第八話
百年前くらい過去の話だ。地球上の人口が百二十億人を突破した時期があった。おおよそいたるところにひとがいて逆に人間がいない場所を探す方が難しかった時代だと聞いている。
ひとひとひとひと。たぶん宇宙からみたら人間の数が多すぎて地球の表面がまだら模様にみえていたに違いない。ガガーリンいわく地球は青く神はいなかったらしいが、いつしか地球は青からくすんだ色に変わっていた。
環境汚染や食料問題、紛争、核戦争……本来なら、ぼくが生まれるはずだった日本の三割が海に沈んでしまったのは、かつてあった第二次太平洋戦争で十九発の核弾兵器が炸裂したからだ。むかしは争いがあった。
たぶん人間は数が多すぎればプライベートな場所がなくなって争いはじめるのだ。きっと、ぼくら人類は少なすぎても多すぎても生きていけない特殊な動物なのだから、地球一個につき五十億人程度が最適な人口比率らしいという研究結果もある。だから昔のひとびとは幸せに生きる方法を研究して、まともに生きられる世界をつくろうとした。ゆえに今の社会がある。
行動経済学の応用。いかに生きれば、もっとも良い人生になるのか、という問いから発展した学問は、いつしか世界中を対象にして、どうすれば全ての人間が最適に生きられるかといった問いに着地した。
いわゆる新行動経済学。量子コンピュータ演算とナノデバイスによる情報収集で瞬く間に精度を上昇させていった学問は医学とも結びつきはじめ、『人間を最適に動かすには、どうすれば良いか』という究極の問いに落ち着いた。そんな風に現在のサイマティックセラピーは生まれたのだ。だから経済学と医学は血縁関係にある。かねてから方法こそ違っていたが、どちらも基本的に人間へ焦点を当てたものだったので長い年月を経て分野が重なったのだ。
ただ経済学と医学は互いに交わったけれども長い歴史が軋轢を生む。医学には多額の資金が必要で資金を上手く運用する『手段』を研究するのが経済学だ。だから今でも銀行ってのがあるし大学先生の資金運用も任されているって訳。
「情報の非対称性の克服がされたといっても現時点でのもの。未来においての情報に関しては未知数の割合が大きい。だから、あなた方が評価をして適切に資金を融資する。合理的な話ですね」
そうエリオット・ゴーンは初対面の人間と歓談ができるくらいには社会的な人間らしい。
「我がリーマンサックスはメンバーが経営修士と会計士の資格を保有している数少ない企業です。代替可能な社会で代替の利かない選択をするべく全てが有資格者で構成されています。担当者が交代してもクオリティが変わらないためです」
「あなたの会社へ中古車を売るときには自分の欠点を隠せない、という話ですね。あなた方のリサーチ力と分析能力には、いつも驚かされます。ただ私からすれば少しお目こぼしがあってもいいと思うのですがね」
ご冗談を、とぼくは肩をすくめる。彼のクリニックで、ぼくは今後の研究資金と当クリニックの運営資金の話をしていたのだ。ぼくの前任者のミスタ・キンバレー氏に代わって。
「あなた方が私の腕と知識を評価し価格を決めてくれる。私の価値そのもの、という訳ですね」
「ええ。そうです。しかしミスタ・ゴーンは人間の意識と行動の分野において著しく素晴らしい研究成果をあげられている。もはや価値や価格を気にする段階ではないと存じます」
「私のやっている研究など子どもだましでしかありません。いまだ世代間ヒト規定行動認識プログラムの研究は現時点で社会的に影響のある目ぼしい成果を出せていませんからね」
ご謙遜ですね、と本心から否定する。
「基礎研究の成果が出るまでには平均して十数年から数十年かかるものです。世界でひとつしかない研究ならなおさら。私たちは五十年後のために現在の投資をしているのです」
「希少性の高いものには高い価格が付けられる。だから将来を見込んで投資をする、という訳ですか?」
「いいえ。違います。統計的に希少性と価格は比例しますが本質は異なります。価格を決めるのは需要と供給、価値を決めるのが希少性だからです。空気中の酸素は人間の生命維持に欠かせませんが高価な値段はつきません。反対に生命維持には必要のないダイヤモンドは高い値段で取り引きされている」
ぼくの説明にエリオットは頷いている。一人の学者として退屈話にも興味があるらしい。
「酸素は大切なもの、『希少的』ですが、供給量は無限大です。ところがダイヤモンドはなくてもよいもので、『代替的』ですが、供給に比例し需要量が大きい。酸素はタダ同然なのにダイヤモンドが高値で取り引きされる理由です。私たちが投資をする理由は、研究が需要を生み出すサービスを創造する可能性があるから。ただ希少性が高いのみではありません」だが、
「わかりました。あなたは信用のできるバンカーらしい。そう前任者も話していましたが」
と突然くるものだから、ぼくは、あぶなかった、と内心で頭をかくほかない。値踏みしていたのはお互い様だったのだ。
「研究を機械で判断するのは技術的に難しい部分がまだあります。やはり最後の部分は人間で選択されなければいけない、と思ってもいますし。なぜなら人間の選択には価値があると思っているからです。選択する、とは深い知識と訓練を積んだ人間でしかできない行為だからです。機械にはできない、人間にしか行えない、模倣ができず、かつ希少性の高い行動と思います」
興味深い話ですね、と食いついたフリをする。といっても、ぼく自身興味が湧いていた。
「精神分析医であるあなたがサイマティックセラピーを否定的だとは思いませんでした」
「いいえ。否定的ではないですよ。価値がないと申しているのです。セラピーに限れば人間的で文化的な制度だと評価しています」
「どうして、そう思われたのですか?」ぼくは訊く。
「私にとって自明である世界が退屈でつまらないからです。すべて目の前にあるものや目の前にないものを知っていたら、すべてを知っている事実が標準的になってしまうからです。そこには新しいものを知る喜びや知らなかった悲しみがない。選択がない。自由がない。とても不自由なのです」
「自由と不自由……」ぼくのつぶやきにエリオットは一拍おいて次の言葉を投げかける。
「自由とは選択できるからこそ自由なのです。自由に価値があるのは、選択できるから価値が生まれるのです。はじめからなければ無価値ですから。したがって、なにもかもが自明であれば選択肢がない。選択がなければ代えることもできない。ゆえに価値がない。ただ裏を返せば選択に価値が生まれる。だから人間の選択には価値があって退屈ではないのです」
だから人間の選択が必要なのだ、と納得する。ぼくにとっては身につまされる話しだ。
「とても思索的な人だと聞いていましたが、たしかに。あなたは研究を通して自由を得ている、という訳ですね」
ぼくの言葉にエリオットは首肯した。たしかにエリオットは医師というよりも哲学者という雰囲気がある。自分の言葉の影響を考えて口をひらく様子、口にしなかったことで失われる言葉の効力と口にしたことで得られた言葉の効用を常に天秤に取っているみたいだった。
「今の世の中は自由を得ることが難しい。サイマティックセラピーによって最大効用で日常生活が営まれている結果、常に最良選択をしなければ競争によって淘汰される。自由とひきかえに未来の破滅を取る人間はいませんからね」
「アメリカの方は自由概念について独特の感性を持った人が多いです。地域柄でしょうか」
「たしかに自由を輸出していたアメリカらしいといえば、そうなのでしょうが、お国と違って、なにもなかったからですね。ゆえに概念の上に国をつくりました。だから自由や権利に敏感な人間が多い。地域柄といえば地域柄ですが、もたざる者のひがみかもしれません」
「自由と選択のバランスが、ほかの国と違っているのは、そうした理由があるからなのですね」と相づちを打った。ぼくの国だって過去にアメリカ流の自由を輸入していたし、ほかの国だって輸入していた歴史がある。その点、同じくアメリカの自由に染まっても良いが、ぼくを初めとして日本人は自由概念に疎い。土地柄なのだと思う。
「私は世界中に患者がいるものですから世界各国を旅します。ところが、意外にも自由概念は地域格差があるとわかってきました。土地柄もあるのかもしれませんが、文化や遺伝子的な差も顕著にあらわれます」
「たとえるなら……」
「たとえば、あなたの国。日本では潜在的な自由に関して、かなり感心があります。潜在的な自由とは誰かの内心や選択の結果に個人間で干渉しないものです。またインドでは文化面の自由が、かなり高い。文化面の自由とは会話の内容やプロトコルに対する考え方というものです。ただし他人が持つ独自の文化に寛容ともいい換えることができると思われますが」
「そうなのですか」と素直に驚かされる。いや事実、ぼくは日本人のコミュニティーを離れて多少の窮屈さを感じていたものだから意外な説得力があったので学術的な興味から話の続きを聞きたくなる。
「日本人はSS型と呼ばれる遺伝子を数多く持っているので社会不安から相手の内心や決定を尊重する風潮が形成されているのです。インドは雑多な環境で民族や種族が共存しているせいで文化圏の衝突を緩衝する必要があった。深く観察しなければみえないほどに意外ですがね」
コミュニケーションツールとしての自由、希少価値としての自由、取引材料としての自由。いろいろな自由があって様々な形に変化する。まるで、ぼくら人間が地球上のあらゆる場所で変化し適用してきたみたいに。
「どうして変化が生まれるのですか?」ぼくは問う。しばしエリオットは考えていたが、
「どんなものに価値があるか感じる脳の分野に差があるからです。人間はみな同じくみえますが、それぞれの地域別に特定の遺伝子を持っているのです。なぜならプロスペクト理論が有名ですが、特定下で報酬系、前頭眼窩野や線条体の神経細胞の活性度合いが、しばしば異なっているからです」
たぶんエリオットは大学講座の学生に講義をしているみたいな気分でいるのかもしれない。彼の講義は次第に白熱し徐々に医学的見地のさらに深いエリアへと沈んでいっていた。
「アメリカ地域では具体的な報酬へ、アジア地域では精神的な結束へ、ヨーロッパ地域では連帯感へ、といった具合です。ところが特定の遺伝子は特定の文化でしか生まれない結果もある。どうしてだと思われますか?」
「特定の遺伝子を持った人間は特定の報酬系を持っている。ゆえに特定の報酬を巨大に感じる文化圏が形成され次第に適用できる人間が絞られる。結果、同じ遺伝子しか残らない」
ぼくの答えに、「パーフェクト。良く予習をされています」とエリオットは手を叩いて称賛する。
「文化とは遺伝子でもあって遺伝子とは文化である。人間生活をみるのは両方の側面が重要で、かつ忘れてはならない競争や淘汰といったスパイスを加味する必要がありますね」
「競争や淘汰ですか。現在の社会では表面にあらわれない概念のように思われますが、その点は……」
「人間社会は表層的な競争を排除する歴史で成功してきましたが経済といった分野では残滓を認めます。ただ標準的ではないですがね。それと同じく婚姻や生殖という分野でも残っているのですよ。優れたパートナーを探すといった視点で。そんな風に競争をみえなくしたのがサイマティックセラピーで退屈の源なのです」
たしかに、と首肯させられる。隣人を愛しなさい。殴られたら頬を差し出しなさい。かつてカトリックが教えた教義では、そうして争いをなくそうとした。文化として根付き遺伝子に刻まれる。文化的に適応した遺伝子が生き残る。とある地域でとある遺伝子のコロニーが形成されて生き残る。
ゆえに人間は同じではなく違っていたのだが、そんな差異をフラットにしたのがサイマティックセラピーだったという訳だ。ぼくもジュネーブ本部で研修を受講したときに聞いた話だ。
「では競争があった方が刺激的で、かつ退屈しない世の中だということになりますが……」
「ほどほどの競争は経済活動を進める上でも重要です。競争は進化上、人間が、もとい生きものが本来持つ器官なのですから無視はできない」
ぼくはエリオットが意外にも会話を楽しんでいると気が付いた。まるで大学教授が研究生と話しているみたいな様子でいる。はじめの方は融資を望む顧客と銀行の融資担当でしかなかったのに。
「競争で勝つことを楽しいとプログラムされた遺伝子は、いまだに私たちの体のなかにある。競争で負けたら悔しいと感じる遺伝子も。まして競争がなければならないと感じる遺伝子も残っています。ゆえに退屈だと感じるのですよ。体の底から芯の芯からわき上がってくる自分の本能からね」
そうでしょうか、とぼくは疑問形で答えるほかない。ぼくの国は競争でひどい目をみた。
「私の故郷は競争の結果、消えました。争いは争いを産みます。最後には破滅しかない」
ぼくの言葉の意味がわかったのかエリオットは神妙な様子でやや頷いて重たく口をひらいた。
「たしかにいき過ぎた争いは社会にとって悪影響です。あなたに対する配慮が足りませんでした。戦争も競争といった事実を私は失念していました。だから国連政府があってサイマティックセラピーによる統一がはじまったという歴史も。申し訳ない。学問上でも話してはいけない話題があるのに」
とエリオットは頭をかいていた。ぼくは、「いいえ。水をさしてすみませんでした」とするほかなかった。だが考える。ぼくがした行為も競争にほかならないのではないかと。ぼくの国の尊厳や感情に対して謝罪や訂正を求めるのは同じ競争という原理なのではないかと思う。
世界には正しい真理があって、みなが真理を共有しているから今の世界は競争が起きていないだけなのだ。本来なら、そうした真理は各個人のなかにバラバラと存在して誰の真理が正しく間違っているかと議論する行為自体が競争なのではないかと考える。まるで正しさについて争っているみたいに。
競争は悪でみにくいものなのか、はたまた善で進化を促進するものなのか。フェアな競争とは、なんなのか。ぼくは眼前の研究者の思考を読み解く前に、自分の思考概念をはじめから整理する必要があるのかもしれなかった。
「といっても競争に対する概念が人それぞれではね。なにごとも絶対な基準があった方がいい。サイマティックセラピーの有効性について、再認識させられる良い機会になった」
とくるものだからエリオットも案外、融通の利く人間なのだと思えた。ぼくは彼に対する認識を改めなければいけない。
「今日は、あなたとお会いできて楽しかった。長く取引ができると思うからうれしいよ」
とエリオットが口にする。もう午後の診療の時間が近づいてきていた。だから、ぼくも、
「どうぞ今後ともごひいきに。私たちも最大限、有益な融資をさせて頂きます」と返した。
掴みは程々、といったところだ。ぼくは彼のクリニックから出た段階で、そんな風に思った。