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花幻  作者: 夏野
一章
1/11

 下を向いたら、よりいっそう(みじ)めになった。先ほど切れたばかりの鼻緒をどうするでもなく、立ち尽くす。

 鼻緒が切れたことなど些事(さじ)だが、それはお葉にとって不幸の重なりだった。

 十三の歳に大火で両親を亡くしたお葉は、以来、父の姉、つまり叔母に引き取られて生活していた。

 火事の折、友達の家に泊まっていたお葉は運よく助かったものの、両親は帰らぬ人となっている。しばらくはその友達と両親が哀れんで、何日か世話になっていたが、いつまでも面倒はかけられないと、叔母を頼ったのである。

 両親をいっぺんに失った喪失感と絶望にまみれていたお葉は、普段からあまり好ましく思っていなかった、唯一の親戚である叔母のもとへと、足を進めてしまったのだった。

 お葉の両親は小さい煎餅(せんべい)屋を営み、家族はつつましく暮らしていた。一人っ娘のお葉は両親に愛され、お葉もまた優しい両親が好きだった。だが、叔母のおくみのことは、正直苦手であった。穏やかな父と本当に姉弟なのかと思えるくらいに、おくみは騒がしく、何かと嫌みの多い人物である。

「父親に似て不器量な子だよ」

 おくみにはよく、そのようなことを言われたものだ。

 (とげ)のある言葉を言われるたびに、父が(かば)ってくれたのが救いだった。父もおくみのことは好ましく思っていなかったようである。だが、無下にできない理由があった。

 実はお葉が物心のつく前の時分、父が知人に(だま)され借金をしたことがあり、叔母から金を工面してもらったことがあったそうだ。借りた分の金は地道にすべて返済できたが、おくみの嫌みは余計に増したのだ。両親は金を貸してもらった負い目から、おくみには頭が上がらず、お葉を庇う以外は下手に出ていた。

 だから、おくみの家に行くのは嫌だった。でも、一人で生きてゆく(すべ)を知らなかった。

 おくみのことだから、一緒に住むのを嫌がって、どこかに奉公に出されるものと思っていたが、意外にもお葉を受け入れた。

「いいかい。お前を家に置いてやるのは善意じゃなくて、利子の分を働いてもらうためなんだからね。親戚だからって甘えるんじゃないよ」

 おくみは両親を亡くしたばかりのお葉にそう言った。しかも実の兄の死を(いた)む様子も見せないおくみに、お葉の不快感は募るばかりである。

 だが、おくみの家に厄介になる以上、お葉は何も言えずに、おくみに従うことしかできなかった。

――早く、出て行くんだ……

 働いてお金を貯めて、一人でも生きていけるようになったら、おくみの家を出て行く。

 お葉はその一心で、こき使うおくみに耐えてきた。

 そして十六になったとき、お葉は家を出たいとおくみに打ち明けた。

 だが、おくみは許してくれなかった。

 まだ利子の分を働いてもらっていない。恩も返さずに出て行くつもりなのか。不器量なお前が、一人で生きていけるわけがない。

 と、様々な理由をぶつけられたが、おくみは家事をしてくれて小遣いもくれるお葉を失いたくなかったのだ。

 自由を夢見たのに許してくれなかったお葉は一人、近所の神田明神に足を延ばしていた。今が盛りの桜でも見れば、心が和むかもしれないと来てみるも、とても上を向く気にはなれずに、小さな歩幅で彷徨(さまよ)っていた。

 するといつの間にか鼻緒も切れてしまって、お葉は惨めさでいっぱいになる。

 一生、おくみの家から出られなかったら……そんな悲壮が過ぎり始めたときだった。

「ほら、(しば)ってやるから」

 声に弾かれてはっとする。目の前に、腰をかがめた男がいて、今まさに自らの手拭いを切っていることに気づいた。

 答えられずにいるお葉は男に(うなが)されるまま、足を男の膝の上に乗せられて、男が器用に下駄の鼻緒を作ってくれているのを見下ろす。

「できたぜ」

「ありがとう……ございます」

 立ち上がった男は、お葉を見てにっと笑った。目を細める様に、あるいは声に、思い出す手の温もりに、もしくはすべてに、胸が締めつけられる。

 男は去って行った。お葉はしばらく呆然(ぼうぜん)と、男の背中を見えなくなるまで追っていた。

 風が吹いて、(ざわ)めきと共に桜吹雪が舞い上がる。青空に彩られた無数の薄桃色の美しさは、訪れたときからあったはずなのに、どうして今頃まで何も感じられなかったのか。

 まるで幻のように消えてしまった人の名前を、尋ねることすら忘れていたことに、お葉は後悔する。


「はぁ……」

 お葉は何度目かになるかわからない溜息を吐いた。

「ふふっ、これで六度目よ」

 丁寧に回数を数えて教えてくれたのは、同僚のおみつである。

 お葉は神田明神近くの甘味処で働いている。勤め始めたのは、叔母の家に住むようになって、間もなくのことだ。はじめは下働きとして遣ってくれたのを、一年もすれば人前で仕事をさせてくれるようになって、今に至る。

 二年前から同じ店で働き始めたおみつとは、歳も同じということもあって、同僚では一番話す仲であった。

「そんなに吐いていたかしら?」

「昨日だってお客様がいないところで、何回も吐いていたじゃない」

 お葉には、そんなに溜息を吐いていた自覚がなかった。

 最後の客も帰り、店仕舞いを始めたとき、無意識に、六回目にもなる溜息を吐いていたのである。

 おみつは溜息を吐くお葉を心配するのではなく、むしろ微笑ましくしているのは、その理由を察していたからだった。

「誰か、好きな人でもできたの?」

 お葉の脳裏には一瞬にして、五日前に神田明神で出会った男の姿が浮かんだ。

「…………」

「沈黙は肯定と(とら)えたり。ねぇ、どこの誰なの?」

「もう、揶揄(からか)わないで」

 お葉は恥ずかしくなって、逃げるように店の外へと向かった。

 心を落ち着かせた後で、暖簾(のれん)に手をかける。

(どこの誰かなんて、知らないもの……)

 名前くらい尋ねればよかった。でもあのときは、身体が金縛りにあったように動けず、話すという動作も、忘れてしまったように固まっていた。

 あれから仕事終わりに神田明神へ足を延ばしても、男は現れなかった。

 もう一度、会いたい。

 何を話せばいいのかわからないけれど、一心に会いたいという気持ちに支配されていた。

「お前さん、ここで働いているのか?」

 すぐ近くで聞こえた声に、お葉は振り返る。刹那(せつな)、お葉の胸は、激しく早鐘を打った。

「あ……」

 願いが、聞き届けられた。

 その人のことを考えていたばかりだから、夢だと疑うくらいに、現実ではないと錯覚(さっかく)してしまいそうになる。

「俺だよ。この前、神田明神で鼻緒を直してやった……」

 お葉が何も言えないのを、思い出せないと勘違いしたのか、鼻緒の君はそう言った。

「覚えています。あの、この前はありがとうございました」

 忘れるような薄情な人間ではないと訂正したくて、(あわ)ててしまった自分に、お葉の顔はみるみる温度が上がる。

「よかった。俺のこと、覚えてくれてたんだ」

 ちゃんと訂正できたことと、何より、喜んでいる様子に、鼓動は鳴り止まない。

 少し細身の所為(せい)か、(たくま)しさは感じられないものの、優し気な表情と雰囲気に、心を許してしまいそうだ。

「名前、何ていうの?」

「お葉です。貴方は……」

「半次ってんだ。仕事、仕舞ぇだろ。お前さんと話がしたいんだ。……だめか?」

 お葉は首を振るのが精一杯だった。

 会いたい人に会えた。その人の名前を知ることができた。話したいと言われた。一時にたくさんのうれしいことが舞い込んできて、半次と出会ったときのように、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

「神田明神で待ってるぜ」

 この幸せは、本物だろうか。両親を失ってから、こんなに幸せだと感じたことはなかった。

 仕事が終わり、足取り軽く、お葉は神田明神に向かう。

 まだ桜は見頃のようだ。夕暮れは切ないのに、夕暮れに染まる桜は気持ちを浮上させる。きっとそう感じるのは、境内(けいだい)で待ってくれていた人の所為だ。

 お葉って呼んでもいいか。また会えて、俺はついている。嫌じゃねぇなら、次に会う約束をしよう。

 お葉は夢心地の中で、半次の言葉に答えていた。

(私だって、最高についている)

 ここまできたら、嫌でも自覚する。半次のことしか考えられない気持ちを、どう呼ぶかなんて。

 あっという間に陽が沈もうとしていて、今日は名残惜しく別れることになった。

「せっかくだから、最後におみくじでも引こう」

 半次も別れを惜しみ、少しでも一緒にいたいと思ってくれているような様子に、拒否の選択はなかった。

 半次が先に引いて、お葉も続いた。

「俺は中吉、まあまあだな」

「…………」

「お葉は?」

「小吉みたい」

 お葉は一瞬、戸惑った末に、嘘を吐いた。

 本当は、お葉の引いたおみくじには、大凶と書かれていたのである。

 おみくじの結果が、今後の運命を物語っていることなど、お葉は知らない。半次と出会ったことで、お葉の運命は、大きく変えられていたのだ。

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