第十九話
大西洋上空、およそ一万二千メートル。ぼくらの搭乗する旅客機が東経四十度線を超えたラインで最初の事件がはじまった。ぼくたちが機内にいる間にひとを殺したのはロシア人のイワン・ニコラヴィッチ・ソコロフだった。
ソコロフはサイマティックセラピーを施術する精神分析医だ。彼はロシアで一番といわれる知識と腕前を持ったセラピストでもあった。なのに自分で処理した患者が目の前でひとを殺した。今回の犯罪に対し自分のかけた魔法は効果がないと知るのに時間は掛からなかった。
なぜって彼はサイマティックセラピーに対して十分な知識を持ち原理と機能を知っていたのだから。したがって彼は恐怖に駆られた。自分の処理したセラピーが間違っているのではないかってね。
なにせ原理のわからない、どうやって処理したのか不明なセラピーによって患者が殺人者になったのは、ほかでもない自分のせいかもしれなかったという疑念が生まれたからだ。
だから彼のなかにある思考回路がショートしたのは、その瞬間だった。最適化思考に数十年支配された結果、最適解がわからない問題を前に処理能力がオーバーフローしてしまったって訳だ。だから彼が思いついたのは、もっともシンプルな猜疑心だった。自分の患者が、みんな殺人者になるのではないかってね。そして最後には自分が殺されるのではないかって。
だからソコロフは自分が殺される前に患者たちを殺そうとした。まずは目の前に座っている女性から。あんな事件が起こって大丈夫なのかと心配でクリニックにやってきた三十一歳の女性。子どもは二人。そんな女性に対して、はじめ手もとにあったインテリアで殴打しイスを持ち上げて落とし最後に首を絞めて窒息死させた。
もっとも人を殺すのに効果的で最適化された行動だったからだ。つぎにソコロフは診察室を出てコントロールセンターにいった。彼の病院にある消防装置をフル活用しダメージコントロール用の隔壁を降ろして病棟を閉鎖した。その上で、もってCO2発生装置を起動させた。逃げ場を失った患者たちは瞬時に二酸化炭素中毒となって絶命した。以上が最初の事案である。
お次にロンドン・ヒースロー空港へ到着する時節になって首を吊ったのはソマリア人女優のイマン・ディリーだった。彼女は自分のプロデューサーがホテルの一室から出ていったのを確認してベルトで作った輪っかに首を通した。さらに輪っかの反対側を電灯に引っかけて首に体重を集中させた。
頸動脈が締まっていく。気管が圧迫されて呼吸が弱くなってくる。十秒もしないで脳みそに酸素がいかなくなって脳死状態となった。中枢神経が死んでいくにつれて心臓の鼓動も止まっていった。死後一時間で発見された。
ただし遺書があったのも一件目の事案とは完全に異なっていた。なぜって彼女は、〈自分を守るために誰かを殺せない、しかし二週間後には自分も誰かを殺してしまう、したがって自分の命を自分で守るために自殺するほか方法がなかった、カトリックとして自殺を選んだ謝罪〉といった文面を残して旅立っていったのだから。ふたつの真逆と思われる事件の中心にいたのは音葉だ。
ひとつの殺人事件とひとつの自殺事件が同一人物によって引き起こされたのを知ったのはイングランドに着陸して三十秒後だった。ナノマシンによるデータ通信を復活させた途端にニュース速報が続々と飛び込んできたからだった。
だから生体データを偽装し機内でレンタルしたサーバーに、どえらい数のニュースが飛び込んでくるものだから、ぼくは、いちいち空中を触って余計過ぎるウィンドウをクローズする作業に追われていた。
ただしイギリスはアメリカと違って、いまだ平和を保っていた。もとい水面下では緊張感が高まっているけれども表層には出ない緊張感だった。みんな何食わぬ様子でハローとかハーイとか話している。引きつった顔をしてね。
だからサイマティックセラピーを導入してもお国柄が出るのは間違いないと思わずにいられない。人間を平坦にしてみたところで遺伝子レベルの差がある側面は克服できなかったのだ。
どうやっても十数年そこらで身につけたテクニックでは一億年以上ある人間の土台をくつがえすに容易じゃなかったらしい。それぞれの国に生まれて、それぞれの国に適した進化をしてきた人間は、そうした地域にいる人間で独自の進化を遂げているといっても過言じゃない。世界レベルでフラットになった時代でも多数の人間は生まれた国で死ぬものだから、もっともらしい理由をならべても地域の差が出るのだ、と直感した。適切な淘汰生存の機能だと思う。
ぼくらが到着ロビーに出たらサプライズが待っていた。なぜなら、ぼくらの名前が書かれたヴァーチャルを見出すコートの男性が待っていたからだ。だから途端に、ぼくは警戒させられるのだが、かの男性はにこやかに近づいてきて、
「インターポールのブラントです。ヴィクトールの友人で元同僚。あなたを待ってました」
とくるので、ぼくはイブと視線を合わせるはめになる。本当なのか信じていいのかなってね。
「警戒なさるのも無理はない。なぜなら、あなた方は追う身から追われる身になったのだから。けれども大丈夫。私たちの組織は精神衛生局とも異なる価値観を有していますからね。あの組織から重要指名手配を食らった逃亡犯を二人くらい匿うのは容易いのです。まあ今の情勢に比べたら」
だから隣でイブが、「首席は、なんと?」と訊いている。
「部下がロンドンに発ったから手助けしてやってほしい、と。なるべく彼らの望みを叶えてほしい、ともね。あなた方は、どうやら信用されているらしい。さもなくばヴィクトールが、そんな伝言は寄越しませんから」
そうブラントは歩きはじめる。ぼくらは着の身着のままの格好で彼の後を付いていった。
「車を用意しています。登録者の名義はヒルシャーで。あなたの生体データを偽造して作った名義ですから現在の偽造データを上書きしてください。おおよそ五日は時間を稼げるはず」
「五日ですか? 次のステップに進むには十分な時間と猶予です。ご協力、感謝致します」
ぼくがいえば、「私も一人の警察官として今回の事件は見逃せなかった」と彼は口にする。
「ただし国連本部は、もうだめでしょうな。あそこはアメリカ政府の息の根が掛かった連中が巣を作っている。あなた方が飛ばされたのも、その一環でしょう。事件を早めに解決してもらったらたまったもんじゃないですからね」
「アメリカ市民を守るために独自の政策と路線に転換すべきであるのに国連政府が許可しない。したがって市民を守るために独立への大義も立つって寸法ですか? 仕組まれたものですね」
「ただしアメリカ政府も瀬川音葉を見誤ったらしい。今回の事件で、もっとも被害が大きいのはアメリカ地域です。既に各地で小規模ながら暴動が勃発している。ひどい状況です」
とブラントは苦い表情をみせた。
「毒を以て毒を制す、どころか逆に毒から飲み込まれた。不正をすれば不正に飲み込まれるものです。正しい道をいってこそ未来を拓くことができるのに彼らは方向性を間違ってしまった」
陰謀は陰謀しか呼びませんから、とブラントは肩をすくめた。どうにもならないバカみたいな未来を見据えてね。社会インフラであるシステムが崩壊している今、すでに達観している彼の表情はひどく場違いにみえた。
「今回の事件で私たちは、なにもできなかった。しかしサイマティックセラピーから逸脱した純粋な警察的規制が復活すれば私たちの出番となります。今度こそ私たちの世界を守ってみせますよ」
とブラントはいう。ぼくたちへの皮肉ではなくて自分の使命に対し忠実なプロフェッショナルとしての言葉だった。人間は、どこまで未来が暗くても希望を持てるのだと思った。
「ところで瀬川音葉が寄越してきた期限は二週間です。あなた方は、あの宣言動画をご覧になって、どう思われました?」
ぼくの前を歩くブラントが立ち止まって訊いてくる。随分と直入な質問にたじろいだ。
「期限が二週間とは本当に期限なのでしょう。彼女がブラフやウソをならべるとは思いませんから。たぶん二週間後になんらかのトリガーによってウイルスが発動するのだと思われます」
「同感です。私も動画をみて同じ意見を持ちました。ひとを意のままに操ってひとを殺せるなんて信じられませんが、けれども可能なのではないかっていう確信は持ちましたね」
「彼女の言葉にはひとを信じ込ませる魔法が掛かっている感覚があります。ぼくも話しをしましたが、彼女の話し方や雰囲気はひとを惑わせて船を難破させるセイレーンに似ていると思わされました。カリスマです」
ぼくは音葉と話した二回の場面を思い出す。彼女は自分が持つ言葉の効果を知っているみたいだった。自分の発する言葉によって相手が、どんな風に感じるのか、なにを思うのか熟知しているみたいだった。しかも彼女の行動からもカリスマが滲み出ているものだから、ぼくでは手に負えない。
「ところでサイマティックセラピーに問題がある以上、どうにかして修正パッチを配布すべきといった意見が出ています。ジュネーブWHOの本部内で。私たちにも協力要請が届いていました」
といってブラントは再び歩きはじめる。みんなが、ぼくらを無視するので平穏を保ちながらも、みえないところで慌ただしくしている空港内は精神衛生監察官の異常性に構えるほど余裕がないらしく思えた。
「スターリンクの被害状況は、どのくらいなんでしょうか? それによって変化しますが」
「被害甚大です。現在、八割の衛星に障害が出ています。残った二割の衛星で当分はデータ収集をしつつ地上の回線の補助を行うというところです。ただ通常値の一割程度しか有効作用していないと報告が上がっています。全人類に最低で修正パッチが行きつくには半年が必要です」
ぼくは自分のシミュレーションが正しかったことを確信し現在のどん底に頭痛がする。
「二週間以内に効果のある修正パッチを配布するのは不可能です。ましてや開発できるのかすらあやしい。開発できたとしても、全人口には行き届かない可能性がある。まさか対象を選別して配布するのですか?」
ぼくの問いに、「はい。おおむね予想の通りです」とブラントはいっていた。たしかに方法として正しいかもしれないが選択として間違っている場合はたくさんある。そんな方法が、もしも実行されたのなら人類は有史以来の歴史上、最悪の選択をした、といっても過言じゃない。
だから隣でイブが、「舞台はミスキャスト、設定は矛盾であふれてる。けっきょく、これが私たちの精神主義ってやつなのね」と悪趣味な冗談をならべている。自分の守るべき世界は本当に守るべきなのかってね。
「みんなで力を合わせて良い世界を作るってのは難しい話しでもないのに、けっきょくのところみんな自分のことしか考えなくなる。現代の人類は過去の人間と変わっていない」
というイブの発言に、「悲観はやめましょう。いまがどん底ですから落ち込むのもわかりますけれども」とくる。
そんなブラントの言葉に、ぼくたちは希望を見失っていたのかもしれないと思わされた。
「ところで、なにか私にできることはありますか? できる限りの協力は惜しみませんよ」
「ありがたい。ならメイヤー教授の所在をお教え頂けますか? アルフレッド・メイヤー脳医学博士です。オックスフォードにいた」
「アルフレッド・メイヤー教授? あなた方じゃ精神衛生局のデータベースにアクセスできなくなった今、ひと探しをするのは苦労するでしょう。当分の間、インターポールのデータベースにアクセスできる権限を貸与しますよ。バレない程度に謹みをもって使用してください」
ぼくのサーバーにブラントはインターポールのアクセス権限を委譲した。インターポールのデータベースといえば各国治安当局のデータを統合したものだ。精神衛生局が保有するデータとも遜色ない。
「あとは瀬川音葉の足跡に関するデータを揃えて頂くことはできませんか?」
「彼女に関するデータなら、すぐに作成できますよ。なにせ現在、精神衛生局とFBIが第一級の殺人者として指名手配しているくらいですからね。きっと全世界の捜査機関が血眼で捜査していますから。ただし、あなた方がほしいのは、そんな添加資料にまみれた足跡でないと?」
ぼくはブラントの言葉に頷いた。ぼくらが現在ほしいのは音葉の着実な足跡であった。
「いいでしょう。インターポールのデータは各国の情報データの統合ですからね。消去されたものだとしても痕跡を探せます。一日、二日待ってください。四日あれば確実です」
したがって彼の力添えのお陰で、ぼくたちは今までの捜査活動を継続できるのだと思ったね。だから瀬川音葉逮捕にも希望がみえてくるので、どうやらできる上司に感謝しなければいけないのだと確信する。悪いやつは絶対に捕まえるトリア首席の哲学を絶やしてはいけない。
そうやって、ぼくらが空港の駐車場まできたところでブラントはひと言だけ訊いてきた。
「最後に、あなた方が瀬川音葉を逮捕しても、もはや世界の崩壊は止まりません。どうして、あなたは彼女の逮捕に全力を注ぐのですか?」
「ただの復讐です。自分たち世界を壊された、そんな不正に対する。とてもシンプルな」
ぼくがいえば言葉にブラントはぎこちなくわらった。とてもじゃないが警察官の言葉とは思えないって感じでね。
だから、「では冷めた復習に乾杯」と苦笑いで車のキーをわたしてくれた。以上が、ぼくたちのクーデター日記、最初の日だった。どんなことも、どんな目標も、どんな動きも自分で決めなければいけない最初の日だった。いかなる組織にも属さず、いかなる人間と接触も避けて自分で行動する初めての経験だ。
ぼくの隣にいるイブは、そんな日常を毎日送っているのだと思ったら尊敬の念でみなきゃいけない。ぼくら人間は自由過ぎれば逆に不自由になる。限られた選択肢から選択するのは得意だが、無限の選択肢から選択するのは、めっぽう不得意なのだと思わずにいられなかった。
なぜって、ぼくがしなきゃいけない選択が頭蓋骨の中身にたくさん浮かんできて、どうすれば良いのかわからなくなりそうだったから。けっきょくのところ人類は精神主義の名の下に自由から逃げていたのだと思わずにいられない。
精神主義といった型に嵌って独裁者や社会不安といった不合理からの不自由は脱却したけれども、まさに未来への自由といった自由については最後まで達成できなかった。みんなサイマティックセラピーによって作られた不自由のなかで、たしかに自由な暮らしをしていたものだから。
だから、ぼくは、とてつもなく孤独を感じている。どんな組織にも属さず、どんな人間との関係も絶った自分は、なに者でもなくなっていたからだ。たぶん人間は人間のなかでしか自分の存在を見出せず、ほかの人間のためではなく自分のために生きられるほどに強くない。いや、むしろ弱い存在なのだ。
ゆえに、ぼくは今まで精神主義といった権威にすがっていたし音葉だって権威主義を破壊すべく躍起になっていた。そして国民は、ほかの人間と同化し完全なる孤独から逃避していたのだ。
ぼくや音葉や国民は、みんな同じ穴の狢だった。だから、ぼくよりも先んじた音葉に出し抜かれたし国民は窮地に陥っている。たぶん、ぼくは、ようやく音葉が通った道を今通過できたのだ。ずいぶん昔に音葉が通った道筋を再現できたのだと思った。だからって音葉の苦しみや決意がわかる訳じゃない。ああ、そんなことなのだって思うくらいの情緒だった。




