二
千種に行きたい場所はあるかと問われたが、特にないとお葉は答えた。例えば西国まで行きたいと言って、彼が連れて行ってくれるのだろうか。その前に、またどこかの宿場町で、売られるかもしれない。手形を持っていないと伝えれば、手形くらい簡単に偽装できると言ってのける。
「とりあえず、八王子にでも行くか」
二人は内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を目指す。
道中、休み休み移動し、初日は府中に泊まることにした。
千種は適当に旅籠を見つけて、中に入ろうとする。が、お葉は立ち止まった。
「どうした?違うとこがいいなら……」
「何でもありません」
お葉が中に入るのを躊躇ったのは、千種がこの旅籠に自分のことを売ろうとしているのではないかと、怯えてしまったからだった。
しかし中に入ってみれば、この旅籠は飯盛女郎のいない、老夫婦の営む普通の旅籠であった。
「急に旅をしたもんだから、疲れてるだろ。ゆっくり休め」
お葉は念仏のように、騙されないと、心の中で唱えていた。
もっと早く歩けるだろうに、歩く速さを合わせてくれたことも、時折、きれいな景色に気づいて教えてくれたことも、すべて嘘に違いない。
たとえどこかに売られることになっても、はじめから騙されていると思っていれば、いざというときに辛くないと、お葉は自身に言い聞かせた。
「あらぁ、本当に顔色が悪そうですね」
旅籠の女将が食事を運びに来たとき、お葉を見てそう言った。
「そちらの旦那様が心配して、何か精の付く物を作ってくれって言いに来ましたものですから。お医者をお呼びしましょうか?」
(旦那様……)
一瞬、千種がそう思われていることにどきりとしたが、お葉はすぐに思い直す。千種は周りに怪しまれないように、自分とお葉は夫婦なのだと説明したのだろう。
「いえ、疲れているだけですから……お気遣いありがとうございます」
何かあったら呼んでくださいと、女将は親切だった。
お葉は千種にも、お礼を言いたかった。でも、騙されているだけだと思う気持ちが、言葉にしてはくれない。千種に、薄情な女だと思われただろうか……
「ほら、冷めないうちに食えよ」
丸々と太い鯉の切り身が、汁の中に浮かんでいて、味噌のいい匂いが心を和ませてくれる。
「鯉こくだ。まっこと美味ってやつだ」
お葉はこの料理を知らなかった。だが、食欲の前に躊躇いはない。
まずは汁を口の中に流し込む。鯉の出汁がふんだんに感じられ、舌を鳴らす。すぐに身も食べたくなって、箸でほぐしてみる。くせのある、けれど噛むたびに味わい深くなる料理に夢中になった。
「まっこと、美味です」
千種は安心したように笑った。
夕餉を食べ終え、辺りが暗くなれば、お葉は早々に寝床に着いた。お葉は眠る前、衝立の向こう側にいる千種がまだ起きている気配を感じた。
(一体、どういうつもり……)
今宵も千種は体を求めなかった。好きならばなぜ、抱いてくれないのか。好きではないから、抱かないのか。
千種といると、自分が飯盛女郎をしていたことを忘れそうになる。
その中、お葉は瞼の重さに耐えられなくなって、眠りについた。
ふと夜中に目が覚めた。
視界が暗闇なので、まだ起きるには随分と早いのだと、再び眠りにつこうとするも、中々に眠れない。部屋が静寂に満ちているとわかるや、お葉は千種の寝息が聞こえないことに不安になる。衝立を除けてみれば、布団はもぬけの殻だった。
「…………」
やはり、騙されたのだ。
今度はどこに、売られるのだろう。それとも姿を消して、ひとりぼっちにさせただけなのか。
千種が裏切ることは、わかっていたことだ。あんなに言い聞かせていたことなのに、どうして涙が出るのだろう。
追いかけたところで、千種はもういない。お葉は布団の中で、誰が聞いているというわけではないのに、声を押し殺して泣いた。
「お葉……!」
障子戸の開いた音には気づかず、けれど千種の声はしかと聞こえた。
「どうした……」
ただ事ではないお葉の様子に、千種が懸命に話しかける。
千種がいるとわかっても、お葉の涙は止まらなかった。今度は千種の声に、存在に安堵して、泣いてしまうのだ。
千種はお葉が泣き止むまで、布団越しに背中を撫でていた。
「怖い夢を見たの……」
子どもではあるまいし、上手な嘘とはいえない。でも、千種の姿がなくてとは、言えなかった。いつか騙される人に、正直にはなれなかった。
「ごめん……」
心配してくれた千種に謝ろうとして、お葉は途中で言葉を失う。千種に手を握られたからだった。
「明日になったら、いい話を聞かせてやる」
お葉の嘘を見透かしたのか。それとも信じたのか。除けられた衝立を見て、彼は何を思ったのか。お葉はわからないし、知る勇気もない。
お葉は千種の手を、握り返した。
何人もの男の手を握ってきたのに、こんなに温かく、絡めたいと願ったことはなかったはずだ。なのに、この手の大きさを、感触を、覚えている気がする。気のせいだと思う前に、お葉は眠りについていた。
翌日、八王子に着いた二人は旅籠ではなく、とあるぼろ家に向かっていた。というのも昨夜、寝付けない千種が旅籠の主人と晩酌をしていたときのことである。
年寄りになると、何度も目が覚めてしまうと笑いながら、主人は愛想良く話した。
「お前さんたち、これからどこに行きなすんだ」
「とりあえず、八王子へ」
「何だい、目的地はないのかい?」
「江戸で金が貯まったから、どこぞに腰を落ち着けて、商売でもできたらって思ってるんだが、まあ、あてはねぇんで」
長年、旅籠を営み、たくさんの人を見てきた主人は、千種が気質の人間ではないことを、見抜いていた。お葉のこともまた、春を売っていた名残を感じ取っている。
しかし客の素性を暴くようなことは、今までもしてこなければ、二人のことも深く詮索はしなかった。
「八王子に行くといったね」
「ああ」
「ならちょうどいい。私の兄が住んでいた家があるんだが、そこに腰を落ち着けちゃあどうだい」
独り身であった兄が亡くなってから、その家は無人だという。大通りからは離れていて、店を構えるにも客が寄りつく場所ではなく、買い手が付かないので持て余していると、主人が言った。
ただの男女の二人連れなら、主人は家のことを話さなかった。だが、お葉の体調を心配する千種の様子を見て、話してみようという気になったのである。
持ち主が亡くなってから、手入れも何もしていないから、かなり朽ちているかもしれないということ。店を構えるのには不都合な場所ということ。この二つさえ飲んでくれれば、安値で売るとのことで、千種は翌朝、お葉に相談した。千種が言っていたいい話とは、このことである。お葉も文句などなく、二人は主人から家を買ったのであった。
「きれいにすりゃ、なかなかいい家じゃねぇか」
実際に着いてみると、たしかに家の中は汚かった。扉の立て付けも悪いが、それはあとで直すことにして、とりあえず、寝床だけは確保しようと、家に着くなり大掃除が始まった。
二間しかない家だが、二人が生活するのには、十分な広さである。
(本当に、ここに住む気……?)
千種が騙しているような素振りは毛ほどもなく、いつしかお葉の気も、緩みがちになった。油断してはいけないと思いながらも、これから暮らす家が気に入ってしまった。
「千種さんのやりたいことって、何ですか?」
あとは寝るだけとなった夜、またしても夜更かしをしようとしている千種に、思い立ってお葉が尋ねる。お葉が気になっていたことであった。
「表具屋だ」
表具屋とは、障子を張り替えたり、掛け軸などを作成したりする、職人である。過去に危ない橋を渡っていた人間が考える仕事にしては、意外な職であった。
「こう見えて、手先は器用でよ。はじめからうまくいくわきゃねぇが、いつかは表具屋として食っていけたらって思うよ」
これからのことを考えている千種を目の当たりにして、お葉は焦った。千種と共に生活するにしろ、しないにしろ、生きていくためには職を見つけなければならない。千種のように、これといってできるものは何もないのだから、もっときちんと考えなければならないのは自分だと、お葉は情けなくもなる。
それに、千種が身請けしてくれた三十両という金は、お葉が一生かかっても、稼げない額である。どう償えばいいのかわからず、目眩がしそうだった。
翌日、お葉は家の掃除を終えるなり、町に行ってしまった。仕事を探しに行くと言っていたが、お葉はこのままいなくなってしまうのではないかと、後になって千種は懸念した。そう感じたのは、お葉がいつまでも他人行儀だからである。
まだ、二人は他人のままだった。このままお葉がいなくなってしまったとしても、おかしくはない関係である。
千種はふらふらと、お葉を探しながら町の中を歩く。
「千種」
ふと女に呼び止められて、でもお葉の声、呼び方ではないと理解しつつ、振り返る。
「……おみよ」
なぜ彼女が、こんなところに……
驚く千種とは裏腹に、おみよは顔を綻ばせて千種に駆け寄った。
「お前、なんで八王子にいるんだ」
「何でって、千種を追って来たのよ」
「俺を……」
「甲州街道の方に行くのを見た人がいたから、その人から聞いて来てみたの。でもよかったわ。八王子を過ぎてたら、諦めようって思ってたのよ」
「いくらほしい?」
「……え?」
「大方、博打で大儲けをしたって聞いたんだろ。渡せるだけの金はやるから、さっさと消えろ」
おみよは千種の素っ気ない態度にめげずに、千種にしなだれかかろうとした。が、千種は背を向けた。
「いい女と一緒にいるんだ」
おみよは千種の、昔の馴染みであった。彼女が働いていた茶屋では皆、御上に隠れて色を売っていて、おみよもその一人であり、千種はおみよの客であった。つかず離れず関係は続いていたが、もう六年も前に、関係は消滅していた。別れてから一度も会ったことはなく、お互いどうしていたかはわからなかったはずだ。なのにおみよは今になって、千種を追いかけてきた。
「ふーん……一つ忠告してあげる。あんたが一家にいたとき懲らしめてた連中を、この辺で見たわ」
「俺には関係ねぇ」
そうは言ったものの、千種は内心、穏やかではなかった。
すでに一家を抜けたとはいえ、連中がそうですかと納得するわけもなく、だが事を荒立てる事態にはなりたくない。
たとえ見つかっても、相手にしなければいいのだ。もう一家とは何の関わりもないのだから。
千種はこのときの考えが甘かったことを、あとで思い知ることになる。