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存在領域  作者: 未定
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第二話

 



 ぼくが生まれ育ったアジアの島国『日本』とは違って赤道直下のシンガポールは年がら年中、暑くて日の出と日没が変わらない。たいてい午後十八時を超えた辺から太陽が傾きはじめる。だから、ぼくらも太陽の動きに合わせて動きはじめた。

 今回の事件を起こした被疑者が立てこもっているのはシンガポール船籍の貨物船『パシフィックオーシャン』だ。シンガポール港に停泊中の貨物船で船内は無人、AIによる慣性航行によってシンガポールと南米チリの航路を結んでいる。現在もコンピュータ管理による貨物の荷下ろし作業が続いているのは、ぼくたちの捜査活動と物流のストップによる損害を比較衡量した結果、当然ながら後者が優先されるので捜査の邪魔になるとて止められないから。

 ゆえに、ぼくらは縦横に動き回る作業ドローンたちを避けながら船内へ侵入することになった。ぼくらのユニットは船体中央にある搬入口から、イブのユニットは前部甲板につながる桟橋のクレーンから侵入した。

 建物侵入というのは楽な仕事ではない。なぜって本当のことをいえば、ぼくら精神衛生監察官は軍人じゃないし精神衛生局は軍隊じゃないから。本来なら今回みたいな仕事は軍隊か警察の特殊部隊がする任務だと思う。でも犯人逮捕といった名目上、ヘリでのり込んで銃撃戦なんて演じたくないものだから、ぼくらが軍人さんのまねごとをしなければいけないってことになる。

 ただ素人同然のぼくたちが軍人さん顔負けの速さで船内を駆け上がっていけるのは体の動きを向上させた感覚調整のおかげで、ぼくらが先人たちよりも恵まれた環境にいるってのは間違いない。それでもサイマティックセラピー環境において決して行われることのない職業訓練(アルプスの山々を三日以内、脱落者ナシで走破する伝統な訓練だ)によって基礎体力、身体性、柔軟力といった体の特徴を一般的な人間に比べて高めているからできる芸当なのだ。

 優秀なポイントマンであるアレックスが先行する。ぼくのユニットで最先任であるアレックスは体力的にタフだし経験も積んでいるものだから一番先頭を任せてある。角についてはクリアリングをして、つぎの角へダッシュする。繰り返しがスポーツの基本だが犯罪捜査も例外じゃない。といっても被疑者の所在は上空のUAV、IRセンサーによって把握しているものだから慎重すぎることも良くない。だから侵入ペースは、ものすごく速かった。犯人の存在に関する情報を見逃さないギリギリのレベルで、ぼくたちは目標の後部甲板へ向かった。

 通路、というには、ひどくおそまつで、たぶん数か月に一回のレベルでメンテナンス的に使用する人一人通れる狭い経路をたどっていく。ときどき船内のドローンが天井を伝って移動しているところに出くわす。ぼくらの後ろについている強襲ドローンたち三台が互いに挨拶するみたいに器用に避けている。

 ぼくが普段は目にすることのない貨物船の裏側をまじまじ体験している訳で、だから舟というのは巨大な鉄の塊だということをあらためて認識させられる。といっても貨物搬入用の大きな通路を使ってもいいけれども、それでは被疑者の側から丸みえで進むにはリスクが高すぎる。

 ゆえに不便をして安全に進むことを選択させられた。

 ところで現在のシンガポールには、ふたつの勢力がある。サイマティックセラピーを推進し精神主義国家としての発展を望む推進派と自然主義的な価値観を持ち人間は生物として生きるべきといった反精神主義思想を持つ宗教団体の反対派である。両者の数にしてみれば九九:一なのだが、といっても百分の一とはいえ先進国家であるシンガポールの人口でいえば一万人近くになる。

 精神主義国家推進派と反対派の対立は、どこにでもある。アメリカにもEUにも日本にも。ただ今のところ両者ともに共生している地域として国連政府に認められている。ぼくらは、そうした主義間のいざこざを仲裁する仕事もあるし、今回みたいに火種が大きくならないようにする任務がある。今回の被疑者が反対派の人間であれば、なにかと問題が大きくなるので対立構造も変わる可能性だってある。だから、ぼくらに今求められているのは事件を速やかに鎮静化し真相を明らかにすることだった。

 だから四十分の時間をつかって、ぼくらは、ようやく上部甲板に到着した。だが、だいぶ前からイブのユニットは到着していて、ぼくがあらわれるのを待っていたらしかった。

「レディーはまたせるものじゃなくてよ。普段、運動をサボっているからなまったんじゃない?」

 ゆえに、いたずら娘の表情でイブがいってくるものだから勘弁してくれと頭が痛かった。

 ぼくが、「状況は?」とたずねれば、「被疑者は西の太陽光パネル管理棟に立てこもっている。窓はひとつ、ドアもひとつ。守りやすくて攻めにくい。セラピー処置を受けているから中途半端に頭が回って非常に困る」と返ってきた。

 誰だって、そうだ。ぼくもイブも中途半端に生きるハンパ者だから現在、困っている。

「人生中途半端が一番やっかいで、今回の事件も中途半端。ゆえにやっかいな事件になっている。とにかく捕まえて原因を探ってみなきゃ解決策もみつからない。原因不明で終わらせるには不思議すぎる事件だから必ず生きて被疑者を逮捕して原因を追究することを目的とする」

 ぼくの言葉に、「了解」と各自が返してきた。作戦としては、こうだ。正面から強襲ドローンが突破を掛ける。太平洋の暴風にも耐えられる設計の船体は、たかだか警察用のドローン三台で攻略できるものでもなし、よってドローンで気をひく隙に通風孔から、もっとも小柄で身軽なパメラが侵入しテーザーを打ち込む流れに相成った。そして被疑者を無力化後に正面から、ぼくとアレックスのユニット主力が突入し確保する。またイブのユニットは後詰のバックアップだ。

 したがって、ぼくらの後ろをかわいらしくついてきていたドローンたちを解き放ってから、ぼくらは所定の持ち場へ着いた。ぼくはアレックスと一緒にドローンの後ろでパメラからの合図を待つ。そしてパメラは通風孔へつながるダクトに入っていった。とはいえ被疑者は軍事訓練を受けている訳でもない。

 ただシンプルに外壁が硬いのみであって上空UAVのIRセンサーからはドローンが突破を試みるドアに被疑者が取り付いている様子が送信され続けていたものだから仕事が順調に進んでいることを確認することができた訳だ。ゆえにパメラの侵入は案外、上手くいって、かわいいドローンたちがドアにレーザーを打ち込んで十秒も経過しないうちに被疑者を無力化してしまった。びっくり、とアレックスと一緒に踏み込めば部屋のすみに倒れた被疑者を目撃することになったのだ。

 ぼくの目の前でうつ伏せで倒れた男、彼はリン・ウェン、三十三歳。どこにも変哲のない一般人のようにみえるけれども、彼はひとを殺し逃亡した末にとらえられた人間といったところになる。詳しく証拠を揃えて調べてみなきゃわからないが。

 ところでアレックスが彼に手錠をかけてドローンに運搬の用意を指示しているが、まるで肩透かしもいいところだったという表情も浮かべている。ぼくも同意見でダクトからあらわれたパメラも不思議な表情を目の奥底に浮かべているものだから、どうやら現場の全員が違和感を感じ取っていたらしかった。

「ともあれ一件落着。今日の仕事は終了。早く帰ってシャワーをあびたい」

 ぼくはといえば、そんなイブの嘆きに近いため息と同じ意見だが、ぼくには今からシンガポール警察との現場検証、そして貨物船でドンパチやらかしたので運輸局との合同カンファレンスが待っていた。

「どうして彼がひとを殺したのか。シンガポール警察とは別に調べる必要がありますね」

 ただアレックスが神妙な表情をして口にする言葉は、ぼくにとって謎が謎を呼ぶミステリーの序曲に思えてしかたなかったので、どうしても今回の事件に対し気後れする気分になる。なぜなら、ぼくにとってパンドラの箱になる気がし事件を解決することが世界を混乱に陥れる原因になるのではと感じられたからだ。

「今ごろ事件の原因となった人間は遠くに高跳びしているさ。ぼくらが真相にたどり着いたころにはみつけられないほど遠くにね、誰であれ。といっても仕事をしない訳にはいかないから、まずは彼の精神同調律を調べてほしい。どこでセラピーを受けたのかわかるはずだから」

 その言葉に、「Copy」とアレックスが返す。「シニアインスペクタ、イサカ。遅くとも明朝には結果が出ます。すぐに報告書を上げておきますよ」とつけ加えるのも忘れなかった。

「パメラとクーパは彼と彼の交友関係を調べてくれ。彼や彼の友人が、どんな人間で、なにをしているのか。とくに最近になって交友がはじまった人間をリストアップしてほしい」

 ぼくの指示に二人は首肯した。そして、

「被害者は、どうします?」とアレックスが訊いてくるものだから、「そっちはイブに任せるさ」とイブに向かって片目をつぶれば面倒な仕事が増えたと眉をひそめて渋々了承した。

「私たちで被害者と被疑者の接点を洗い出しておく。あればいいけれども、なかったら長引くからね」

 恨み節と一緒にイブは首をすくめている。ぼくは部下たちに指示が共有できたことに満足して撤収準備の命令を出した。だんだんシンガポール警察の連中が上がってきている。

「ぼくは事件が一旦落着してうれしいのさ」

 ぼくらの部下たちが散った後でイブが、ものいいたげにしているものだから、ぼくは肩をすくめて答えてみた。本心では、ぼくもイブと同じく事件に不可解な気持ちでいるのに。

「あなたと同じく。けれども後から真の犯人を捜す困難と手間を考えたら、ひどく憂鬱になる」

 ぼくもイブも同じものをみてきたから今のところは同じものをみることができている。

「どう思う?」ぼくの問いに、「さあ」とイブは観念した様子で闇夜のタンカーをみていた。

「私だってわからない。サイマティックセラピー下においてサイマティックセラピー施行前の事件が起きた。もしかしたらシステムもバグかもしれない。でも私たちに判断するノウハウはない」

「ネガティブに過ぎないかい?」だが、ぼくの楽観論に対しイブは、「今の世界で生きるにはネガティブくらいがちょうどいい。楽観的過ぎればシステムに支配されるし悲観的過ぎればシステムに依存する。どちらも好きじゃない。私は私が正しいと思った道をいきたい」

 と返してきた。

 どちらも好きじゃない。イブからみれば、ぼくらは、どちらにも属している異常な集団と映るのかもしれない。けれども、そんな世界を守るイブも、またイレギュラーな存在として自己を規定している。だからこそ自己憎悪と自己嫌悪が混じった特異なアイデンティティを持ち合わせることになったかもしれない。

「けれども私にシステムを利用しない選択肢はなかった。全てが完璧に回っている社会から、その恩恵を授からない手はなかった。今思えば、まったくバカな選択だったけれども」

「合理的な選択は人間が持っている社会性だよ。普通なら楽な生き方を望むし難しく生きることはしない。ぼくらが同じ世界に生きている限り、ぼくたちと同じ選択をするのは普通だと思う」

「すべての基準が数学的、演繹的であるならば、そうかもね。でも、わたしはおとぎの国のお姫様。わたしの国では、みんな自分が生きたいように生きて死にたいように死んでいる。けっして数学では語れない価値観が全てなの」

 とにかくイブは、ぼくとそんな話をするとき自分が異世界からきたかぐや姫のように語るのだ。まるでいま生きている現実世界が川辺でみる夢であれば、良かったのに、といった様相で。

「ぼくも今はおとぎの国へ出かけている気分」

 ぼくがいえばイブは彼女の目の前にある異世界の風景をながめるように首を振っていた。

「同じ世界にいたっておとぎの国はあるよ。頭のなか、頭蓋骨のなかに。脳波の固有振動数のパターンに。目の前の風景は誰がみても同じだけれども、私たちの頭のなかにある世界は変えられないから」

「なら現実の世界って、どこにあるんだろうね」だが、ぼくの質問にイブは答えなかった。

 そして撤収準備か完了したのか、ぼくらの後ろで会話を聞いていたアレックスが「さて諸君」と会話に割って入ってくる。

「存在論議は、そこまでにしてくださいな。管理職が命令しなきゃ次の行動に移れませんからね」と苦笑いでいるものだから、ぼくは、「わかった」と肩をすくめるほかなかった。

「撤収」と指示を出して、ぼくらの今日の活動は終了した。そして、それは今から長い捜査活動に突入する合言葉でもあった。

 ところで過去には、事件は現場からはじまる、といった言葉があったらしい。各国警察機関、とりわけ日本国警察において現場主義の権化たる言葉だったと聞く。厳正なるシビリアンコントロールと推定無罪の治外法権たる過去の遺物として抹殺された国における警察機構の言葉だ。けれども、ぼくが現在、立っている場所からみたら、たぶん、その言葉は正しかったと思う。ゆえに、ぼくらは今、事件現場にいる。あの七五か所の刺し傷によって血の海となった現場だ。闇夜に沈み不気味であるが。

「想像していたよりも、ひどい」とつぶやいたのはイブだった。ぼくはといえば今、眼前にある光景に対し想像すらできなかったことで、ひどく自分の自信と経験則を打ち破られていた。

「被害者はエリザベス・スワン、十九歳、女性。近辺のショッピングモールで勤務。自宅への帰路で襲われたと思われる。七五か所の刺し傷。もとい全身七五か所の切り傷ね。一回、ナイフを刺してから必ず上下に動かしている。最低五センチ、最大で十七センチ。加えて筋弛緩剤の反応も出ている。たぶん彼女は抵抗もできず、殺されながら自分の体が切り刻まれていく様をながめていた」

 どうして、こんなことをしたんだ、といった言葉は、ぼくの無意識から出た言葉だった。

「リン・ウェンに聞いて。私もわからない。わかるのは彼がシリアルキラーってくらい」

 そんなイブの言葉によって、ぼくは現実に引き戻される。まるで彼女を殺さなければいけない、といった意思すら感じられる現場には合理的な人間としての理性は感じられなかった。

「死因は出血によるショック。四リットルの出血だから、体内にある血液が、ほとんど流出してしまってる訳だ。そして目撃者はなし。もちろん犯行を止める人間もいなかった」

「目撃者はナシ、ね。人知れず彼女は死んでいった。どちらも、かわいそうな話だけれども人生って案外、そんなもの」

 ところで、そういったイブの視線には、しかし同情心ではなくて正義への挑戦に対し立ち向かう強い信念が存在するようにみえた。自分の信じるものを踏みにじられた心中から。

「ぼくらが注目しなきゃいけないのは彼の背後にいる存在さ。今回の事件の裏をひいた人間を捕まえなきゃ被害者の死は無駄ってことになる。なんとしても事件の真相を暴くほかない」

 ぼくがいったところでイブの覚悟は、ずっと前から固まっているみたいにみえた。悪があるからこそ自分たちは正しくあらなければいけない。不正義があるからこそ自分は正義について考えなければいけない、といったように。

「サイマティックセラピーがある現在、私たちが暮らしている社会で、ひとを殺すには面倒な準備が必要になる。まずはサイマティックセラピーを上書きする精神調整処理、そして特定の目的を達成させる高度同調処理、最後にフェイルセーフを突破するためのバーチャルモデルのインストール。同時に三つの処理ができる精神分析医は少ない。まずは、そこから」

 ぼくは、そうだね、とイブの意見にあらかた同意だった。今回の事件はサイマティックセラピーを施行した人間の協力が必要で、精神分析医の関与が限りなく濃厚だったからだ。

「といっても私たちのユニットは被害者の捜査に回されちゃったから残念。そっちは、あなた一人でがんばってください」

 といったイブの当てつけらしい皮肉十分のイヤミと皮肉に、ぼくは頭をかくしかない。

「人生、そんなものってことか」と彼女の横顔につぶやけば、「その通り」と真顔で返すのが憎たらしい。

「じゃあ被害者は任せて。被疑者との関係性を出しておくから。できれば三日ちょうだい」

 ぼくは、そんな提案に、「了解」と返答して承諾した。今のところは順調だ。あとはシンガポール警察に現場を明け渡すのみ。

「なにかわかりましたか?」と頃合いをみて話しかけてきたのは本部長のファーガーだ。

「いまからです」と答えれば、「ならば、たのもしいことです」と合理的な表情が浮かんでくる。そして、じゃあ、あとをよろしく、といわんばかりの視線でイブは、うっとうしそうに去っていった。

「現場はお返しいたします。後々私たちの方で必要な証拠が増えましたら提出頂きたい」

 ぼくの言葉に本部長は首肯する。地方政府の治安当局は中央政府の命令系統に含まれているから首肯するほか選択肢がないのだが。しかし本部長は珍しく怪訝な表情をもらして、

「ところで今回の事件、サイマティックセラピーは本当に大丈夫なのかね?」とくる。ぼくは無視する訳にもいかない。

「完璧なシステムでも、ひとつくらいはバグがあらわれるものです。ただ都度修正していけばよろしい。さらに現在は前世紀のシステムに対する過渡期、いわば修正を行う段階ですから予測の範囲内にあるといえます」

 ただし本部長はお手本のような台詞に対し納得したらしく首肯する。まるで、ぼくの言葉を百%信じる子どもみたいな様子だが、そんな裏のなさがサイマティックセラピーの本質だった。

「生体ナノマシン、いわゆるInsideMEによって収集した生体データと行動パターンを用いてサイマティックセラピーのセッションが組まれています。しかし稀にサイマティックセラピーの効果が出ない、もしくは反対の行動を取る人間もいるのです。もしかすれば彼にも同じ現象が起きている可能性があります」

 捜査情報の開示は国連政府関係者以外に行っていけないことになっているのだが、もれたところで処罰がある訳でなし不信感を示した本部長に対して念を押すべく言葉を重ねた。

「だから予測の範囲内」とファーガー本部長は口にした。ぼくはファーガーの納得に首肯する。

 異常な動作が発生することは失敗ではない。異常な動作の発生に対して対応できないことが失敗なのである。だから異常な動作を解明して修正するのは通常の範囲だと伝わったと思った。

「社会システムは完璧。そして人間はかつてないほどの繁栄を築いている。われわれが享受している現在の繁栄をたかだか十数年の繁栄で終わらせたくないですから不審な点は改善頂きたいですね」

 真っ当な意見に真っ当な欲望で、彼が思っていることは同じ社会システムに属する人間全てが思っていることだった。逆にいえば、ぼくら普通の人間は繁栄と幸福を盾にシステムから縛られている訳だ。だが気付いている人間は少ない。

『完璧に近い社会システムを設計できたとしても人類は完全なる人間を設計できかなった』

 だからこそ、ぼくは無意識的につぶやいてしまう。は? とファーガー本部長が訊き返してきたが無視して続けた。

「人間は、いまだに人間だということです。ぼくらは、どこまでいっても野生といったものを捨てられない。自然は自然のなかにいる人間では巨大すぎる存在だと思いませんか?」

「自然が、われわれにとって巨大な存在だから人間は人間であることをやめたのではないですか」

 とファーガーは、きょとんとした表情になる。無邪気な子どもといったところだ。ぼくといえば、まるで自分と違った生きものを相手にする感覚に陥ってしまって会話を続行する気になれなかった。

 きっとイブも今と同じ気持ちで毎日を過ごしてきたに違いない。まるで他種族と交流している、といった気持ちで。人間の外見をしているのに自分とは前提条件が違う、いや言葉も概念もみている視覚や聴覚、みてくれだって同じなのに、どこか違っていて、どこかズレている。そんな感覚に落とされるのだ。

 だから普通の人間を相手にするのは疲れる。ぼくが精神衛生監察官になって学んだことは普通の人間とぼくらが会話をする場合、会話の前提条件が確立されていないので相手のバックボーンを推察しながら話さなければいけないといったことだった。サイマティックセラピーの導入によって、みなが同じ情報を持って、みなが同じ前提条件に立った普通の環境でない限り、ぼくら人間は一人一人が異なっていて、まるで違った生きものである本来の人間観を思い知ったのだ。

 いや本来ならば、それが普通だった。人類史五百万年の歴史では圧倒的に他人と違うというのがデフォルトだったのだ。ただ、ぼくたちの世界では普遍性が人間というソフトウェアの基本仕様となってしまったのだ。

「申し訳ございません。私、少々人間的に過ぎたようです。任務上、サイマティックセラピーを受診していない精神衛生監察官の戯言ですので、どうか寛恕の上、お忘れください」

 ぼくはいって謝罪した。ファーガーは、ぼくが謝罪したことに対する恐縮を述べて去っていく。まるで方程式のごとく行われる鉄くずみたいな形式美に、ぼくの背中に悪寒が通った。

「まるで台本があるみたいなスピーチ。ああやっていわれたら私に仲間ができたみたい」

 で戻ってきたイブは、どことなくニヤニヤしている。ぼくの言葉を面白がっているのだ。

「本心だよ」といえば、「練習した?」と返ってくる。だから苦笑いで、「少し早口だったかい?」とからかったら、「感動したし同感」とわらっていた。

「私たちは、いまだに薬と医療的処理によって野生を抑えているだけに過ぎない。二百万年間に獣として生み出された運命は、たかだか二、三十年で変えられるものじゃないしね」

 だからこそ人間は信用できない、と思っているイブは、きっと人間界にあらわれた異世界人なのだ。

「アレックスがいってた。われわれは知恵の実をかじった悪いアダムですって。ぼくも同感。ぼくはWHOの監察官になって世界の善悪を知ってしまったから、あっちに戻れない」

 ただ、ぼくが口にしてもイブは否定的だった。

「たとえ地球で生まれた人間がいたとして月で長く暮らしても、そのひとの故郷は地球でしかない。あなたも、いつかは地球に帰る身。どんなに月の世界が居心地よくても生まれた自分を変えることはできない」

「なにごとにも例外はあるよ。地球に生まれたけれども月で死ぬってこともあるだろ?」

 ぼくはいった。けれどもイブは反論もせず、ぼくの言葉を聞いているのみだった。なにをいうでも答えるでもなく、むしろ、なにも知らない子どもをみているかのごとく、ぼくを見守っていた。

「かもね」そうイブはいった。肩をすくめて。どうしようもないな、といったような口もとでかすかな苦笑いを浮かべながら。内心で頭を抱えてみえた。たぶん呆れていたかも。

「今は昔、というけれども、その昔は、あなたみたいな人が、たくさんいたと思ったら少し羨ましいし妬ましい」

 それは暗闇に浮かぶ街灯に吐いた言葉は彼女の内心に浮かんでいた言葉だったのかもしれない。生まれてくる時代を間違えることは、いかに苦しく自分を苛ませるのか、ぼくには全てわからないまでも、かすかに欠片くらいは実感できるみたいに思えた。もしも彼女がサイマティックセラピーのない時代に生まれていたら天性の決断力と自我の強さで歴史的人間になったはずだ。

「そろそろいかなきゃ」ぼくは運輸局のと会合の時間が近づいているのに気がついて口にする。もう、そんな時間。いってらっしゃい、とイブは被害者の方をみながら手をふっていた。

 思い出す。彼女とはじめて訓練所であったときのことを。まるで青いバラがいたみたいだった。というもの自分とは完全に違っていながらも、しかし自分と同じである、といった二律背反の存在をみたからだ。ぼくはといえば、あの日の衝撃をいまだに忘れることができずにいるが、たぶん現在のイブも同じ気持ちなのだ。

 社会に弾き出された自分、社会に弾き出された被害者……絶対のシステムが崩れたときに犠牲者だと思い知った経験がある。被害者と同じ気持ちを抱いたことがある。たぶんイブも被害者の気持ちがわかるものだから、いつにもまして真剣に現場をみつめているのかもしれなかった。


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