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花幻  作者: 夏野
二章
6/11

 千種に行きたい場所はあるかと問われたが、特にないとお葉は答えた。例えば西国まで行きたいと言って、彼が連れて行ってくれるのだろうか。その前に、またどこかの宿場町で、売られるかもしれない。手形を持っていないと伝えれば、手形くらい簡単に偽装できると言ってのける。

「とりあえず、八王子にでも行くか」

 二人は内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を目指す。

 道中、休み休み移動し、初日は府中に泊まることにした。

 千種は適当に旅籠(はたご)を見つけて、中に入ろうとする。が、お葉は立ち止まった。

「どうした?違うとこがいいなら……」

「何でもありません」

 お葉が中に入るのを躊躇(ためら)ったのは、千種がこの旅籠に自分のことを売ろうとしているのではないかと、(おび)えてしまったからだった。

 しかし中に入ってみれば、この旅籠は飯盛女郎のいない、老夫婦の営む普通の旅籠であった。

「急に旅をしたもんだから、疲れてるだろ。ゆっくり休め」

 お葉は念仏のように、騙されないと、心の中で唱えていた。

 もっと早く歩けるだろうに、歩く速さを合わせてくれたことも、時折、きれいな景色に気づいて教えてくれたことも、すべて嘘に違いない。

 たとえどこかに売られることになっても、はじめから騙されていると思っていれば、いざというときに辛くないと、お葉は自身に言い聞かせた。

「あらぁ、本当に顔色が悪そうですね」

 旅籠の女将(おかみ)が食事を運びに来たとき、お葉を見てそう言った。

「そちらの旦那様が心配して、何か精の付く物を作ってくれって言いに来ましたものですから。お医者をお呼びしましょうか?」

(旦那様……)

 一瞬、千種がそう思われていることにどきりとしたが、お葉はすぐに思い直す。千種は周りに怪しまれないように、自分とお葉は夫婦なのだと説明したのだろう。

「いえ、疲れているだけですから……お気遣いありがとうございます」

 何かあったら呼んでくださいと、女将は親切だった。

 お葉は千種にも、お礼を言いたかった。でも、騙されているだけだと思う気持ちが、言葉にしてはくれない。千種に、薄情な女だと思われただろうか……

「ほら、冷めないうちに食えよ」

 丸々と太い鯉の切り身が、汁の中に浮かんでいて、味噌のいい匂いが心を和ませてくれる。

(こい)こくだ。まっこと美味ってやつだ」

 お葉はこの料理を知らなかった。だが、食欲の前に躊躇いはない。

 まずは汁を口の中に流し込む。鯉の出汁(だし)がふんだんに感じられ、舌を鳴らす。すぐに身も食べたくなって、箸でほぐしてみる。くせのある、けれど噛むたびに味わい深くなる料理に夢中になった。

「まっこと、美味です」

 千種は安心したように笑った。

夕餉を食べ終え、辺りが暗くなれば、お葉は早々に寝床に着いた。お葉は眠る前、衝立(ついたて)の向こう側にいる千種がまだ起きている気配を感じた。

(一体、どういうつもり……)

 今宵も千種は体を求めなかった。好きならばなぜ、抱いてくれないのか。好きではないから、抱かないのか。

 千種といると、自分が飯盛女郎をしていたことを忘れそうになる。

 その(うち)、お葉は(まぶた)の重さに耐えられなくなって、眠りについた。


 ふと夜中に目が覚めた。

 視界が暗闇なので、まだ起きるには随分と早いのだと、再び眠りにつこうとするも、中々に眠れない。部屋が静寂(せいじゃく)に満ちているとわかるや、お葉は千種の寝息が聞こえないことに不安になる。衝立を()けてみれば、布団はもぬけの殻だった。

「…………」

 やはり、騙されたのだ。

 今度はどこに、売られるのだろう。それとも姿を消して、ひとりぼっちにさせただけなのか。

 千種が裏切ることは、わかっていたことだ。あんなに言い聞かせていたことなのに、どうして涙が出るのだろう。

 追いかけたところで、千種はもういない。お葉は布団の中で、誰が聞いているというわけではないのに、声を押し殺して泣いた。

「お葉……!」

 障子戸の開いた音には気づかず、けれど千種の声はしかと聞こえた。

「どうした……」

 ただ事ではないお葉の様子に、千種が懸命に話しかける。

 千種がいるとわかっても、お葉の涙は止まらなかった。今度は千種の声に、存在に安堵(あんど)して、泣いてしまうのだ。

 千種はお葉が泣き止むまで、布団越しに背中を撫でていた。

「怖い夢を見たの……」

 子どもではあるまいし、上手な嘘とはいえない。でも、千種の姿がなくてとは、言えなかった。いつか騙される人に、正直にはなれなかった。

「ごめん……」

 心配してくれた千種に謝ろうとして、お葉は途中で言葉を失う。千種に手を握られたからだった。

「明日になったら、いい話を聞かせてやる」

 お葉の嘘を見透かしたのか。それとも信じたのか。除けられた衝立を見て、彼は何を思ったのか。お葉はわからないし、知る勇気もない。

 お葉は千種の手を、握り返した。

 何人もの男の手を握ってきたのに、こんなに温かく、絡めたいと願ったことはなかったはずだ。なのに、この手の大きさを、感触を、覚えている気がする。気のせいだと思う前に、お葉は眠りについていた。


 翌日、八王子に着いた二人は旅籠ではなく、とあるぼろ家に向かっていた。というのも昨夜、寝付けない千種が旅籠の主人と晩酌をしていたときのことである。

 年寄りになると、何度も目が覚めてしまうと笑いながら、主人は愛想良く話した。

「お前さんたち、これからどこに行きなすんだ」

「とりあえず、八王子へ」

「何だい、目的地はないのかい?」

「江戸で金が貯まったから、どこぞに腰を落ち着けて、商売でもできたらって思ってるんだが、まあ、あてはねぇんで」

 長年、旅籠を営み、たくさんの人を見てきた主人は、千種が気質(かたぎ)の人間ではないことを、見抜いていた。お葉のこともまた、春を売っていた名残を感じ取っている。

 しかし客の素性を暴くようなことは、今までもしてこなければ、二人のことも深く詮索(せんさく)はしなかった。

「八王子に行くといったね」

「ああ」

「ならちょうどいい。私の兄が住んでいた家があるんだが、そこに腰を落ち着けちゃあどうだい」

 独り身であった兄が亡くなってから、その家は無人だという。大通りからは離れていて、店を構えるにも客が寄りつく場所ではなく、買い手が付かないので持て余していると、主人が言った。

 ただの男女の二人連れなら、主人は家のことを話さなかった。だが、お葉の体調を心配する千種の様子を見て、話してみようという気になったのである。

 持ち主が亡くなってから、手入れも何もしていないから、かなり朽ちているかもしれないということ。店を構えるのには不都合な場所ということ。この二つさえ飲んでくれれば、安値で売るとのことで、千種は翌朝、お葉に相談した。千種が言っていたいい話とは、このことである。お葉も文句などなく、二人は主人から家を買ったのであった。

「きれいにすりゃ、なかなかいい家じゃねぇか」

 実際に着いてみると、たしかに家の中は汚かった。扉の立て付けも悪いが、それはあとで直すことにして、とりあえず、寝床だけは確保しようと、家に着くなり大掃除が始まった。

 二間しかない家だが、二人が生活するのには、十分な広さである。

(本当に、ここに住む気……?)

 千種が(だま)しているような素振りは毛ほどもなく、いつしかお葉の気も、緩みがちになった。油断してはいけないと思いながらも、これから暮らす家が気に入ってしまった。

「千種さんのやりたいことって、何ですか?」

 あとは寝るだけとなった夜、またしても夜更かしをしようとしている千種に、思い立ってお葉が尋ねる。お葉が気になっていたことであった。

「表具屋だ」

 表具屋とは、障子を張り替えたり、掛け軸などを作成したりする、職人である。過去に危ない橋を渡っていた人間が考える仕事にしては、意外な職であった。

「こう見えて、手先は器用でよ。はじめからうまくいくわきゃねぇが、いつかは表具屋として食っていけたらって思うよ」

 これからのことを考えている千種を目の当たりにして、お葉は(あせ)った。千種と共に生活するにしろ、しないにしろ、生きていくためには職を見つけなければならない。千種のように、これといってできるものは何もないのだから、もっときちんと考えなければならないのは自分だと、お葉は情けなくもなる。

 それに、千種が身請けしてくれた三十両という金は、お葉が一生かかっても、稼げない額である。どう(つぐな)えばいいのかわからず、目眩(めまい)がしそうだった。


 翌日、お葉は家の掃除を終えるなり、町に行ってしまった。仕事を探しに行くと言っていたが、お葉はこのままいなくなってしまうのではないかと、後になって千種は懸念(けねん)した。そう感じたのは、お葉がいつまでも他人行儀だからである。

 まだ、二人は他人のままだった。このままお葉がいなくなってしまったとしても、おかしくはない関係である。

 千種はふらふらと、お葉を探しながら町の中を歩く。

「千種」

 ふと女に呼び止められて、でもお葉の声、呼び方ではないと理解しつつ、振り返る。

「……おみよ」

 なぜ彼女が、こんなところに……

 驚く千種とは裏腹に、おみよは顔を(ほころ)ばせて千種に駆け寄った。

「お前、なんで八王子にいるんだ」

「何でって、千種を追って来たのよ」

「俺を……」

「甲州街道の方に行くのを見た人がいたから、その人から聞いて来てみたの。でもよかったわ。八王子を過ぎてたら、(あきら)めようって思ってたのよ」

「いくらほしい?」

「……え?」

「大方、博打で大(もう)けをしたって聞いたんだろ。渡せるだけの金はやるから、さっさと消えろ」

 おみよは千種の素っ気ない態度にめげずに、千種にしなだれかかろうとした。が、千種は背を向けた。

「いい女と一緒にいるんだ」

 おみよは千種の、昔の馴染みであった。彼女が働いていた茶屋では皆、御上に隠れて色を売っていて、おみよもその一人であり、千種はおみよの客であった。つかず離れず関係は続いていたが、もう六年も前に、関係は消滅していた。別れてから一度も会ったことはなく、お互いどうしていたかはわからなかったはずだ。なのにおみよは今になって、千種を追いかけてきた。

「ふーん……一つ忠告してあげる。あんたが一家にいたとき()らしめてた連中を、この辺で見たわ」

「俺には関係ねぇ」

 そうは言ったものの、千種は内心、穏やかではなかった。

 すでに一家を抜けたとはいえ、連中がそうですかと納得するわけもなく、だが事を荒立てる事態にはなりたくない。

 たとえ見つかっても、相手にしなければいいのだ。もう一家とは何の関わりもないのだから。

 千種はこのときの考えが甘かったことを、あとで思い知ることになる。

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