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第一話

 



 第一章




 ぼくの仕事は精神を監視する仕事だと思われている。少なくとも現時点では。世界保健機関、いわゆるWHOの一部局、精神衛生局の監察官として太平洋エリアを飛び回っている間は、あながち間違っていない。しかし、ぼくらが監視するのは、もっと専門的なエリア。人間の心を監視するのが、ぼくらの仕事だ。

 詳しくいえばNPTの精神版、『人間の精神と自我に関する政府間条約』に従い違法なサイマティックセラピーの兆候を監視するのが目的だ。世界中に観測機を設置しデータを集め分析を行って、まことしやかにおこなわれている違法なセラピーを検出するのが仕事だったはず。本来はね。

 けれどもジュネーブの本部でモニターをながめながらコーヒーを飲む仕事といわれ入局したのが二年前だが、ぼくに与えられた本当の仕事はデスクに座ることもできないくらいにタフでハードできつい仕事だった。なぜって、ぼくが配属されたのは精神衛生局の中枢のなかの中枢、監察部だったからだ。

 ぼくたち精神衛生局の仕事は大まかに区別して二種類ある。ひとつ目はデータを集積する仕事、いわゆるデスクに座ってコーヒーを飲む仕事のことだ。ふたつ目は現場に出て犯罪者を捕まえる仕事、いわゆる精神犯罪者を逮捕する仕事ってやつだ。精神衛生局は、そんな風に監視部、監察部とわかれて仕事をしているが、たいてい監察部の方が大変な仕事になる。というのも国連政府に認められた警察機関――いわゆる心のお巡りさんとして活動しているから。

 十数年前までは心の健康をつかさどるWHOの一部局だった精神衛生局が準司法権と準立法権を持つまでに成長したのは、ひとえにサイマティックセラピーが普及したからである。

 人間の精神と行動をコントロールできるテクノロジー。そういった詐欺まがいの謡い文句で開発された新技術は人間の心と体の両方をコントロールし望んだ自分になれる道具として瞬く間に社会に浸透しはじめた。ぼくが子どものころ話だ。もっとずっとおさないころのね。けれども、とんでもない衝撃だったせいで、ぼくにおける当時の記憶は鮮明に残っている。

 その後、サイマティックセラピーは急速に社会システムの立場を確立していく。社会インフラとして人々の生活に欠かせなくなった「サイマティックセラピー(PT)」と一般市民を守る盾として国際連邦政府事務総局内部に、ぼくたち精神衛生局が設立されたって訳。そしてサイマティックセラピーの規模が拡大するにつれて自らの権力も巨大化し捜査権、連邦議会への具申権を持つまでに成長した。

 ぼくたちの組織の歴史、社会の歴史は人間個人のアイデンティティと独立性と向上心を捨て去るまでに進化した。おろかでみにくい前世紀の反省としてユートピアを完成するために生物としての尊厳を捨て去ってもだ。だが、そんな社会を守るために、ぼくたちがいる。もっとも相手にするのは普通の犯罪者ではないのだが。

 精神主義、という言葉がある。無意識のコントロールと自我の抑制を兼ねた精神同調処理、いわゆるサイマティックセラピーによって行動を管理し社会効用の最大を目指した社会のなれの果て、いや現状のことだ。いわゆる人間の意識を管理して社会学的・経済学的理論と行動を合致させる究極の管理計画、または人間の代替性を最大限に向上させて、なに者にもなれる、といった甘言、いや口上によって、社会の能率向上と個人の人格の両立を最大限に尊重した社会のことである。

 ところでサイマティックセラピーが普及していくうちに人間の無意識的作用を利用した犯罪、『精神犯罪』が増加した。国連政府は増加する精神犯罪に対処すべくWHOに精神衛生局を設置、そんな主義・主張を守るのが、ぼくら精神衛生監察官の仕事になった。

 無意識をのっとられた人間や、のっとってくる犯罪者たちの相手だ。ときにはセラピーの効果が薄れた市民たちや精神主義に同調しない活動家たちなんかを相手にすることもある。だから、ぼくら精神衛生局はWHOの首狩り部隊、精神主義を守る尖兵と周囲から指をさしていわれることがある。

 まだ完成しない完璧な社会をつくるため……ぼくらは、そんな大そうな大義名分のためにはたらいている。けれども、やっていることは警察やシークレットサービスなんかと変わらない。ゆえに、そんな事情で今回も完璧な社会をつくるためシコルスキーのヘリにのって仲間たちと一緒に精神犯罪の現場へ向かっていた。

「大丈夫ですか? イサカ上級監察官……」そうブリーフィングの手を止めたのは、ぼくの部下であるアレックス・ロドリゲス監察官だ。どうやら連日の激務で移動中に眠ってしまっていたらしい。

「ブリーフィングを続けます。現場はチャンギ空港近くの繁華街、最近完成した商業施設の一角です。警察当局からの報告によれば三十代女性の刺殺体がセキュリティによって発見されました。被害者の精神同調律を測定したところ、被疑者と思われる精神同調律に干渉された形跡がありました。したがって精神犯罪と断定、通報に至りました。現在、推定中の精神同調律はコードレッド、異常調域です」

 ぼくの反応をみたアレックスが気を利かせて現地警察から送られてきた報告書を読みながら補足している。コードレッド、というのは、ぼくら精神衛生監察官がつかっている隠語だ。

 ぼくらは個人個人や社会全体の『精神同調律』を計測している訳だけれども、精神同調律が通常値から外れた値になればなるほどに赤い数字で表示されることになるのだ。だから異常調域を記録した場合はコードレッドになる。逆に通常はブルーだ。

「被疑者の足取りは?」

 ぼくの同僚のイブ・スミス上級監察官がアレックスに訊ねている。

 ぼくを含めた上級監察官には事前に報告書が配布されるので、わざわざイブが訊ねる必要はないのだけれども重要事項ゆえにユニット全員に共有するべく問いを投げかけたのだ。

「被疑者は現在、東南東、ショッピングモールから一キロ離れた工場区画へ逃走中。現地警察が対処していますが、逮捕の目途は立っていません」

 その報告を聞いたイブは、わかったかい? とキャビン全員の表情をみて返答している。

「到着地点を犯行現場から工場区画へ変更、ぼくたちも被疑者逮捕に協力する。現地警察本部にその旨通達。また工場区画にUABの派遣を要請、上空援護をもって現地警察よりも先に捕らえる」

 ぼくがいえば、「了解」と分析担当官のデイビットがシンガポール政府との調整に入った。

 そして、『到着まで三分』とコックピットからのリンクが耳小骨に響く。ぼくたち精神監察官は通信機をむき出しで持たなくても通信ができるよう各所に設けられたリンクスポットにアクセス可能な生体デバイスを埋め込んでいる。だから基本的にインターネット環境がある状況では自由に通信ができるのだ。ゆえに機内も例外ではなく短波に比べて秘匿性の高いリンク回線を使った通信が使用されている。

「質問は? では以上でブリーフィングを終了する。各自は現場到着まで待機」ぼくがいえば部下たちはイブのユニット、ぼくのユニットにわかれて自分たちの座席に戻っていく。

「ところでミッチ、被害者の写真みた?」そしてイブがブリーフィングの終了と共に耳もとでささやてきた。

「みたよ、みた」だから、ぼくは手もとのホログラムに浮かび上がっている捜査資料に再度目を落としてから、「全身七五か所の刺し傷、ちょっと異常だね」と返すほかなかった。

 全身七五か所の刺し傷、体全体に広がったナイフの痕跡……ぼくら精神主義国家、しかもサイマティックセラピーを施された人間の間で起った犯罪だとは到底、考えられない内容だ。

 なぜってサイマティックセラピー下の社会においては全てが最適化されるので無駄が徹底的に排除されているから。全身七五か所の刺し傷なんて無駄の極み、なんていったら元も子もないけれども、明確にひとを殺す目的があって、そして人を殺したのならば必要のない行為で間違いない。

 いや被害者に恨みがあって、復讐心から相手の身体損壊を目的とした行為結果なら、あるいは可能かもしれない。だがサイマティックセラピー処置を施された人間なら七五か所程度で収まるまずもなし、その上、元も子もない話になるがサイマティックセラピーを受けた人間ならば復讐心を持つことができない。なぜなら最適化された社会では、ひとに対して復讐心を持つような失敗や原因が発生しないから。だから異常な事件でイブは怪訝な様子なのだ。

「すべて中途半端。まるでイレギュラーって言葉でまとめるのも、おこがましいくらいに」

「理由を知りたいなら、まずは犯人を捕まえるところからだね」と返せば、「パンドラの箱じゃなきゃいいけれども」と返ってくる。

 ぼくはイブの表情をみながら事件の奥に潜む犯罪者の表情を想像するほかなかったが、

「もしパンドラの箱なら最後に希望が残る。ぼくらの仕事は希望が重要だから十分だろ?」

 と冗談めかして肩をすくめた。ぼくの言葉にイブは、まったくといった様子で首を振る。

 なんなら、もっといいジョークが飛び出してくるのかもしれなかったが、ジョークも打ち止めだった。なぜって、だんだんとヘリが降下をはじめているからだ。夜に沈んだウィンドウから市街地の夜景がみえるようになってきた。

『到着まで三十秒。キャビンのみなさんはシートベルトを着用の上衝撃に備えてください』

 そんな機長のふざけたリンクボイスによって会話を止めてベルトを装着する。地上まで五十メートル、二十メートル、十メートル、五メートル、現地警察の誘導灯が、もっとも大きくなった瞬間にG負荷が最大になった。がくん、とした衝撃と一緒に機体の揺れが停止する。きちんとベルトで固定していなければ五メートルは吹き飛びかねない制動を掛けてタッチダウンした。旅客機ではないから快適さは求めないが、体にかかるマイナスGは戦闘機クラスだ。

「降下、降下。各自、ユニットにわかれ集合」ぼくの号令で部下たちが機外に集結する。

 ぼくらのユニットで、もっとも年上であるアレックス、分析官デイビット、そして紅一点のパメラ、ぼくと同じ一昨年に配属になった新人のクーパたちだ。いつものメンツにいつもの事件、いつもの状況だった。

 だが、ぼくらが機外に出れば意外な状況がみえてくる。とっくに投入されていたと思っていたシンガポール警察の特殊部隊STARが待機しているのが目に入ってきたし、捜査本部も慌ただしくない。むしろ落ち着いているようにもみえた。

 もしかしたらシンガポール警察は手こずっていないのかもしれない、といった推測が頭蓋骨のなかで転がったのだけれども、捜査本部の重苦しい雰囲気が伝わってくるにつれ邪推だったと確信する。

「シンガポール警察本部長、トマス・ファーガーだ。捜査本部長も兼任している。シンガポール政府から通告があったので現時点よりシンガポール警察はWHOの指揮下に入る」

 それから警察の構える捜査本部にお邪魔しにいけば、いつも通りの文言で迎えられた。

「ミチ・イサカ、あちらはイブ・スミス、そして部下たちです。以上、精神衛生局のメンバーです。現在の状況、どうなってます?」ぼくが質問すれば、

「現在、われわれは被疑者を第十二区画の北口、ノーザンパークより貨物船パシフィックオーシャンへ追い詰めた。だが船内は狭くサイコシンドロームの懸念があるので現時点では警察官の突入を控えさせている」ときた。

 捜査本部のテント内中央で光るホログラフィックに第十二区画の地図と貨物船パシフィックオーシャンの見取り図が映し出されている。貨物船は、いわゆる無人軌道周回船であるドローン船舶だ。

 資源がある地方から資源のない地方へ資源を届ける、そんな使命にかられてGPSとAIを核に稼働する永遠の運び屋……ぼくは自分たちのサーバーにデータを保存しながら、「正しい判断です」と相づちを打つほかない。

「被疑者の身元が判明している。リン・ウェイン、三十三歳男性、定期的なサイマティックセラピーを受診しているジオニストで住所はアダムストリート二三四八、シンダイオフィスのプログラマー。現在、後部甲板のハッチに潜伏している模様。貨物船の内部へ入るにはバイオメトリクス認証を突破しなければいけないが、彼の生体データは登録されていない。窓ガラスを破って内部に立てこもっている様子である。武器はナイフ、拳銃が確認されている」

 ぼくは情報を記憶しながら逮捕計画を頭のなかで組み立てていた。

「精神衛生局が引き継ぎます。われわれはサイマティックセラピーに対するネガティブセラピーを実施していますからサイコシンドロームの影響はありません。支援を願います」

 ぼくがファーガー本部長に要請すれば、「具体的には?」と怪訝な表情をされることになった。

「われわれの誘導支援、無線中継ならびに被疑者の位置を教えてください。あなた方が上空から監視しているあのカメラ、あのUAVで上空から援護して頂ければ、けっこうです」

 ぼくがいえば、「わかった」と本部長は納得したらしかったので、どうやら、ぼくらの意思は正確に伝わったらしかった。けれども警察本部の人間と完全たる意思疎通を図ることは、ぼくらにとって難しい作業だ。

 なぜって精神衛生局はサイマティックセラピーに対するネガティブセラピーを実施している、というのは、いわゆるサイマティックセラピーの効果を打ち消す処置をしているということだからだ。ぼくたち精神衛生局の監察官は自らの身を守るためにサイマティックセラピーに対して防御処置を取らなければいけない。

 その昔、精神衛生局ができた当初、サイマティックセラピスト、いや精神分析医たちによる精神犯罪が多発した時期があった。その産みの苦しみの七年間といわれたサイマティックセラピー黎明期では多数の精神衛生監察官が命を落とした。自分たちで自分の命や仲間の命を手にかけて……

 サイコシンドローム、自らの知らないうちにサイマティックセラピーを処置させられ望まぬ行動を取ってしまうことである。精神分析医たちなら、ぼくたちのセラピーに干渉して上書きすることもできるのだ。

 というのも精神犯罪者は人間の精神をあやつることで犯罪するし、ぼくら監察官自身も心を持っている。しかし、ぼくらの心は強靭なのであやつられない、といった理論は存在しない。

 ぼくたちが相手にするのは自分たちの心をあやつれるお医者さんたちで、ぼくらの心だって簡単に操作することができるのだ。ゆえに自分の頭を自分で撃ち抜いた、ならまだいい方で、庁舎内で銃撃戦を演じることや公用車を使って歩行者の群れに突っ込んだといった不祥事が連発したら上層部だって対処策を講じるたくなる。

 だからネガティブセラピーだったって訳。

 サイマティックセラピーが効かなければ精神をあやつられる心配はない。精神があやつられなければ精神犯罪者と対等な立場に立って捜査を進められる。望まないサイマティックセラピーであるサイコシンドロームの発症を抑えられる。したがって精神犯罪者によって、さらなる被害が出ることもなく事件を鎮静化できる。

 また自分たちに身も守れるので一石二鳥だ。ということで、ぼくら精神衛生監察官たちはサイマティックセラピーを無効化する処置を受けることになったのだ。ところで意外だが、ぼくは当時のエライさんが取った方法をシンプルで効果的な処方だ、とかなり高く評価している。ぼくたち精神衛生監察官が普通の日常生活を送れないといった欠点をのぞいては。

「追い詰めた、じゃなくて立てこもれられたの間違いじゃないの?」とシンガポール警察捜査本部を出たらイブが隣でもらしていた。ぼくはヘリの方へ移動しながら苦笑いになる。

「サイコシンドロームが出たら大ごとだから、なるべく被害をおさえるべく考えた結果だと思う。彼らもバカじゃない」 

「サイコシンドロームが発生したら誰が味方で誰が敵かわからなくなる。犯人逮捕の効用を比較衡量したら、そっちがいい。わたしたちもくることだし、か。職務怠慢じゃない?」

「ぼくたちは社会のためになることをしなきゃいけない。そして犯罪者逮捕に対して、もっとも良い方法をとることが社会にためになる。今回は、ぼくたちに任せるのが最良の方法だった。ぼくだってセラピーの管理下にあるときは、そうやって考えるさ。情報の非対称性を完全に克服できたし、それこそ無駄な見栄やエゴを張っても自分のためにならないから」

 ぼくがいえばイブは、わかっている、といった風に頭をふっていた。イブ……イブ・スミス監察官もといイブ・スミス上級監察官は、ぼくと同期で精神衛生局へ入局し訓練を受講した十三人の一人だ。

 彼女とは不思議と気が合って訓練校時代ではよくつるんでいた仲だった。そんなこともあってか成績も同じくらい、だいたい廊下に映し出される週間成績のランキングでは二人差以内で激戦を繰り広げていた記憶がある。そして訓練学校での一年間の研修とジュネーブ本部で一年間の初等配属を経験し現場の監察官として任官した先も同じく環太平洋エリアだった。いうなれば不思議な縁ってやつ。なにからなにまで似ていたが、完璧に違っていたところがひとつあった。

 精神性解離性自我障害――彼女といえば精神衛生監察官になるべくしてなった素質があった。精神同調律を外部から操作できない障害、いや体質を持っていたからだ。いわゆる原罪体質者といわれるもの。ひらたくいえばサイマティックセラピー処置を受けても効果を得られない人間だったのである。

 精神主義国家においてサイマティックセラピーを受診しない権利はある。そして受診していない人間も、たしかにいる。しかし彼ら彼女らは少数民族の末柄や宗教上の禁忌によって近代的技術を拒否して独自のコミュニティーで生活しているのであって自らの意思において不便を甘受しているといっても差し支えない。

 しかしながらイブに関してはサイマティックセラピーの効果がない体に生まれてしまったことで不自由を強いられているのだ。自らの意思とは関係なく。どれほどに大変な生活だったのか、といったことは、ぼくが精神衛生監察官として任官してから思い知ることになる。

 サイマティックセラピーを受診している人間では考えられないけれども、精神衛生監察官になってネガティブセラピー(サイマティックセラピーの効果を無効化する処置)を実施したところ、はじめに困ったのは他人に意思を正確に伝えることができなくなったことだった。サイマティックセラピーの原理は人間をひとつの基準におしなべて、自分の自我を他人と共有することで代替的な人間を作り上げることにある。コミュニケーションの基本は他人と同じ基準のなかで差異を交換することにある。その前提が崩壊すれば自分の考えを他人へ伝達する手段が崩壊するのと等しいからである。逆もしかり、ぼくも他人の意思を正確に理解するのに苦労した。

 その上で、もっとも問題だったのは適切な意思決定をすることができなくなってしまったことだ。サイマティックセラピーは完璧な情報交換による情報の非対称性の克服と代替的人間の実現によって有史以来、最高レベルで意思決定を最適化することができた。みんな同じなら、みんななにをするのか知っている、ってことだ。経済学的に社会学的に最適化された人類たち。だからネガティブセラピーを受診して、どうやって歩けばよいかわからなくなったときには半年の休職が必要だと悩んだくらいだった。

 そんな不自由生活を強制されるのは耐えがたい苦痛だったし、ぼくからしたら考えられないことだったけれども、イブは毎日、毎時間、毎秒、戦っている。そんな彼女だからこそシンガポール警察の教科書通りの行動を理解こそすれ、機械的な行動規範に内心では納得していない。

 しかし内心では気に入らなくても、自分の責務を実行するのが社会的生きもので、ぼくら人間の本質だ。ゆえにイブは、ずんずんと部下と一緒にヘリのもとへ歩いている。ぼくらも打ち合わせくらいはやっておかなければいけない。

「ぼくのユニットが後部甲板から、イブのユニットは前部甲板から侵入する。にらみ合いは避けたいからドローンの援護のもと強制的に確保を実行する。被疑者は銃を持っているから慎重に。あとは出たところ勝負ってことで」

 ぼくの提案にイブは、「うんわかった」と返答する。「いつものやつね」とも返ってきた。

「いつものやつ。変化がないのはもどかしいけれども、ぼくは、いつものやつしかできないんだ」

 そんな言葉にイブは表情も変えずに歩いていく。彼女の背中、世界のシステムから外れた孤独の背中、そんな悲運も微塵に感じさせない力の強い背中が目の前にある。ぼくはといえば、ひとのまねしかできない。ぼくは、ぼくたる所以も持たない社会の歯車のひとつなのだ、と思い知らされる。

「ぼくとアレックス、パメラとクーパがペアだ。現在、被疑者は後部甲板、太陽光パネル管理棟に立てこもっているがドローンを盾に確保する。被疑者は拳銃を所持しているので防弾ベストを着用のもと小火器の携帯、使用を許可。開始は三十分後一八三〇。各自、準備を整えろ」

 ぼくの下命で部下たちは、「了解」と散らばっていく。ぼくらの準備といえば突入前の感覚調整だ。感覚調整とは、ぼくらのネガティブセラピーを最高値に設定して身体性を最大限に高めるセラピーのことである。

 正確にいえば脳波の固有振動数に対して影響のある感覚中枢受容器に対し刺激をシャットアウトする中和剤を投与する。そして運動中枢をつかさどる大脳皮質の働きを向上させるべく神経発火作用効果のある薬剤を摂取することだ。ひらたくいえば頭蓋骨のなかにある音叉の振動を停止させて、運動能力向上作用のあるステロイドを投与されるって話しである。

「シニアインスペクタ、イサカ」と医務官に呼び止められる。部下たちのセラピーと一緒に、ぼくもセラピーを受けるのだ。十分で薬剤を投与して二十分で効果があらわれる。そのために、ぼくはヘリのなかでリクライニングチェアに寝かされて腕に注射を打たれている。ぼくの体のなかへシリンダーいっぱいの薬剤が投与される様子をイブは手持ち無沙汰にながめていた。

「ぼくが薬漬けにされる様子は、どうだい?」だから、ぼくは少しおかしくなってくる。

「早く薬が効けばいいと思ってる」イブは、ぼくに興味が失せたみたいに息を吐いていた。

 イブはネガティブセラピーこそ受けられないが、運動能力向上処置は肯定できる。ゆえにイブも片方の注射を打たれるべく待機している訳だ。ただ、ぼくの処置が終わらない限り順番が回ってこないので退屈しているらしい。

「きみがきみたる所以は、きみがきみだから」だから、ぼくは気紛れに言葉を投げてみる。

「なに?」とイブからは怪訝な表情が返ってくるが、ぼくは、「昔よんだ詩。たぶん今の情景をうたったんじゃないかと思って」と自分の言葉で自分の考えを口にしてみることにした。

「わたしがわたしたる所以は、わたしが世界に憎まれているから。それ以上でも以下でもない。わたしのアイデンティティは、わたしの外にある。わたしのなかには存在しない」

 だがイブは、そうやって若干あきらめた姿勢で肩をすくめるものだから、ぼくも頭をかいてごまかすほかなかったのだ。そして、

「シニアインスペクタ、スミス」ぼくの処置が終わった医務官がイブの方へ向かっていった。ぼくは薬が効くまでの間、感覚調整を最適化すべく周囲との接触を閉ざされる。ゆえにリクライニングチェアが水平に近い角度に折れまがって音と光を遮るカプセルに閉じ込められた。無音が流れ暗闇が支配する。ぼくは今と別の自分になったときが目覚めるときだと思った。


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