第三話
ぼくが精神衛生監察官になった理由は、ある程度の適正があったからだ。サイマティックセラピーの普及によって社会生活における九十九パーセントの仕事は誰にでも同じことができる誰にでも代替可能な職業になってしまったのだけれども、精神衛生監察官や裁判官や医師といった特殊な職業は個人個人の適正によってスカウトされるといった少し特殊な方法がもちいられている。
どうやら、ぼくは精神衛生監察官に適正があったらしい。遺伝子レベルなのか社会レベルなのか身体レベルなのかはわからなかったけれども、就業年齢に達して社会の歯車となったときに一枚の封書が届いたのだ。
エンボスされた高そうな封筒は――いまでは紙面なんてつかわないから一発で、どこから届いた書類なのか見当がついた――国際連邦政府が発行した勧誘の書類だった。ぼくはといえば当時、サイマティックセラピー処置を受けていたから選択するなんて選択肢もなく自分の能力が最大限に活かせる職に就くことが最大の社会貢献であると思い込んで国連政府組織の一派になった訳だった。
なぜって自らの目の前に、完全にあなたにあった仕事ですよ、とおいしいエサをぶら下げられたらアホだって飛びつくに決まっている。選択肢などない世界の全てが自明なのだから。
そもそも選択するとは不明な点について妥協する、といったものだと思う。わからないから二、三の候補を挙げて検討する。みえないから別の視点をもって考える。ぼくらの世界ではナノレベルでの監視技術と量子コンピュータによる超高速演算によって科学法則の実地的検証が可能になったお陰で、あらゆる事象に対する最適解予測が可能になった。二十一世紀の後半のことである。
はじめに物理学、そして経済学、社会学……その流れは次第に社会生活に影響が出はじめて最適解予測は次第に医療の世界にも浸透した。結果として個人個人へ管理と称して人間の自我を一定の型に押し込める精神同調処理が完成する。さらに行動管理まで含めた一体型管理体制が完成し、サイマティックセラピーの普及で人間をある程度のレベルまで他者意思によるコントロール可能になったのだ。
いい換えれば、ぼくらの世界は全ての事象に対し観測可能・予測可能になったせいで結果を変化させることが可能になったのだ。ゆえに予測演算可能な世界を支えているのは情報であって、現在の世界では全ての情報が存在し誰もが自由に全ての情報にアクセスできるのだ。
だからこそ全てが自明なのであって全てが自分の思うままになっている。いわゆる不明点が存在しない社会が完成してしまったのだ。したがって、ぼくらの社会では選択肢という概念がない。ぼくらの目の前にあらわれた『もの』が自分にとって『最良のもの』になるのだから。だから個性がなく個人がない社会、または自分が、たくさんいて自分が存在しない社会ができあがった。
ゆえに、ぼくは、そんな社会でなるべくして精神衛生監察官になった訳だ。ジュネーブの本部でコーヒーを飲みながらモニターを眺める楽な仕事っていわれてね。現実は違ったのだが。
ただイブも同じくスカウトされて精神衛生監察官になったと聞いた。自分を自然体で守ることができる体質は精神衛生監察官として重要な素質だから当然だと思っていたけれども採用されてから判明した彼女の資質は全てにおいて治安当局向きだったことから予測演算の正確さに感服することになる。だから、ぼくらは心のお巡りさんになった訳だ。いまだ個々に様々な事情を抱えて。
しかしながら精神衛生間になってからというもの苦労は絶えない。異世界に放り出されたことや、あらゆることを自分で決定しなければいけなくなったことで、ぼくは新しい世界の順応に大変な思いをすることになった。その最たるものが、ぼくらのボスにして環太平洋エリアで、もっともエライ人間である上司、ヴィクトル・トリア首席監察官の存在だった。
われらがトリア首席は厳格なドイツ人の監察官で、WHOにくる前はユーロポールで勤務していたお堅い上司なのである。せっかくサイマティックセラピーの支配から抜け出せたのに自分で自分を縛っている気難しいお人だ。
ぼくもイブの苦手な部類の人間に入る。逆をいえばトリア首席からみても、ぼくらはキライな人間だ、いったところである。したがって直属の部下二名が人間的相性に恵まれていないアンラッキーな環境にいるストレスは巨大らしく、ぼくと顔を合わせるたびしかめっ面になる。
「昨夜の事件の報告を受けました。被疑者を確保できたのは良い判断だったと思います」
「お褒めの言葉を頂き光栄です」と返せば、「褒めてなどいません。サイマティックセラピーによる社会システムの成果について称賛しているのです」と苦虫を噛み潰した表情となるものだから苦労が伺える。
「本日のスケジュールは今朝十時から被疑者に対する取り調べを行っているのですね。なにかわかったことはありますか」とトリア首席は口にする。だから、ぼくは素直に答えた。
「今のところ目ぼしい証言等は得られていません。ただ気になる点があります。リン・ウェイン、三十三歳、われわれの持つデータと照合できるのはココまで。今回の事件を起こしたのは自分でない誰かを殺さなければ生きていないと思ったから、としています。ですが」
ぼくはリン・ウェインの生活記録を提出する。意外なことにトリア首席は眉をひそめた。
「精神同調処理を受診できる年齢になってから定期的に処置を行った記録も存在し前科もありません。記録によれば生活指標で九.三、社会貢献度は八.六と高い指標を示しています。いわゆる普通の人間です」
「なら高次同調処理が行われたのでは? 意識レベルに達する強力なサイマティックセラピー処置を行えば自分の記憶を隠すことができます。いわゆるPTSDの治療にもちいられる高度な手法です」
そんなトリア首席の予想は、おおかた正しい。同じ見方で検討を付けていた。ところが、
「彼の精神同調律を調べましたが、新たにサイマティックセラピーを行った形跡がみつからないのです。前回行った定期処理から今日までの間で外部から精神同調律が変化した形跡はなし医療機関の記録もなし」
ぼくが肩をすくめてみせれば、「データの不具合?」と首席は口にする。
「可能性としては検討に値します。しかし彼は昨日まで普通の一般人として暮らしてきました。生活用品の購入履歴やナノマシンによる生体監視、監視カメラにおける情報も確認済みです。われわれが保有するデータは完全に正しいものと思われます。ゆえに現時点においてデータについて間違いである可能性は限りなくゼロに近いというのが、本件への統一された判断です」
「可能性で捜査を行ってはいけません。司法の世界は絶対でなければいけないのですから」
「申し訳ございません。優先的に検証致します」とぼくはトリア首席の言葉に背筋が伸びる思いだった。
「ただ現在、私たちの意見としてサイマティックセラピーにバグが生じているのではないかと考えております。原因を追究する上で可能性として考えられる妥当な線であります」
ぼくの言葉を聞いた途端、トリア首席は否定する。
「システムにトラブルなどありません。現在の社会システムは完璧です。疑念の余地を抱くことは社会体制に反逆する行為です。あなたは公に使える身としてふさわしい行いと思いますか?」
「可能性があるからこそ検証を行わなければならないのです。われわれ司法の世界に生きる人間は可能性でなく絶対でなければいけない。そうおっしゃったのは首席、あなたです」
そうしてトリア首席は激昂する。ぼくはといえば次の反論を考えなければいけない。
ゆえに、ぼくとトリア首席は相いれないのだ。
官僚主義の権化たる彼と反社会的人間たる自分、あまりにも水と油で、どこまでいっても意見は一致しない。ぼくが彼の下で働いているのは予測演算の間違いだと考えたこともある。
「とにかく今後の方針は課内で統一されたものが必要です。早急な解決を期待しています」
そうトリア首席はいって退出を促す。朝から嫌な人間に会って不機嫌、らしい。彼もネガティブセラピーをしている身として、まずまず人間らしい人間さがにじみ出ていると思った。
「首席のご意見は?」と国連NY本部にいるトリア首席とコネクトしていたバーチャルセッションから復帰すればアレックスがいた。「答えはわかっているはずだが」と口にする。
「今後の方針について決定せよ、とのお達しですか。今回の事件は現在の体制を揺るがすものだから、どうしても早期解決が望ましいのですね」と。
ただ、早期解決は難しいでしょうなぁ、とアレックスはいう。「精神同調律の検査報告です。シンガポール国立大病院によれば現在における彼の精神同調律は人工のものでなく自然発生的に生じたものと考えられる、とのことです。自分でコントロールしたいみたいに」
「もっと正確に」
「外部からの操作なしにサイマティックセラピーが無効化されている、と。サイマティックセラピーの痕跡がないのに精神同調律が変化している、ということです。原因は不明ですが」
たぶん、ぼくが怪訝な表情をしていたのだろう。アレックスは肩をすくめて、私にもわかりません、といった様子でいる。数々の事件を担当した経験豊富な監察官でもわからないのだから、ぼくにわからないのは当然だ。
「セラピーの有効期間は最大で一年間、現在彼が前回行ったセラピーは三か月前、まだ効果が切れるには早い。自然消滅仮説を立てるには、あまりにも無謀か。前回の処置に問題があったとは考えられないか?」
「もう調べてきましたよ。前回セラピーを行ったケイブリックメディカルセンターのカルテによればセラピーはβ+Ⅱレベルの処置記録があります。同じくβ+Ⅱレベル処置が行われた患者の動向を調査しましたが、異常はみつかっていません。問題はなかったと思われます」
ぼくは良い部下を持てた幸運と簡単には前に進まないアンラッキーを両方感じていた。
「ぼくらも人間、相手も人間。相手が思いつくことは、ぼくらも思いつくと思うのだけれども。そうもいかないね」
ぼくが頭をかけばアレックスは苦笑いでいる。
「シニアインスペクタ・スミスやパメラなども戻ってきています。報告を聞きますか?」
もちろんだ、といいながら、ぼくはセッションルームを出た。ぼくらがいるシンガポール国連事務総局支局は朝から忙しく完全防音室から外に出たら各課の様子が耳に聞こえてくる。
「昨日の事件の影響か?」
「一概には。ただ運輸局と総務局から昨日の事件のお陰で徹夜とクレームが入っています」
彼らとってはいい迷惑だからな、と返せば、「あっちは一般人ですからね」とアレックスの呆れた様子が目に入ってきた。
「ぼくらは、ぼくらことをやるしかない。一回リン・ウェインの聴取に立ち会わせてくれ」
ぼくの指示に、「了解」とアレックスは戻っていく。眩しくみえる赤道直下の太陽が忌々しく思えた。