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花幻  作者: 夏野
一章
2/11

 お葉が帰宅したときには、辺りは薄暗くなっていた。

「遅いじゃないか。ここんとこ毎日、どこほっつき歩いてたんだい」

 おくみはお葉の姿を見るなり、険しい顔で怒鳴りつける。おくみの夫の亀三もすでに、帰ってきていた。

「すみません。最近、お店が混んでるから……」

 かん、とおくみが折れてしまいそうなほど、思い切り煙管(きせる)を叩きつけた音に、お葉は身を(すく)ませる。

「言い訳なんか聞きたくないよ。口を動かす前に、早く夕餉(ゆうげ)の準備をしたらどうだい」

 謝らなかったら謝らなかったで、おくみは怒るに決まっている。何にせよ、お葉は怒鳴られていたのだ。

 しかし帰りが遅くなった本当の理由を隠しているお葉は、自分が悪いのだという自負もある。

 仕事終わりに、お葉は毎日のように神田明神で半次と逢い引きをしていた。殿方と会って帰りが遅いと言えば、おくみは何と言うだろうか。想像もしたくないほどに、半次のことは言えなかった。

「まったく、お前ときたら。どうしても困ってるっていうから、面倒を見てあげているのに、自分が世話になってるっていう自覚がないのかねぇ。いつまで経っても、どんくさいままだよ。父親にそっくりだ」

 お葉が夕餉を作っている間にも、おくみの嫌みは止まらない。それはお葉の帰りが遅くなくても、いつものことである。

 自分のことを悪し様に言われるのならば、我慢すればいい。でも、父親のことを悪く言われるのは、最も心が痛む。

 確かに父は、お金を借りたことで迷惑をかけたかもしれない。だけどすべて返済して、もう故人であるというのに、いつまでおくみは嫌みを言い続けるつもりだろうか。

(半次さん……)

 お葉は辛いときに、半次の顔を思い浮かべるようになった。あの甘い声、優しい顔を思い出すたびに、ぽうっと明かりが灯る心地になるのだ。

(早く、ここから出たいのに……)

 もう一人でも生きていける。おくみの嫌みの届かない場所で、半次と逢瀬(おうせ)を重ねる。その幸福がほしかった。

「聞いているのかい」

 おくみの(するど)い声で、お葉は我に返った。

「明日から帰りが遅くなったら、夕餉を抜きにするからね」

「そんな……」

 ばんっ、と今度は自らの(てのひら)で、おくみは思い切り畳を叩きつけた。

「わかったね」

「……はい」

 大きな音を出せば、お葉が服従してくれるのを、おくみは知っていた。

 お葉は必死に、半次の姿を思い出していた。


 神田明神の桜は、見事に終わりを迎えようとしている。咲き始めるのはまだかまだかと待ち遠しいものを、散るときはあっという間だ。

 お葉は少し(さみ)しくなった境内で、半次に言った。

「ごめんなさい。もう仕事終わりに会えない……」

 今日もすぐ家に帰るしかないと断っていた。

「……俺のこと、嫌いになった?」

「違うの……」

 叔母が許してくれないと言って、半次に余計な心配をかけたくない。だが、このままでは半次との縁が消えてしまいそうで、お葉は気が気でなかった。

「お葉がもう会いたくないってんなら、仕方ねぇ。でも、他に理由があるなら、話してくれよ」

「半次さん……」

 会いたくないわけがない。半次がこんなにも、親身になっている。その事実に、目に熱いものが込み上げた。

 だが無情にも、お葉には帰る刻限が迫っていた。

 この日は理由を言わないまま別れて、半次に打ち明けたのは、三日後の店が休みの日である。

 場所はまた、神田明神であった。

 お葉は自らの身の上を語った。そしておくみの家を出たくても抜け出せないことも、打ち明けていた。

「そうか……でも、お葉はちゃんと、自分の分のお金は渡してるんだろ」

 お葉は静かに(うなず)いた。

 正確には、お葉は自分の生活費以上の金を、毎月おくみに渡していた。おくみの言う利子の分である。嫌みを言う叔母とはいえ、厄介になっているという事実もあるから、多くお金を渡すことには、躊躇(ためら)いがなかった。

「お葉の稼ぎがねぇと、大変なのか?」

「ううん、叔父さんの稼ぎがあれば、食べるには困らないと思う」

 お葉がいれば、叔父の稼ぎだけではつましくなるが、お葉がいなければ何の問題もないとも、言い換えることができる。

 おくみと亀三には二人の息子がいるが、どちらも奉公に出ていて今は家にいない。子どもが家にいた時分は、おくみは内職をしていて、子どもが家を出てからも小遣い稼ぎにやっていたが、お葉が来てからはやめていた。お葉が渡す色のついた分の金を、おくみは小遣いにしていたのである。お葉を引き留める理由も、そこにあった。お金のことだけではなく、お葉は家事の一切を任されており、楽ができるようになったおくみは、段々と肥えていた。亀三にいたっては、お葉に辛く当たらないが、ほとんど会話すらしようとしない。亀三の立場からすれば、お葉はまったくの他人とも(とら)えられるが、おくみのお葉に対する態度も放任している。

「叔母さんね、相当怒るときは手を上げるの。だからこれ以上、家を出たいなんて言ったら……」

 誇張ではなく、事実、お葉はおくみに手を上げられたことが何度もある。身体に染みこんだ恐怖も、おくみに服従する一因であった。

「ひでぇな」

 半次としても、よい解決策は浮かばないのだろう。どこかやるせなく言った。

「お葉の力になれなくて、ごめんよ……」

「そんなことないわ。私ね、下を向きそうになったら、いつも半次さんのことを考えてるの。半次さんのことを考えていれば、辛くても我慢できるから」

 少し驚いた表情をした後に、半次は微笑んだ。お葉の胸が締め付けられたのは、その笑顔の中に、哀しみの色が混じっているのを見たからである。

「今度の休みの日に、上野にでも行こう。たくさん楽しいものを見て、一時でもやなことなんか、忘れちまえ」

 俺にはこのくらいしかできないけどと、半次が言っている気がした。

 お葉は目を細めて、首肯(しゅこう)する。

 そしてふと、また季節が巡ったら、神田明神の桜を二人で見たいと、秘かに思った。


 お葉は半次と上野に行く日を楽しみに、それからの日々を生きていた。おくみに何と言われようと、今までにないほどに、心は軽かった。

 好きだ。どうしようもなく、好きだ。

 やっと、己の気持ちを、言葉で自覚するようになった。

(もしかしたら半次さんも……)

 わざわざ好意のない女性と、何度も二人きりで会ったりはしないだろう。あんなに親身にはなってくれないだろう。お葉の中では、自惚(うぬぼ)れではないという条件が、(そろ)っている。

 しかも、半次には確実に気持ちが伝わっていると、思っている。

 そんな半次との約束の日、お葉は普段の(かげ)りを見せることなく、半次と過ごす時を楽しんでいた。

 上野広小路の(ざわ)めきの中、お葉は半次の背中を追っていた。初めて出会ったときのように、それは遠くなく、手の届くところにある。

 でも、少しでも目を離したら、半次はいなくなってしまいそうだ……お葉は浮かれながらも、(なか)(あせ)っていた。人の多さに見失いそうという不安もあるが、もっと違う理由を感じられた。しかし、その理由については形容できない。曇天(どんてん)の暗さが増しているのが、余計に不安を駆られるのであった。

「お葉」

 呼び止められて、お葉は半次を見つめる。半次は振り返らないまま、先を続けた。

「俺といて、楽しい?」

 もしかしたら、半次に己が抱いている不安が見透かされたのではと、お葉は(あわ)てて答えた。

「楽しい……こんなに楽しいのは久しぶり」

 しかし半次は、お葉の不安を感じ取ったのではなかった。

「……俺は、ろくな人間じゃねぇよ」

 ぼそりと、でも確かにお葉に向けての言葉であった。

 どうして急に、そんなことを言ったのだろうか。何より、半次はとても寂しそうだ。

「会ったばかりで、半次さんのことはよく知らないけど、私は半次さんがいい人だって信じたい」

 少なくともお葉の目には、半次は善人として映っている。

 半次の家族も、住んでいる場所すら知らないが、半次を信用しているからこそ、今があるのだ。

「そうか」

 半次は振り返って、お葉に笑顔を向ける。

 ああ、やっぱり、この笑顔が好きなのだと、思い知らされた。

 お葉が半次に見惚(みと)れる間もなく、(ほお)にぽつりと(しずく)が降ってきた。

「降ってきたな。店で雨宿りでもしようぜ」

 お葉は半次に手を引かれるまま、料理茶屋に入った。

 雨は次第に、地面を打ち付ける強さを増してゆく。だが次第に、雨足は弱まった。半次が頼んでくれた料理を食べているときも、帰る頃には止んでくれるだろうかと祈っていたが、見事に晴れ間が覗いてくれた。

「半次さん、そろそろ帰りましょう」

 半次はすでにお葉よりも前に食べ終えている。また雨が降ってきたら大変だと半次を(うなが)すも、彼は中々、腰を上げようとしなかった。

「まだ、隣の部屋に行ってねぇだろ」

「隣……?」

 お葉は半次の視線の先、背後の(ふすま)を見る。

料理を食べるだけなのに、襖で閉じられたもう一つの部屋もあるなんて不思議だ。

 半次は静かに、お葉の背後に来て、両肩に触れた。

 ふいに距離を縮められて、お葉は身を硬直させる。動けないお葉の代わりに、半次が襖を開けた。

「……!」

 薄暗い部屋の中には、一つの布団と、二つの枕が敷かれている。

 ここはそういう店だったのだと、お葉はやっと気づいた。

 半次は元から、その気だったのだろうか。自分が(うと)いだけで、当たり前のことなのだろうか。経験のないお葉は、様々な思いを巡らせる。

「なぁ、いいだろ?」

「でも、私……」

 怖い。急のことで準備ができていない。

 一度許してしまったら、もう引き返せない気がする。お葉は予感めいたものを感じてはいた。だが、半次を慕う気持ちが、(こば)めないでいる。

 背後から抱きしめ続けている半次の息づかいが、耳元で聞こえた。

 お葉は半次の方を見る。覚悟を決めたと、緊張で揺れる瞳で答えた。

 半次は熱を帯びた瞳でお葉を見つめた後に、ゆっくりと、顔を近づけた。


 二人の逢瀬は神田明神ではなく、茶屋が多くなっていた。季節の移ろい早く、蒸し暑い夏になっても、お葉は休みのたびに、半次と会っている。

「何かあったの?」

 お葉は帯を整えながら、半次に尋ねた。

 今日会ったばかりのときは、いつもと変わらない様子に思えた半次であったが、行為の最中、そして今、どこか重い空気を(ただよ)わせている気がしたのである。そういう機微を感じ取れるくらいには、他人ではなくなっていた。

「もう、会えねぇかも……」

「どうして……」

 お葉は気が気でなくなった。半次が、離れてしまう。何か気に障るようなことをしてしまったのか、言ってしまったのか、あらゆる可能性に、お葉は支配される。

「借金作っちまったんだよ」

「借金……」

「だから、お葉と会っている余裕がねぇんだ」

 お葉は原因が自分になくてよかったという安堵(あんど)に包まれていた。

 だが、自分のことで安心もしていられない。半次にとっては、大変な問題なのだ。お葉には関係なくても、知らぬ顔などできなかった。

「いくらなの?」

「……二両だ」

 よかったと、お葉は再び安堵した。

「二両ならなんとか工面できる」

「お葉……」

「叔母さんに隠れて貯めてたお金があるの。それと、明日もらえる給金の少しを合わせれば、何とか足りると思う」

「お葉に迷惑はかけられねぇ。いいんだ」

「私は大丈夫だから。半次さんのためだったら、お金くらい、どうってことないのよ」

 お金を失うよりも、半次が不幸になる方がよっぽど辛い。お葉に躊躇いは一切なかった。

「すまねぇ……」

 どうせ家を出ることも許されないのだから、お金は半次のために使った方がいいのだ。何も、問題はない。

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