3-2
「これから、雨でも降りそうですね」
そのためか、やけに頭が痛くなって来た。気圧の低下で引き起こされたのだろう。こんな頭痛を、弥一の頃にも時折経験していた。しかし、ここまで痛くなることは、ほとんど無かった為、若干の戸惑いは感じる。雲行きが怪しいのは、まるで私たちの今後の行く先を表しているようにも見え、頭に不安がよぎった。それを顔には出すまいと、軽くパンパンと両手で顔を叩いた。3日も眠っていたのだ。身体も随分と鈍ってしまっていそうだ。そうはいっても、私は夢幻島に戻ってきてから一度も『魔法』なんていうファンタジー要素を扱っていない。疲労も何もしていないのだから、鈍ったところで不都合が生まれることもない。そう考えると不思議と笑いがこぼれた。もともと暢気な性格だ。緊張感しかない空間すら、楽しめるゆとりは昔から強く持っていた。それは、生きる上で強みだったと思う。
楽天家といえばそれまでだが、もっとプラス材料が思考には働いていることを実感している。
しばらくして、なんだかいい香りがしてきた。スープを作ってくれると言っていたが、どんなスープだろう。空腹感はそこまでなかったが、良い香りは食欲をそそる。再びぐー……と乾いた音が響いた。身体は正直なものだ。
タタタ……。
床を踏みならす音。
「魔王、できたぞ!」
「ありがとうございます」
エルの手の中には小さな鍋が握られていた。中身は雑炊のように米か麦が焚かれ、溶き卵が絡んでいる。見るからに美味しそうなごはんに、お腹はよりいっそう空いていく。
「持ってきてくれたんですか? 居間で食べても良かったんですよ?」
「3日も寝てた魔王を、いきなり歩かせたくはなかったからな」
「心配性ですね、エルは」
「魔王が暢気なんだろ」
「それは……否定できませんね」
くすっと笑うと、エルは軽く溜息を漏らした。私はそれを見て、若干の申し訳なさを感じてエルの目を見た。赤く光る眼が、今は陰っているように見える。エルの瞳に映っているのは、弥一にはなかった美しさ。華奢で女性のような顔つき。切れ長の目。黒くしっかりとした角。そして、紫のストレートに伸びた長い髪。どれをとっても人間離れしているその顔には見慣れない。これが今の私なのだと、右手で頬に触れた。冷たいが血は通っている。
「冷めないうちに食べちゃってくれ」
「ありがとうございます。エルの分は?」
「後で適当に食べるから。気にしないで食っていいよ」
「一緒に食べないんですか?」
「ここで見てる」
まるで私が駄々をこねてご飯を食べたがらない子どものような扱いだ。記憶もなく魔法も扱えない私は、エルにとっては子どもも同然なのかもしれない。うっかり敵陣に突っ込む危険性だって否定できない。私はエルのいう事を聞いておこうと思い、鍋を受け取った。タオルを底に敷いて熱から身体を守ると、大き目のスプーンを持った。
「いただきます」
「おう! どうぞ」
スプーンでひと掬い。熱々で湯気が立ちのぼる。口元まで運ぶと、ふーふー息を吹きかける。少し冷ました状態で、口の中に入れ、味わいながら咀嚼する。塩コショウと中華風スープのような味わいだ。辛くはない。卵の味が優しくて、麦の噛み応えも美味しい。
「美味しいです、この雑炊」
「よかった。たまには、パンとか木の実以外にも食べておかないとな」
「こんな料理も作れるんですね」
「料理って程のことはしてないけどな」
嬉しそうにエルは笑った。和らいだその表情に私も安堵する。口の中ではふはふさせながら、雑炊を食べすすめていく。その様子を、エルは黙って見守っていた。この部屋には椅子がない。ベッドに腰を下ろすこともなく、突っ立った状態で私を見ている。私はその光景が少し気になって、顔を上げた。
「ベッドに一緒に座りますか?」
「俺は立ってる」
「でも、気になってしまうんですよ」
「気にすることないだろ? 魔王のベッドに一緒に座るとか、出来ないからさ」
「私は魔王かもしれませんが、エルの兄ですよ?」
「そ、そうだけど…………」
照れ笑いをしながら、エルは左手を腰に。そして右手で頭をワシャワシャト掻いた。視線を逸らして、軽く咳払いもする。あまりちょっかいをかけてもいけないと思い、私は視線を鍋に移してもぐもぐと食べていく。きっと、エルも私が眠っている間、まともに食事をとっていないと考えられる。まだ、エルと再会して日は浅い。しかし、エルがどんなに優しい子なのかを、私は察しているところがあった。エルにとって、『魔王』とは絶対的存在で。エルは『魔王』のためなら、誰よりも自分よりも優先させてしまう。そのエルが、眠ったままの私を放っておいて、食事なんてしないだろう。
エルは、私が雑炊を完食するまで黙って見守っていた。食べ終わるのを見届けると、満足そうに笑った。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。身体も温まりました」
「よかった! ちゃんと食べれたな」
「はい」
空になった鍋を受け取ると、エルは右手の人差し指を立てた。
「ひとまず、食休みしててくれ。すぐに横になるなよ?」
「分かりました。エルもこれから食べるんでしょう?」
「あぁ、なんか適当にその辺のもの食べとく」
「隣に居たいんですけど……ダメですか?」
「今日は冷えてるんだ。居間も寒いから、部屋に居たほうがいい」
私はそれを聞くと、すぐに立ち上がった。立ち上がれば背丈は180センチほどある背丈だ。150センチほどしかないエルの身長を、軽々と超えてしまう。上から見下ろす形で私はエルに視線を向ける。
「魔王?」
「冷え込んだ場所に、エルだけ居させたくないので」
「せっかく温まったのに、冷えちまうぞ」
「大丈夫ですよ。それに、ひとりで食べるより、隣に誰かが居てくれた方が美味しいと思えませんか?」
「…………俺は別に、寂しがり屋とかじゃないぞ」
「分かってます」
にこりと微笑み、私はエルを抜かして部屋を出た。その様子をエルは黙って見つめる。私の後に、遅れて続いた。