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存在領域  作者: 未定
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第五話

 



 第二章




 自分の目の前に地獄がある。地獄は、どこにでもある。そう語ったリン・ウェインはあれから程なくして地獄のない世界へ旅立ってしまった。死、という虚無の世界へ。あの事件が起きた日から半年が経ち、ぼくらの頭を悩ませ続けた奇々怪々たる難事件は、あっけなく容疑者死亡で片が付いた。

 ぼくらは半年間の間、彼の地獄に潜る日々を過ごしている。なぜなら、ぼくらがエリオット・ゴーンに至る筋道で残されたなかで、『リン・ウェイン』という存在が一番近しい存在だったからだ。さらに彼はエリオット・ゴーンをたよった経歴があった。だから、ぼくらは彼の人生を調べ再三取調べを行い彼自身が、どんな人間であるのか掴むべく不断の努力を積み重ねた。

 けれども結果は出なかった。しびれを切らしたアレックスがサイマティックセラピーによって彼の疑似人格を移植してみたこともあったけれども彼のなかにある地獄が、どんなものだったかは永久にわからずじまいだった。

 精神衛生保護施設から棺桶となって運ばれる彼の姿をながめながら、地獄に落ちずに済んだのか、と考える。いや地獄から逃れられたのか、と。もしかすれば本当に地獄があるとすれば本当の方が現実の地獄よりもマシだったのかもしれない。なぜなら彼は自分で選んで死者の国へいってから、いまだに戻らないのだから。

 そんな訳でリン・ウェインは自殺を選んだことになるのだけれども、ぼくらの仕事に変化が訪れることはなかった。彼が保護施設で餓死した知らせを受けた夜、ぼくらはクアラルンプルまで出向いて自殺の原因を探しに部屋へ入った。

 まるで、そうしなければいけない、といった意思が感じられるほど整った部屋には、いくつものルールが重なっていた。ものはきちんと置かなければならない。食器はすぐに片づけなければいけない。ベッドはキレイにしておかなければいけない。

 まるでみえないルールでしばられることによって自分が自分でいることができる、みたいな様子に彼の精神状態があらわれているような気がした。肝心の理由は、けっきょくわからなかった。彼は周囲の誰にも自分の死について相談せずに地獄から逃れるべく決めたみたいだった。

 本当のことをいえば捜査は完全に手詰まりだった。犯人に至るために重要な第一の容疑者が死に、ぼくらに残されたものといえば証拠写真といくつかの生体データと行動記録くらいなものだったから捜査は困難を極めていた。ぼくらに残された情報も入念に洗浄されて昇華させられた記録だったものだから、ない方が有益だ、という始末で手に負えなかったのである。

 したがって、ぼくらは、あれからエリオット・ゴーンと周辺についての情報を入手したのだけれども、まるで教科書に記された人生、というのが、ぼくらの間で抱いた認識で間違いなかった。なぜって、なにもかもが理論的かつ論理的過ぎるものだったからだ。まるで水がゼロ度で凍結するごとく、そうであるようにそうであったように計算しつくされ導き出された痕跡があったから。

 ところでここ半年間、ぼくらは仕事をし過ぎたと思う。リン・ウェインのいう罪が世界中で芽吹きはじめたかのごとく、どうやら世界は今まで失っていた罪を一斉に抱えはじめたようなのだ。アジアやアメリカやヨーロッパ、アフリカで。世界中のありとあらゆる場所と時間でひとがひとを殺しはじめた。まだ少数ではあるものの半年間で犠牲になった人間は百人にのぼる。

 完璧なシステムに完璧な人間……ありえないはずの罪と罰。ぼくらWHO精神衛生局監察官たちは日夜、担当地域のあらゆる場所に出向いて捜査を行わなければならなかったほどに世界は壊れはじめていた。

 だが、まだ市民に事実は伝わっていない。いや国際連邦政府が公表する事件の事実は実際の報道として事細かく正確無比に公表されているのだけれども、ところが取り上げられる対策や方法以外の情報は誰もが知りながら注目しないという異質なサイマティックセラピーによるセレクションによって取るに足らないインフォメーションとして処理されていた。

 いいかえれば自分たちが社会の歯車であることは自分以外の歯車における不調を知らなくても良いことであって、情報はいかにショッキングなものであったとしても自分に対してソリッドなもの以外は自おのずから不適合であるとして不必要の烙印を押せる、といったものだった。情報も資本主義社会の商品として消費や生産できるという具合に人々の生死が取捨選択されていた。

 ゆえに、ぼくらは半年間の間で環太平洋地域を飛び回っていた。アラスカ、マニラ、タスマニア、フィジー。あまりにも世界中を移動したせいで、たぶん自分たちの体は世界のあらゆるもので構成させている、とクーパが冗談めかして、ため息を吐いていたくらいだった。

 ぼくらも半年間で十名の人間を逮捕し合計で二十回、出動した。そんな二十回のうち十一の事件は、ぼくが担当した。逮捕した人間も様々だ。アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人から日本人……いろいろな事件があって、いろいろな被疑者がいた。ところが二十回の事件で九回、とある名前を見聞きすることになる。

 エリオット・ゴーン。

 ぼくらが半年前に取り逃がした人間の名前で現在も取り逃がし続けている人間の名前だった。いつまで経っても目の前から消えず、かといって追いつけない。彼は事件から事件の地域を行き来する旅行者。ぼくらのいく先々で彼の名前が出てくるただのツアーリスト、事件のたびに追いつきつつも捕まえることができない、まるで幽霊みたいな存在だった。

「Q:エリオット・ゴーンとは? A:四十二歳、男性。いまだ正体不明の精神分析医」

 そう冗談めかして口にするのはイブだ。いつもに比べブルーなのは半年間の成果をからかわれているともいえる状況だからだと思う。

「事件で九回も名前が上がっているにも関わらず接触できずにいる謎のお医者さん。歩いた後には死体しか残らない殺人者の王様、ロードオブマーダー。いったい彼の正体とは?」

 非番にもかからわず、ぼくの宿舎へやってきて、あまつさえ近所の中華をオーダーしウィスキー片手によろしくやっているのは半年間のうっぷんが溜まっているからに違いない。

「一般人だよ。旅行好きのね」

 ぼくの答えにイブは、つまらない反応、と横目でみながら首をふっている。ナノデバイス経由でニュース番組をみているが彼女の焦点はディスプレイの先にあるみたいに思えた。

「ただの旅行好きがフィジーなんかのド田舎にいくはずもない。ましてやサイマティックセラピーの庇護下にあるなら、もっとメジャーな観光地を目指すはず。効用最大化を考えてね」

 それこそバカにするな、といいたいイブは追加でチキンもモバイルオーダーしはじめた。

「ねえ、知ってる……むかし、なにかものを手に入れるには対価を払わなければいけなかった。お金とか原始的なものではモノとかね。労働力も、そのひとつ。なにかを受け取る前に対価を支払わなくなったのは、もう二十年以上前にもなるけれども、どうして支払わなくてよくなったかわかる?」

「人間が自分の効用最大化を目指し、人間の効用はサイマティックセラピーでコントロールできることから常に最善の行動をするようになったから。したがって、ある人間の効用をある人間の効用で完璧に埋めることが可能になって支払わなければいけない対価そのものが消滅した」

 ぼくの回答に、「イージーにし過ぎた」とイブは軽く首をすぼめる。基本中の基本だった。

「もしかすれば犯人は世界に地獄を作り出すことが目的なのかもしれない。彼やほかの事件をみて最近、そう思うようになってきた」

 まるでスナック菓子のごとくスプリングロールをパクついていた口元からシリアスな言葉がもれてくれば肩をすくめるほかない。純粋にイブの心に引っかかったトピックなのだ。

「彼はいっていたよ。私の目の間にある地獄は消えないんだって。まるで、そうであるようなアーキテクチャによって構成されているのだ、と。彼みたいな人間を増やすことが目的なら、そうかもしれない」

 ところがイブは、そうじゃない、と頭をひねっている。

「地獄を増やしたいなら、もっとお手軽な方法にするはず……私たちの捜査からまぬがれるくらいに手の込んだ手法を取るようなマネはしないから、なにか別の目的があるのかも」

「別の目的? どんな目的があるんだ?」

 ところが、ぼくが訊ねれば急にくつくつと隠しわらいを浮かべて、「知らない」と返ってくるものだから酔いどれ娘を相手にするのは、ひどく手が掛かること間違いなしだった。

「私にはわからない。知っているのはエリオット君しかいないのだから。その上、あの事件の担当は、あなたで私じゃないのだから自分で考えなさい」

 ぼくが次に、なにを反論するか考えていれば玄関のブザーが鳴った。チキンがきたのだ。

「ひとまずは休憩」とイブが出ていってドローンからチキンを受け取っている。KFCのロゴが入った赤いパッケージは全世界共通で、どこでも食べることができる食事として一級品だった。

「生体認証をしてオーダーをした人間と認められたら食事を取ることができる。自分が自分であることを示せば職を探せて生きることにも困らない。巨大な社会のなかにアイデンティティがあるってことは不便な一面もあるけれども、圧倒的に便利な一面の方が大きい」

「今日の哲学論議は冴えているな」

 ぼくのイヤミを無視してイブは上機嫌だった。

「今日は、そういう気分なの」とイブはソファに戻ってくるが、もうすでにターキーをパクついていて、「私たちが生まれたころには体のなかにナノマシンを埋め込まれてデータを取られて社会に自分が自分であることを保証されていた。ただ昔、もっと昔は自分が自分だと思っていることがアイデンティティだった。数十年前までは自分というものが他人から規定されない、あいまいで不確実なものだったのに、今では第三者の視点から、あなたはあなたと教えられる」

 便利な社会になったね、とイブはウィスキーをチビチビやってアルコールに溺れていた。

「だからエリオット・ゴーンは、どうやって社会から規定されているのか、あなたが歩いた後には殺人者しか残らない、あなたが全ての殺人事件と関係している、と規定されていて自分が自分であるために殺人者を作っているのかも」

「そんな社会ってのは本末転倒じゃないか? 自分で自分を傷つけているのと変わらない」

「ゆえに私たちがいて社会を守っている。自分で自分を傷つけないために傷の元になる原因を探る。社会のなかにある白血球たる私たちから逃げられるのも時間の問題だし――」

 そんなときナノデバイス、ヘッドフォンに着信があった。アメリカ大陸、アメリカ、ニューヨークシティ、WHO・NY支部……ディスプレイに表示された文字列にウンザリする。

「ごめん。私も電話」とイブも同時に着信したらしく酔いどれみどりの状態でヘッドフォンに反応していた。

『シニアインスペクタ・イサカ。非常呼集です。明日、1300までにNY国連本部へ出頭してください。なお非公式の呼集なのでユニフォームの着用は政府施設内へ入場してからです。お忘れなく。ではまた』

 了解、の返答も待たずにトリア首席監察官からのリンク通信が終了した。だが、どうやらイブも同じ要件だったらしい。ぼくが質問する前に、「NYに呼集だって」と痛む頭を抱えていた。



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