3-8
「一度行ったことのある場所には、印を結べるんでしたよね」
「あぁ、そうだ」
「それなら、この丘の上にも以前。魔王か魔族が来た……ということになりますよね」
「俺が前に、魔王と来たんだ」
「私と?」
「あぁ。1度だけ、偵察にな?」
「そうでしたか……」
まるで頭に残っていない記憶。
私は本当に来たことがあるのだろうか。
「魔王、こっち見て」
「?」
一瞬思考回路を自分の中に留め、周りが見えなくなったとき。エルがふと声を掛けてくれた。私はエルの視線に気づいて顔を下げる。エルは少し色の入った四角のメガネをかけて、にっと口角を上げて笑っていた。そのレンズには、丸メガネをかけた私の姿が写っている。紫の髪色よりは、茶色の髪色の方が人間に見えて来る。それでも、逸脱した容姿の美しさには違和感を覚えた。
「安心しろ。王都までは流石に行ったことないけど、この大地が初めてってワケじゃない。魔王に記憶がなくても、俺にはあるんだ。心配しないでほしい」
「エル……頼もしいばかりですね、本当に」
「大船に乗った気でいてくれ」
「そうします」
目を細めて笑うと、エルは得意気にふんと鼻を鳴らした。この小さな姿と言動を見ていると、とても40歳には見えない。まだ、二十歳にも満たない子どものようだ。ただ、年を重ねてもそれだけポジティブでいられるのは良いことだ。私もこの世界で、エルのように若々しく年を取りたいと感じた。つい、可愛らしくてエルの髪の毛に手を伸ばす。前髪に指が触れそうなところまで近づけてから、失礼かもしれないと手を引っ込めた。その様子をエルは、不思議に思ったらしい。首を傾げていた。
チュンチュン……すずめのような鳴き声が聞こえて来る。小鳥のさえずりが平和を表している様子に見え、嬉しくなって私はまた笑った。
「さ、丘をおりるぞ」
「えぇ」
ゆっくりとした足取りで、私たちは下に見えていた町に向けて歩き始めた。そこまで標高のない丘だ。1時間も歩けば麓にまで着けそうだ。そろそろ履き慣れて来たブーツもあって、歩きやすい。底がしっかりとしている為、足を痛めることもない。いざという時には武器になるよう、鉄も混ざっているのだろうが、その使い方がこの先ずっと訪れないことを願うばかりだ。
湿っぽい地面は、ぐずぐずには崩れていない。踏みしめるには丁度いい硬さがあった。生えている木々も、私たちの家の周りのものとは異なり、広葉樹林が連なっている。私の知る日本の山と、この景色は似たところがあった。
(懐かしく思えますね。つい、数日前の景色ですのに……)
日本のことを思い浮かべると、どうしても『まめ』のことが気がかりになってしまう。あのまま絶命していたとしても、その身体をきちんと弔い、魂を極楽浄土に渡れるよう、経をあげることすら叶わなかった。私自身がどうなっても構いやしない。けれども、まめは仔犬で導きが必要だったはずなのだ。最期まで責任を負えないものが、動物と共にしてはいけないと思っていたのに、こんな形で別れてしまうことを、心苦しく思った。私はまた、表情を陰らせる。そのちょっとした瞬間を、エルは見逃さなかった。
「何かまた、悩むことでもあるのか?」
「すみません。せっかくヨウ国へ来ているというのに……」
「いいんだ。それより、何を考えてるのか気になるだけ」
「……この景色」
「うん?」
空は晴れていた。青い空が続く中、広葉樹が天に向けて葉を広げる。その木漏れ日を浴び、私は目を細めた。丸メガネのサングラス。陽の光は強いが、それなりに空を観察できる。
「この景色が、私が日本に居たときに見ていた山の景色と重なるんです」
「夢の話か」
「えぇ、そうかもしれません。ただ、懐かしく思います」
「…………この景色を、前にも見た」
「あぁ、以前私と来たんでしたよね」
「そのときのことを思いだして、懐かしいと感じている説はないのか?」
それを言われ、私はハッとした。過去に見ていた景色が、日本の里山だけではなく、この世界の様々な地域の景色であったという考えは、頭になかった。しかし、その可能性もゼロではない。私はこの世界の上でも、生きていたのだ。
どこまでが、日本の景色か。
どこまでが、この異世界の景色か。
記憶が揺らぐ。
「……ま、それは今すぐに見つけなきゃいけいない答えじゃないさ」
「…………そうですね」
一度、ゆっくりと目を閉じた。周りが明るいため、視界が真っ暗にはならない。太陽の赤みを感じ取りながら、深呼吸をする。空気が美味しいのは、この世界のいいところだ。そこまで文明が発達していないため、世界を覆うスモッグは無い。澄んだ空がその何よりの証拠。私はずっと、こういった世界を望んでいたと気分を改めた。
ふーっと息を吐き、新鮮な空気を吸い込む。そういえば、この世界の空気も地球の空気の成分の割合と、同じようなものなのだろうか。重力に違いは若干感じているが、その他は近しいものだと考えられる。
「下の町に着いたら、食事処に向かおう」
「腹ごしらえですか?」
「まぁ、それもあるけど。情報が集まるっていうのは、大体そういったところだろう?」
「なるほど」
「シュクリって小さな町なんだけど、まぁ、それなりに得られるものはあるだろ」
「文字や言葉は同じなんですね」
「リーチェ語で世界は統一されている」
「それはいいことです」
私は両手を後ろに回して、腰の部分で手を結んだ。焦っても、仕方がないのだと自分自身に言い聞かせながら、この景色を楽しもうと前を向く。下の方に見えていた町が、目下にまでやってきた。意外と早いペースで降りてきたことに私は気づいた。
「魔王。くれぐれも、俺たちが魔族であることを覚られないように気を付けてくれよ? 正体がバレたら、そこで戦争勃発だ」
「分かりました。胆に銘じておきますね」
山道が終わると、地面に土に変化が見られた。湿っぽい山の土とは異なり、砂まじりの乾いた土になる。ザッザッザ……と、地面を蹴るたびに砂埃が舞う。