第九話
ただ、ぼくはエリオットの病院から戻って些細な違和感を覚えた。ぼくの頭蓋骨で転がった先入観と現実との間でイヤな音を立てる違和感だ。具体的には彼が本当に真犯人なのかといった違和感だった。ぼくは彼と対面して、ひとをしてひとを殺しむる、といった犯罪が持つ狂気じみた感覚を彼から感じられなかった。
むしろ、なにかに対して忠実な感覚、学問や仕事や倫理という概念に対して忠誠を誓った雰囲気すら覚えた。あの男から世界中に殺人者の種をばらまくといった種類の仕事を自ら進んでやれるほどの思念を読み取れなかった。たぶん彼には狂気はない。彼の周囲に狂気の源があるはずなのに、ぼくらの捜査で浮かび上がらなかったのは、どうしてなのか考える。
しかし答えはでなかった。出会わなければわからない感覚がある。目の前にいなければわからない事実もある。いくら情報があって相手を理解できたとしても情報にのらない情報だってあるのだから。だから、ぼくが派遣された、といった訳なのだが、それに捜査当局は気付かなかった悔しさが勝る。
だから、ぼくは自分に与えられた拠点――クリニックから半ブロック離れた場所にあるアパートメント――から飛び出す衝動に駆られた。いや駆られるだけでドアをひらいて駆けださない理性は残っていたのだけれども。だから純粋に自分の無能と相手の上手に関して事実を突きつけられた。
捜査は振りだしに戻った。リン・ウェインのときと同じだ。彼は彼で結果を生み出す歯車に過ぎず社会を左右するモーターではない。それゆえ彼は彼の属するイデオローグに忠誠を誓っているだけなのではないか、だとすれば彼のほかに犯人がいて永遠に犯罪が終わらないのでは、と思わされる。
そんな不安は尽きず、ぼくは苛立ちを隠せない。ところでピピ、とタイマーが鳴ってヴァーチャルディスプレイにポップアップが表示されるのをみれば、ぼくは驚いた。なぜって規定薬剤の投与時間だったからだ。どうやら、ぼくは自分に課された日課ともいえる任務に気付かないほど上の空だったらしい。
まいったな、と頭をかいてキャリーケースから注射器を取り出した。そして首筋の動脈に注射する。プシュ、とシリンジから炭酸ガスに押し出されて血中に紛れ込んだ薬が効きはじめる。ぼくの手足の動きが再び最適化されているのがわかった。最適化である。最適化が標準になった社会で、どうすれば気付かれずに犯罪といった不合理を起こせるのか気になった。
追っても、追っても追いつけない不気味な犯罪者、異常な世界で異常を繰り返す謎の人間。にもかかわらず誰からも気にされず誰からも普通だと思われている。どうすれば、そんな普通になるのか、はなはだ検討もつかない。
社会システムが人間の単位として機能しているのに社会システムから外れながら人間としても生活している『誰かさん』は、どんな風に犯罪のトリガーを押しているのか。たぶんイブなら、いつかわかるでしょ、とわらってごまかすのかもしれないが、ぼくにとっては切実な問題だった。
だんだん時間も過ぎてくるので、ぼくは外出の準備をはじめる。糊が利いてカチっとしたビジネススーツからカジュアルなフィラデルフィアスタイルに着替えて日本語学校へ行く準備をする。まるで戦場にいる軍人さんの気分だが、当たらずとも遠からず、ぼくは敵地にいるものだから休息など存在しない。
だから、ぼくは拠点のアパートメントから出た瞬間、いまの自分の置かれた状況に気がついた。丁寧に三人の尾行、ひとりは車。ココまできていたのだから、あのクリニックから付いてきたとみて間違いない。いつどこにいた、とクリニックからの道の記憶を辿るけれども、どうにも思い出せないから、まるでふってわいた尾行集団に内心で頭を抱えさせられる。
どうやら予想以上に動揺していた上、エリオット一派の練度は高い。うかつにイブへ連絡しなかった幸運に感謝しながら拠点を知られてしまったせいで孤立無援という状況に憂鬱になる。きっとイブはUABで監視しているはずだからクリニックの帰路、ぼくのマヌケさ加減に腹を抱えていたに違いない。
息を吸って気持ちを落ち着けるの。ぼくはあふれだすアドレナリンから頬を切る風の感覚すら鮮明になるのだけれども、そんな状態で日本語学校へ行ったのなら素人臭いものだから平静を装う努力も大切なのだと思った。なぜなら、きっとエリオットと出会ったら、
「やあイサカ。どうしてここへ」
「ミスタ・ゴーン。あなたこそ。おめずらしい」
そんな会話が予想されたからだ。ぼくにも秘匿捜査官としてみられたいプライドがある。
「ご存知の通り私は日本人ですからね。なにかの形で母国の役に立てないか、と思ってボランティアで教師をしようと考えたのです。ところでミスタ・ゴーンは、どうして……」
「私も日本語が話せるのですよ。十年ほど東京に住んでいたときがあって。だから、そのときに学んだのです」
そうエリオットは恥ずかしげに肩をすくめる。ぼくの、「そうなのですか」と白々しい回答を相手に悟らせてはいけない。既に知っている事実を知らないフリをするのは難しい。
「あなたに比べたら日本語は不出来かもしれないが、ひとに教えるくらいの知識はあります。だから日本語学校で先生をやらせてもらっているのです」
「本当ですか? 実は私も今日からボランティアで日本語の教師をやらせていただくことになりました。よもやミスタ・ゴーンがいらっしゃるとは知らなかったので心強いです」
「まさか私もですよ」とエリオットはいっていた。ぼくらはお互いに腹の読み合い、といったところである。
ぼくに尾行がついているのならエリオットも、ぼくが日本語学校へくると知っていたはずだ。だから彼は、ぼくの動向を知らないフリをするほかない。ぼくだって知らなかったとふるまう必要がある。ぼくの目の前には、たしかな真実など到底なくて、まるで即興劇をしているみたいにお互いのバックグラウンドを予測し妥当な答案を用意する必要があった。
「校長先生に紹介しますよ。今日は私のクラスでやってみましょう。初めての日ですから」
そんな風に連れ出される。いっぽうで彼と近づける捜査としては渡りに船かもしれないけれども、ぼくからすればエリオットも、ぼくにメスを入れている訳なので逆に緊張する。
「なにごとも初めてが肝心ですからね。ミスタ・ゴーンは、どれくらい教えていらっしゃるのですか?」
「私は三年です。なじめるかご心配かもしれませんが、なれます。いい子が多いですから」
ぼくの前でエリオットは力強くいった。まるで小鹿を安心させる大鹿みたいに。そうやってひと殺しの話しているのかと訝しむ。
「ところでセラピーがあるのに、どうして言語教育があるのか、と疑問にはなりませんか?」
廊下で校長室にいく道すがらエリオットは訊ねてくる。精神衛生監察官は、みんな理由を知っている。ただし知識として習っているが原理はわかないのが一般人の常識なので普通のひとレベルで答えた。
「十二歳を超えなければセラピーは無理、だからでは」
「そうですね。十二歳を超えなければ同調処理が実施できない。正しい回答ですがおしい」
ぼくの答えにエリオットは頷いている。なぜって、ぼくの解は知識として半分正しく原理として半分間違っているからだ。
「同調処理とは自我を環境に適合させるもの。だいたい一歳から二歳にかけて自我が形成されますが脳が環境に追いつけない。精神同調処理を行い適用可能な演算が可能になる年齢は八歳以降です。といっても演算が可能になるのみで適した状況ではない。自分の置かれた環境を理解し行動を実施するのみでいっぱい、いっぱいになってしまう。脳機能に余裕が出るのが十二歳程度なのですよ」
「まだ子どもは自我を共有できないから?」と一般人が知っている範囲の知識で答える。
「そうです。ただ正しくない。同調処理の原理は自我と他人と共有し他人と同じ状態を作るものです。だが子どもは肉体と脳機能の両面において成長途上で度合いもバラバラ。恒常性なんてないものですから他人と自我を共有などできないのです。だから成長が落ち着きをはじめる小学生まで同調処理を行えない。ゆえに子どもの間、社会とコミュニケーションを取る方法と社会と自我を共有する過程を言語学校で学ぶのです。ほかの知識はコアラーニングで定着できますから」
「恒常性がない……?」と素直に驚いてみせる。まるではじめて知ったみたいな感じでね。
「人間はバケツと同じです。まだまだ子どもは小さなバケツですからね。環境に合わせるためにはバケツ一杯の水をいれなければいけない。ただし融通が利かないので一度、バケツに水が入ってしまえば割合を変えられない。じょじょに薬剤の量が増えて最終的には薬漬けです」
そうエリオットは神妙な面持ちになる。ぼくとしては、ずっと過去に教えてもらった話だったので内心で衝撃はなかったが、どうしてもリアクションしなければいけないのでマジメになるほかない。ひどい話だ。
「彼らをみていたら今の社会は正しいのか間違っているのかわからなくなる。人間、精神同調処理なんてなくても幸せなんじゃないかってね。難しい話ですが、あなたもわかるでしょう?」
「私は一介のバンカーですから教育倫理には疎いです。また幸福論を語れる学もない。もっと正しくて良い社会があったとしても、いまの社会が人間の作れる限界の社会だ、と思うだけで精一杯です」
だから、ぼくが本心から肩をすくめてみれば、「あなたは正直な方だ」とくるから一瞬ヒヤッとする。ただし、ぼくの潜入捜査がバレた様子ではない。本当に、そう思ったらしい。
「あなたは今の答えが効用を最大にさせると判断した。だから答えた。同調処理下での行動原理はシンプルで明快です。しかし、あなたが判断した理由を考えるのは難しい。あなた自身の効用が、そうさせるのか、また社会の効用が、そうさせるのか。私には興味が湧きます」
「研究者の性でしょうか。あなたもご自分の職業にプロフェッショナルでいらっしゃる」
「研究者の性など高尚なものではありません。なにごとも気になる余計でいらぬ詮索ぐせですよ。ない方が社会生活を送る上で良い」
ははは、と彼は乾いたわらいを浮かべる。まるで自分の過去をみているみたいな感じで。
「あなたも仕事の癖が抜けていない。あなただって職業に忠実であると思います。私に勝るとも劣らず」
「仕事の癖……なるべく職業と個人生活は区別するよう気を付けていますが、どの辺が」
「あなたは良くお話を聞かれる。まるで私のすみずみまで観察されているみたいにね。なぜなら銀行の融資担当は事前に得た情報と直接会った情報を照らし合わせる必要があるからです。だから良く聞き良く話す。あなたがやっているのは、まさに私と同じだと思いますよ」
「まさかまさか」といえば、「ひとを見る目には一番の自信がありますから」と返ってくる。
まるで自分の自信をたしかめるごとく、そして、ぼくの背景をたしかめるごとく。どちらにしても謎を解き明かしたいらしい。だから、
「あなたの話を聞いてくれるひとはいないのですか?」ぼくの回答に踏み込んで彼は訊く。
「いませんよ。残念ながら。もしいてくれたら、ぼくの人生は、もっと楽しかったかもしれませんが」
「もったいない。世の中の女性は見る目がないですね」とくるものだから「ずいぶんと立ち入った質問をなさるのですね」と返すほかなかった。いやいや、と彼は肩をすくめる。
「あなたは、どうなのです?」と質問してみる。彼は独身だと捜査上、知っていたので話の流れで訊くほかなかったのだが、
「妻はいませんよ。ひとりです」とくるのだけれども、「ただ娘が一人。つまらない話を聞いてくれる存在です」と頭をかくものだから、ぼくは驚愕する。彼に家族はいないはずだ。
「まさか、ご息女がいらしたのですか?」
「いや驚かれるのも無理はない。友人の子を引き取ったのです。血はつながっていないので銀行には報告していませんでした。良く考えればかれこれ十年以上前になりますがね」
ぼくらの捜査に対しても十年以上隠し通したという訳だ。CIAやFBIのデータベースにもない新情報だった。
「彼女はケンブリッジへ留学に出ている。来週フィラデルフィアへ戻るので紹介しますよ」
どうぞ楽しみにしていてください、ともいうエリオットは、どうやら本気で紹介する気らしい。どうしてどうして裏があるのか。
「光栄ですね。楽しみにさせて頂きます。ところで彼女のお名前を伺ってよろしいですか?」
「オトハです。セガワ・オトハ。あなたと同じ日本人です。私は彼女から日本語を習いました」
ざっくばらんな情報に、ぼくは内心で訝しむ。罠だと仮定して行動すべきと思った。たぶん、ぼくを誘い込む罠で目的は捜査のかく乱だ、とね。けれども、ぼくに課せられた任務は情報の収集とエリオットの逮捕だ。警察官は、なぜを追求するのが目的だが、ときには犠牲を回避する未来よりも犠牲から得られる現実を取る場合もある。そんな場合は、なぜと問うてはならないのが不文律だ。
だから、「オトハ、オトハ……」とぼくにできるのは彼女の名前を繰り返すのみで、ほとんど意味のなさない記憶の定着なのだった。セガワ・オトハ。日本人。ケンブリッジの学生さん。ふってわいた情報を精査し選
別するには一週間を要する。たぶん時間との闘いになると思った。