気づいて、気づかないで
アルヴィン様はすべてが完璧で、いつだって冷静で、誰よりも強い人だと思っていた。
だからこそ、そんな彼の涙を初めて見たこと、何より私だと気付いたらしいことに、驚きを隠せない。
「ニナ、どうした? 大丈夫か?」
思わず固まってしまっていた私の顔を、隣にいたブルーノが心配そうに覗き込む。
「あ、ごめん、私──…」
慌てて口を開いた瞬間、ブルーノと繋いでいた右手がぐいと引っぱられ、身体が浮遊感に包まれていた。全身が光と風に覆われるこの感じには、覚えがある。
間違いなく、これは転移魔法だ。
同時に、ふわりと抱きしめられる感覚がした。眩しさに目を閉じた数秒の後、ゆっくりと目を開ける。
「……アルヴィン、様?」
するとすぐ目の前にはアルヴィン様の整いすぎた顔があって、私は息を呑んだ。
甘く低い声でニナ、と切なげに名前を呼ばれ、どきりと心臓が跳ねてしまう。
私が今立っているこの場所には、2年前に一度だけ来たことがある。王城にあるアルヴィン様の私室へ、転移魔法で移動したのだろう。
どうしてここへ連れて来られたのかも、先ほどの涙の意味も分からないことばかりで、戸惑うほかない。
やがてアルヴィン様は、ひやりとするほど冷たい手でそっと私の頬に触れた。その目にはもう、涙はない。
「おかえり、ニナ。ずっと待っていたよ」
「ええと、た、ただいま……?」
今の私は完全に別人の姿になっているのに、どうして遠くから一目見ただけで私だと分かったのだろう。
そんな私の気持ちを見透かしたように、アルヴィン様はにっこりと微笑んだ。
「俺が君を分からないはずがないだろう?」
そう告げられるのと同時に、強制的に変身魔法を解かれてしまう。彼は国一番の魔法使いでもあるのだ。
なるほど、彼くらいの魔法使いならば私の覚えたての変身魔法なんて、簡単に見抜いてしまうのだろう。
美しい紫色の瞳に映る私は、本来の姿に戻っている。アルヴィン様は形の良い唇で、美しい弧を描いた。
「もっと良く顔を見せて」
「あ、あの、アルヴィン様、なんだかすごく近い気が」
「……本当に会いたかった。君が突然いなくなってから今日まで、俺がどんな気持ちでいたと思う?」
私の制止もむなしく縋るように抱きしめられ、驚くほどに良い香りが鼻を掠めた。アルヴィン様が私の肩に顔を埋めるような体勢になり、柔らかな金髪が首筋にあたってくすぐったい。
どうやらアルヴィン様は私が思っていた以上に、私のことを大切な仲間だと思ってくれていたらしい。
もちろん嬉しいものの、先ほどからあまりにも距離が近すぎる。彼の非現実的な美しさに、眩暈すらした。
「ねえ、どうして俺を裏切って元の世界に帰ったの?」
「うらぎ……!? ご、誤解です!」
もちろん裏切ったつもりなど一切ない。困惑する私に向かって、アルヴィン様はくすりと笑う。
「それなら良かった。もう二度と逃がさないから」
「…………えっ?」
「俺の世界には、ニナが必要なんだ」
一体、どういう意味だろう。この世界には既に、エリカという聖女がいるというのに。
再びきつく抱きしめられた私は訳がわからず、再び固まってしまっていたけれど、やがてはっと我に返った。
ブルーノを置いてきてしまったこと、オーウェンに絶対に見つかるなと言われていたことも思い出す。とにかく一度、落ち着いて話をすべきだろう。
この体勢は落ち着かないと思い、そっと胸元を手で押せば、アルヴィン様はひどく傷付いたような顔をした。
「あの、アルヴィン様、とりあえずお話を」
「……ねえ、さっきの男は何? 手を繋いでいたけど、あの男のことが好きなの? いつから? 俺のことなんて忘れて、ずっとあの男と一緒にいたんだ?」
「えっ? ええと、ちが」
「いいよ。殺したいくらい腹が立つけど、俺はニナに甘いから。これからは俺だけを見てくれればいい」
彼の発した言葉はなんとなく理解できるものの、さっぱり頭に入ってこない。
ブルーノと繋いでいた私の手を掬い上げると、アルヴィン様は手の甲にキスを落とした。突然のことに顔が熱くなった私を見て、彼は満足げな笑みを浮かべる。
何かが、いや、何もかもがおかしい。
私の知るアルヴィン様はこんなことを言ったり、こんな風に私に触れてきたりはしなかった。
「アルヴィン様、その、どうされたんですか?」
「どうって?」
「だって、前はこんな……」
私の言いたいことが伝わったのか、アルヴィン様は「ああ」と納得したような表情をした。
「元々は鈍感なニナに合わせて、ゆっくり距離を詰めようと思っていたんだ。少しずつ少しずつ、ニナにとって必要な存在になろうって」
「…………」
「でも、ニナは突然俺の前からいなくなった。もう二度とニナに会えず、俺はニナにとって何者にもなれないまま死んでいくんだと思うと、この世の全てを呪ったよ」
アルヴィン様は、何を言っているんだろう。
「二度とあんな後悔はしたくないんだ。だからもう、我慢するのはやめた。俺はニナの唯一になりたい」
「…………私、は」
「ねえ、俺を助けてくれないかな? ニナが側にいないと苦しくて痛くて、辛くてたまらないんだ」
だって、こんなの、まるで──…
「愛してるよ、ニナ。俺の生きる意味になって」
縋るような視線を向けられた私は、もはや言葉ひとつ発せずにいる。真っ白になる頭の片隅で、彼の真っ黒になったハートのことを、ぼんやりと思い出していた。




