに行こうとしていた人物が来ていた。

 おみつはただならぬ千種の気配を感じ取って、後退(あとじさ)る。背中に壁が当たると座り込むほどに、鬼気迫るものがあった。

「てめぇ、よくも(あざむ)いてくれたな。あいつらとは仲間だったのか」

「違う……千種が甲州街道の方に行ったっていうのを聞いただけで、ただそれだけよ!」

 おみつは、男たちの(たくら)みまでは知らなかった。しかし、男たちは千種に因縁(いんねん)をつけている。きっとお葉を利用して、千種を(おとしい)れるだろうとは予想していた。だが、千種には無事でいてほしい。邪魔なお葉はどこかに消えてほしい。そう考えたとき、お葉のことは黙っていようと知恵が浮かんだのだ。

「もしあいつらの言う通りにしていたら、千種が殺されてた……」

「たとえ俺が死ぬことになっても、お葉が(はずかし)められることはなかった」

 千種はまだ、男たちを殺傷せしめた匕首を持っていた。匕首をおみつの前に掲げると、彼女は泣きながら命乞いをする。

「お願い……許して……」

 千種は匕首を放り投げて、家を飛び出した。

 おみつは殺さなかった。おみつに対しては殺意も、何の感情もない。

 再び千種はお葉を探す。彼はごろつき三人を殺害した犯人として、お尋ね者になっていたのだった。

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