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存在領域  作者: 未定
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第六話

 


 かくて、ぼくは日常という砂漠に堕とされた。サイマティックセラピーと予測演算が跋扈する乾いた日常へ。眼下にみえる空港の周辺から際限なく人間がいるところであれば砂漠は広がる。

 まるで、そうであるように、そうであったように。ある一種のゲシュタルトとして広がる四角四面さは都市景観にもあらわれて、きっちり四角の無個性かつ機能的なビルディングがピクセル集合のごとく敷き詰められている。ぼくがのったプライベートジェット、いわゆる政府専用機が上空を旋回して着陸する。

 ところで、ぼくら上級監察官が二名も召集されたのは異例中の異例のことだ。通常は一名が残留として任務に就くのが習わしだが、今回は二名とも呼び出されたものだからシンガポール事務所がカラっぽになってしまっていた。したがって執行力が低下し、ぼくらシンガポール事務所は大きな事件に対して対処できない、といった状況に陥っている。ゆえにネガティブな要素を内包しても、ぼくらを呼び出すポジティブな要素があったのだとすれば理由についての予想はおおよそついた。

 だから、いわれた通り精神衛生監察官の深紺のユニフォームではなく私服に身を包み空港のロビーに出る。ぼくが普段つかっている政府専用機ではなく旅客機だ。どうやら職業柄、注目を集めたくない事情があるらしい。空港のアテンダントや旅客者の様子から、だいたいわかった。

 ある一定のサイマティックセラピーの処置跡というべき、ぼくらプロフェッショナルにしかわからない、かすかなニュアンス。ぼくらに注目が集まらないためのセラピーを行った形跡を察知できたからだ。

 どこそこのカウンターのアテンダント、あっちのホテルのコンセルジュ、そして清掃のおじさん――ぼくたちネガティブセラピーを受けた人間は普通と違うので不思議と目をひく。だから自然と注目が集まる……はずなのに普段の生活が行われているのならば考えられる原因はひとつしかない。ジョン・F・ケネディ空港の全ての人間に対してサイマティックセラピーを行ったのだ。

 ぼくらの姿を無視するべき、そんな条件付けだ。彼らや彼女らは、ありがたいことにデウスエクスマキナに出演する人形らのごとく精巧に無視してくれる。だから、ぼくらは一般人になりすまして行動できていた。

 規範に縛られた世界とは、かくのように規範が表へと押し出される。自分たちが世界から消えてしまったと錯覚できる規範、自分たちがいないものとして扱われる規範。Q:ルールとして自分が消えてしまったら、どんな感覚になるのか? A:実に不愉快なものである。

 ところでジョン・F・ケネディ空港からは公用車が用意されていた。上級監察官に付与されるフォードアタイプのセダンではなく捜査でもちいる普通の乗用車タイプである。またしても存在を秘匿する工夫がなされている。

 OK。そういうことね、とイブも気付きはじめている。ぼくらは周囲に構成された不愉快な雰囲気によって自分たちが呼ばれた目的を理解しつつ乗車した。目的地のマンハッタン島までは二十分だ。

 だが車のなかで話をする気にはなれなかった。にわかにイブが殺気立っている、というのもあったけれども、なによりもまず降ってわいた日常に対してなじめていない、といった方が正しかった。まるで油の膜みたいに、いたるところにまとわりついて、ぼくらの接触を拒否する日常たちだ。ある一定のプラットフォームに所属していなければ他人とコミュニケーションはおろか街を歩くこともままならない単一性の権化。そんな日常にひどく嫌悪を抱いていたからである。

 ところで今日のハイウェイは、やけにガラガラなせいもあって予定の二十分を大幅に縮め十分少々で到着する。国際連邦政府事務総局、いわゆるワールドセンタービルだ。ぼくら精神衛生局環太平洋エリア支部のオフィスは地上三十階に入っている。トリア首席の根城だ。

 いわゆるかつてユナイテッドネーションズの総本山、今のところ世界の中心であるワールドセンタービルディングはハドソン川とイースト川に挟まれたマンハッタン島の川辺にそびえ立つ地上七十階の建築に威厳をみなぎらせている。ココに世界中で起った問題があつめられ解決策が模索されていると思えば不思議な感覚になる。

 したがって磨きたてのガラスみたいに高反射率を誇るアクリルガラスから反射した温暖湿潤気候の太陽あびながら、ぼくらは入館する。薄雲の空模様から覗く日差しは体を温めるに適切で熱帯の暑さになれた身からすれば、どこか寂しく思えてくる。そしてWHOオフィスに出頭した後にユニフォームを着用する。

 精神衛生監察官がもちいる深紺のユニフォームには、いくつかの意味がある。神聖な精神活動の保護を目的とするシンボル、人間の精神に対する奉仕の宣誓、冷静かつ深刻な職業の表れ、etc. etc. といったものらしい。ぼくも全ては知らない。

 といっても、ぼくら精神衛生監察官が自分のユニフォームを着用する場面は少なく、あるとすれば式典や葬儀、おエライさんとの会談くらいなもので、ぼくにとって前者に関しては当分の間予定がないから、たぶん後者なのだ。いったい誰と会わされるのか楽しみである。

 ところが、ぼくらが三十階へ到着してアイディーイングを済ませたらナノデバイスに誘導シーカーがあらわれた。ゲストを誘導するときに使うやつ。いわゆる国連憲章のローリエの葉を模したシーカーだ。

 ぼくらはゲストじゃないし、自分のデスクがあるくらいには正規の職員なのだから部屋番号を教えてもらえればいくことができたのに、と思ったが、たぶん教えることができないほどに信用されていないのだ。

 だから黄金色のローリエが風に吹かれるみたいに転がって導いてくれるのに従った。いく先は、どこなのか。年中座ることのない自分のデスクよりも奥、トリア首席の執務室よりもさらに奥へ導かれた。もっとも最深部へ。

 会議室が集中して置かれたエリアには、「アルゼンチン観察保護区戦略会議」や「サハ共和国民族自由化会議」、「チューク諸島対チェンブロ政権監視委員会」といった各地域におけるホットなトピックが話し合われ決められている。ぼくも一枚かんでいる話がいくつもあって本部の行動の遅さが、いかに作られているのかありありとみせつけられた。ただなかでも目をひく題材が一つ、『(無題)』とされた部屋があった。

「無題、なんてシュール」とイブがジョークと飛ばしていたが、ぼくらの足もとでヒラヒラ舞っていたローリエの葉が止まって、だんだん消滅するのをみればウンザリさせられる。

「無題だ」と肩をすくめてみれば、『入室許可』とぼくの生体データを自動で読み込んだインテリジェンスなドアがロックを解除する。奥に三センチひらいた隙間から、いつものトリア首席の不機嫌たる顔がみえた。無題の話に付き合わされるほどヒマでないのはたしかなのに。

「イサカ、スミス。両監察官、きました」ぼくは入室すれば、「お待ちしていました」とトリア首席が空席を示した。十数個は座席がある大会議室の一角、巨大な部屋なのに六つしか席を使わない贅沢は、ぼくらにしかできない。

 その室内には、み知った顔もいれば知らない顔もいた。円卓の奥から国際連邦政府議会議長ジョシュ・アレン、国際連邦政府事務局長カスミ・シマ、WHOのNY支部局長アイザック・マシュー。われらが首席、ヴィクトル・トリア。ぼくらが知っている顔は以上四名だ。あとの二名は知らない顔の男女ペアである。

「彼らがシンガポールの監察官です」

 とトリア首席がいい着席を促す。ボスから座れといわれて立っているほどの反社会的人間でないので素直に着席するが、ぼくの着席と同時に知らない男女のペアが立ち上がった。

「アメリカ合衆政府の国家安全保障会議・情報次官です」

 と知らない顔のおじさんが自己紹介する。隣にいるのは捜査局の局長だといわれた。国家安全保障会議の情報次官といえばCIAの親分ということで捜査局の局長といえばFBIの親玉ということになる。どうやら今ココには世界を動かす人間たちが一堂に会しているらしい。

 いわば世界を牛耳るおじさんやおばさんを集めたヒミツの会議ってことだ。たぶん彼らや彼女らは数年に一度くらいしか集合できない世界のVIPなのであって、ということはココで行われている会議は相当におかしな会議ってことで間違いない訳で、しまった、と内心で舌を打っても遅かった。

「おえらいさんを呼んで、どんな会議をしていたんですか?」とトリア首席に訊ねれば、

「あなた方に関係する事項です。聞いていればわかります。すでに会議途中ですから無駄口は挟まないでください」

「では全員、揃ったところで早速本題へ入ります。一年前、ベルギーの首都ブリュッセルで起った事件です。一人の男が突然、草刈機をふり回し周囲にいた数名がケガ、三名が殺害されました。パキスタン、カラチでは十二歳の少女が友達の首を絞めて殺害、直後に自殺しています」と議長が説明をはじめた。

「半年前ではシンガポールにてシステムエンジニアが通り魔的に女性を刺殺しました。さらに三か月前にはカナダで警察官が銃を乱射十三名が死傷する事件が発生しました。ご存知と思いますが」

 事務局長が補足する。ぼくらの担当した事件だったので、あらゆる詳細は省いたらしい。

「そして一週間前、ボストンで発生した事件です。カウンセラーが患者を撲殺、その後逃走して逮捕されました。アメリカ合衆政府内では類似の殺人事件が三件、直近で発生しています」

 とFBIが発言した内容は、ぼくらもニュースでみた程度だったから素直に驚かされた。

「オフレコだが最近の世界情勢は、まるで皆が殺人者になるべく一致団結しているらしい」

 とアレン議長が深刻な表情で口にする様子は、ぼくらからすればジョークの一種と取られてもおかしくはなかったのだが、

「はじめにあなた方を招集したのは、ほかでもない、国家の秩序を乱し混乱を醸成する犯罪者、エリオット・ゴーンに対し政府として、いかなる方針で臨むか討議するためである」

 というアレン議長の言葉で、ぼくら二名が召集された理由が明確に示された、といっても良かった。

 ぼくらがエリオット・ゴーンに一番近い警察機関の人間で、ゆえに情報を共有し事件解決を促進させる、といった方針ではない。むしろ逆の立場から話しているみたいにみえた。

「三日前、われわれはエリオット・ゴーンの関係者とみられる人間と接触することができた。その時点で撮影されたものだが……」とCIAの親分がナノデバイスに数枚の殺人現場写真をアップロードさせる。銃殺、といっていい写真だ。大量出血しているのをみれば珍しい事件だと思わずにいられない。だから、

「暗殺したのですか?」と質問を飛ばしたのはイブだった。ぼくの知らない殺人事件、政府中枢から提供された写真。イブは数手先がみえている。ぼくもみえる数手先の未来が。

「おおやけにはできませんが。彼はエリオット一派の人間で北米大陸において、とあるサイマティックセラピー処置を流布させている人間でした。ところで中央情報局の任務はアメリカ合衆政府に対し危険分子となる人間を排除することです。排除するのは任務内の活動です」

 と傲慢な態度でくるものだからイブは恨みがましい視線でCIAの親分をにらんでいた。

「あなた方の行動で被疑者に係る人間が一人消滅した。事件解決に至る道が狭まった、という認識はありませんか」とイブは反論する。情報次官は首を横にふって否定していた。

「起こってしまったものはしょうがない。ぼくらがしなきゃいけないのは今ある材料で犯人にいたることだよ。先を続けてください」

 そう諫めて情報次官に先を促す。情報を得なければいけないのは、ぼくらも同様なのだ。

「彼の名前はイブラヒム・アリ。ソマリランドからの移住者です。私たちはカナダ当局協力のもと数か月にわたって彼と彼の周辺を監視していました。彼の周囲で殺人事件が多発していたからです。彼がアラスカへいった翌月、一件の殺人事件が発生しました。また彼がマニラへ旅行にいった折、旅行中に接触した人物が類似手口による殺人事件の被害者となりました。その被害者は、わがアメリカ合衆政府に所属するシークレットサービスでしたが」

 ピクチャー、ピクチャー、ピクチャー……。ぼくの担当した事件で、ぼくの知らない写真が出てくるのは不愉快だが、ぼくの感情などお構いなしに情報次官は先を進めている。

「したがって私たちがアリについて調査した結果、彼がナノデバイスをハッキングして周囲の人間のセラピーレベルを変動させていることが判明しました。体内のホルモン分泌抑制とシナプス伝達物質の操作です」

 警官にはわからないでしょうが、とひと言多い彼はトリア首席の怒りも買ったらしい。

「彼の違法行為と殺人事件とを結びつける根拠は? 確たる証拠も具体的な因果関係もなしに殺害した、ということはないと思いますが」

「各種分析の結果、同時に彼が脳波を変化させる医療行為を行っていることが判明しました。通常、サイマティックセラピーは身体内部のナノデバイスと化学療法を並行させて脳波コントロールを実行します。彼は独自の方法……ナノデバイスのハッキングによって体内で超微弱電位を発生させ疑似EPSPを作り出し電位を変化させるという方法で脳波を変化させていました。あなた方が空港で目にしたものと同じハッキング行為を行っていたのです」

 われらがエリオット事件の最前線たる精神衛生局すら掴んでいない情報が一地方情報機関の人間から次々と出てくる。どうしてなのかはわからないが、ぼくらは一歩遅れていた。

「ゆえに逮捕せずに殺害した、と」

「いいえ。本来であれば捜査局が逮捕し立件する案件でした。ところが彼はアメリカ合衆政府に対し宣戦布告を行った。したがって合衆政府は彼を国家の敵とみなし暗殺しました」

 詭弁ね、とイブが、ひどく独善的で盲目な理屈に嫌悪感を示している。当然といえば当然だった。

「エリオット・ゴーンと彼の一派が通った後には殺人者しか残らない。いや、彼らが殺人者に変えている、といってもいい。現代の社会で犯罪、殺人事件などの重大犯罪がサイマティックセラピーを介して発生することは社会基盤を根底から覆し社会全体の生産性と効率性を著しく害して効用の最大化を阻害する極めて破壊的な行為です。また世界の敵はアメリカの敵であるのと同義ですから自分に迫りくる脅威を排除するのはいたって通常の行動の範囲内です」

 まるで世界の法律であると豪語するごとくCIAはいった。かつてのパックス・アメリカーナが抜けていないのか以前から全世界の宗主国家にでもなったみたいないい方であった。

「みなさん。倫理的かつ合法的殺人の議論が白熱してきたところですが、そろそろ本題へ」

 だがイブがCIAに飛び掛かる寸前で咳払いをして場を制したのは事務局長のミセス・シマだった。

「精神主義国家において人を殺すといった反社会的行為は確実に発生しないあり得ない犯罪としてみられています。ただ人間は完璧ではない。セラピー管理下にあっても年間で数件の事件は発生しているのが現状です」

 とシマ事務局長が、ぼくらをみる。彼女の国の言葉なら釈迦に説法といったところだ。

「ゆえに精神衛生局がある理由ですが……。とにもかくにも人間は、いかに押さえつけても突発的な感情にかられる瞬間がある。ただ、さらに社会を完璧に近づけるには問題を解決しなければならない。私たちは十年前から人間の行動原理プログラムに関するプロジェクトを開始しました」

「人間の意識活動を完璧に制御するプロジェクト」

 ぼくの言葉にシマ事務局長以下は驚いた表情になっている。極秘のプロジェクトであっても普通の人間こそすれ、ある種の聖域である精神衛生局に所属する人間の口に戸は立てられない。いわゆる古くからあるウワサとして精神衛生監察官界隈では、まず有名な話だった。

「そうです。シニアインスペクタ・イサカは、もうお分かりのようですが人間の感情を消し去り完全に理論的存在として管理するプロジェクトです。本プロジェクトに、とある研究者を招いたことから事件の推移が変化してきました。まずは最近十年間において殺人事件の数は全部で一五八件にのぼります。故意であれ過失であれ。ところが、前半期、後半期に区別し観察すれば意外な結果がみえてきます」

 用意されたヴァーチャルデータに視点を合わせれば、ぼくにも意外な結果がみえてきた。

「前半期で合計される殺人事件の数は十三件。後半期で合計される殺人事件の数は一四五件です。とある研究者を招いた年は、ちょうど五年前でした。その研究者の名前はエリオット・ゴーン」

 ぼくは予想していた名前が浮かび上がったのでため息が出る。イブも同じ気分らしいが、

「昨今の状況を生み出した原因は、そのプロジェクトに責任があった、という訳ですか?」

 とぶしつけな問いをするものだから頭が痛くなる。

「遺憾ながら正しいです。彼は過去五年間の研究データを持ち出し犯罪のために役立てました。ひとをしてひとを殺しむる、といった犯罪です。プロジェクトに責任の一端があるといえば、そうでしょう」

「お待ちください。われわれは半年間――ですがエリオットの事件に対し全力で捜査を行っていました。エリオットの件について今回のようなナノデバイスを通したハッキング行為は確認されませんでした。彼の関係とは、なんです?」

 ぼくの問いに、「ゆえに本題なのです」とシマ事務局長は口にする。

「エリオット・ゴーンは私たちの研究成果を持ち出しサイマティックセラピー、いわば外装電位制御なしに人間の脳波域を変動する技術を生み出しました。新技術で私たちにも観測不可能な方法です。イブラヒム・アリは彼の協力者、もとい目的を同じくする同志と思われる人間でした」

 だから暗殺した、とCIAの親玉は傲慢な表情でいる。気に食わないのは右に同じだった。

「では、どうして彼を暗殺しなかったのですか? イブラヒム・アリより機会は、あったはずですが」

「皮肉は結構、ただエリオットにおいては話が異なっていました。現段階まで彼が、なんらかの形で事件に係わっている可能性について認知はしていました。しかし、現在まで世界各地の殺人事件を扇動していると明確に掴めなかったのです。ただ今日において加速度的に殺人事件の件数が上昇し各地からの情報を集合させた結果、エリオット・ゴーンが殺人事件の原因であると確信したのです」

 ひどくみにくいCIAとイブの応戦に事務局長は首を振っている。ぼくがタイミングを見計らって、「事務局長は、なにか意見が?」といえばCIAもイブも我に返ったらしく双方矛を収めた。

「特殊なケースである今回の件はひと一人暗殺しても終わりません。さらに根本の原因であるエリオットを排除して命を奪っても解決するものとは思えません。どころか第二、第三の彼を生み出しいっそう激化するものと思われます。ゆえに彼を逮捕し中核から解決する以外に道はないと考えます」

「したがってエリオット・ゴーンを逮捕できる機関、いや人間であるあなた方にきて頂いた。本件は議会でも内々に合意が取れている。精神衛生局に最大の権限を与える合意がね」

 ぼくは心のなかで半年間、頭脳から離れなかったエリオット・ゴーンを苦々しく思えてくる。いまや彼は殺人事件の現場を旅する旅行者ではなく、むしろ最大の容疑者と判明していた。

 だが、はじめての事件が起きたときからココにいる人間には、わかっていた事実だったのだ。けれども実行する人間には事実が教えられることはなかった。まるでぼくらが関わることを回避したい意図すら感じられる。社会から飛び出して、はみ出し者を追いかけるとは、かくも理不尽なのだと思わされる。

「まず諸君にはふたつのミッションがある。ひとつめは彼が、いかなる手法をもちいて精神同調処理を行っているのか明らかにするものだ。ふたつめは彼を逮捕し立件する。精神衛生局にとっては難しい任務だが、できるかね?」

 とアレン議長は訊ねる。ぼくはもちろんOKである。トリア首席もイブも了承していた。

「可能か不可能か問われたら可能と答えるほかありません。できる限り最善は尽くします」

 そんなトリア首席の言葉に満足したのか議長と事務局長は退出する。部屋に残っていたのは、ぼくらとCIAとFBIだった。

 悪びれもなく、といっては元も子もないCIAとFBIは事件がねじれた事態に対して責任の所在すらないといった様子でいた。彼らもネガティブセラピーの対象者だ。ぼくと同じく自我をもった存在だから考えている内容はわかる。ただ彼らが情報を独占し、ぼくらの邪魔をしている間、どれほどの時間を無駄にしてエリオット・ゴーン逮捕の期間が伸びたのか。

 半年間と未来で、いかなる命が奪われるのか。たった一人の人間がうろつくだけで誰かが誰かを殺しはじめて後には死体が転がっている。ありえない、とも思えない。ぼくは思い出す。半年前にリン・ウェインに会った日、地獄は目の前にある、どこにでもあるといって死んでいった彼のことを思い出す。

 けっきょく彼は地獄から逃れるために死んだ。自ら地獄に立ち向かって倒れた。言葉にしてみれば単純である。だがシンプルな表面の下には複雑な土台が横たわっていて、ぼくらの前に立ちふさがっている。明確でない動機、はっきりしない目的、ぼくは彼を取り調べていた半年間の記憶から途端に苦いモノが込み上がってきた。

「任務の概要は?」

 ぼくはトリア首席に訊いた。ぼくらが召集された時点で、ぼくらのあずかり知らぬうちに具体的な目標も明確な方法も決まっているはず。なぜって、ぼくらに決定権はないのだから。だから首席は胸の階級章を直しながら息を吐いたのち、ややあって話しはじめた。

「エリオット・ゴーンの逮捕です」

「具体的な方法を」ぼくの質問に、わかっているはずだが、といった視線なのは、ぼくらの能力を信用しているからなのかもしれない。いいかえれば、ぼくらができる最良の手段、

潜入(アンダー)捜査(カバー)ですか」と問うほかない。

「そうです」とトリア首席は首肯する。精神衛生監察官にしかできない、警察組織、国軍組織では不可能なミッションとくれば限定されるものだから、その推測も容易だった。潜入捜査、すなわち潜んで逮捕する。警察的活動――事件が起きてから出動するものではなく予防検束と保安処分を目標とした予防的活動だ。

「エリオット・ゴーンは現在、アメリカ、フィラデルフィアで大学教授をしながら精神分析医として活動している。具体的な内容として、あなた方には動向監視も兼ねた活動を願いたい。彼の隣人として接触し秘密を暴くために。バックアップは、われわれFBIが担当する」

 と口を挟んできたのがFBIの親玉だ。完全に、ぼくら主導と思っていたので消沈する。

「本来ならアメリカ国内であるので、われわれが担当する案件であるが、あなた方に比べれば医学的知識もネガティブセラピーに対する経験も実地で活かせるレベルにない。あなた方が現状でナンバーワンなのだから」

 ぼくはFBIの虚栄心の高さと自尊心の巨大さにあきれながら了承する。どうしてアメリカ政府の人間は、みな自分たちが世界を動かしているみたいに錯覚しているのか不思議だ。

「シンガポール事務所の面々はジュネーブの監察官と交代します。彼らや彼女らも連れていってください」

 なん度も一緒に仕事をしてきた人間は信頼ができるので、その辺でFBIが決めてきた急造チームでなくてよかった。人事をFBIに握られていたら現場はたまったものじゃない。

「実行は二週間後。早急に概要をまとめてください」

 ぼくはトリア首席の指示に従った。次のチームへの引き継ぎ、練成計画の作成、スケジュールの調整、偽装IDの準備等々、ぼくらに課せられる仕事は山みたいにあるものだから気はのらないが。


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