2-23
こすり洗いが終わると、私はよいしょと腰を上げた。空から降り注ぐ光は眩く明るく温かい。その光には自然と笑みが浮かぶ。エルの表情も柔らかく、ローブは私が持っているため、エルは濡れたタオルを持っていた。
「良い感じに晴れたな」
「このくらいの温かさなら、外に干しておけば夕暮れまでに乾きそうですね」
「ラッキーだな!」
「えぇ」
にこりと笑って家に向かって歩き出す。ある程度の湿り気のある地面の上に、ブーツの足跡がちょっとだけつく。足のサイズはどれくらいだろうか。27センチほどと推測する。やはり、弥一だったときよりも大きいのは、背丈もあるからだろうか。指も女性のようにしなやかに細く長く、ピアノでも弾いてみたらきっと似合うだろう。教育学部を出たため、簡単なピアノ曲ならば弾き語りもできる。こんなところで、大学での糧を活かせるとは思いもしなかった。もっとも、この世界にピアノがあるかどうかは謎のところである。
「帰ったら……先々代は戻ってるのかな」
不意にエルはそう言葉を漏らした。私は一瞬考えてから、割と間を開けずに言葉を返す。
「居ないと思いますよ」
「そう、か?」
「レクティスさんは、私たちがどこに居たとしても動きを監視できるようですから。わざわざ居心地もよくないあの家に、戻って来ないと思います」
「姿を見せないのは見せないで、不気味だな……」
「色々と不安はありますが、信じるしかありませんね」
眉を寄せ、不安げな表情で私を見て来る。私はその不安を拭い去るようにエルの頭に左手を乗せた。軽めにぽんぽんと撫でてあげた。
「先々代を信じるのか?」
「信じる対象はレクティスさんというよりは、仏様に……ですね」
「仏?」
「今の夢幻島では、サクラを崇めているんでしたね。それなら、サクラを信じましょうということです」
「サクラを…………」
エルは右手で前髪を留めている髪飾りに触れた。そこには、ミスティーユの雑貨屋でもらったサクラの髪留めが輝いていた。魔光石という赤い色の光が眩い。太陽の光を反射して、いつもにもなく明るく光る。優しい光は、あのおばあさんの人徳からのものか。魔光石の中に閉じ込められた赤い輝きも、不思議なものだ。
「信仰することは大切だと思いますよ。信じる力は、自身を強くします」
「俺は……サクラよりも、魔王を信じる」
「私を?」
「その方がきっと、俺はもっと強くなれると思うんだ」
何かの決意をもってその言葉を発しているように見え、私はちょっとだけ驚いた顔をした。目を開いて弟の姿をしっかりと見つめる。身体の小さなエルだが、もう40年も生きてきたこの世界のベテランだ。エルを子ども扱いするのは間違っていると私は再認識した。何度か頷き、エルの頭から手を離した。私はエルに、一言だけ返した。
「私も強くなります」
それを受けて、エルはとても嬉しそうに口角を上げた。そのまま口を開いて、ぱぁ……と満面の笑みを浮かべる。なんて可愛らしい表情なのかと、私の口も綻んだ。家に向かう足取りも、自然と軽くなっていく。空からは、いつの間にか雲ひとつすらなくなっていた。これだけ温かいと、お昼寝でもしたくなってしまう。
そういえば、土も良い具合に濡れているし、家庭菜園をするのも悪くない。根っこの野菜は作るのが簡単で、葉物野菜も難しくない。ちょっとした野菜を育てれば、心も穏やかに慣れそうだ。
とはいえ、まずはハンガーに目をつけたのだ。ハンガー屋さんを目指して針金の調達をしたいところだ。
程無くして家までたどり着くと、すぐに物干しへ向かった。きっとこれを作ったのは、先々代か記憶を失くす前の魔王だったのだろう。物干しの高さ的に、エルが作ったには高すぎる。私はひょいとローブをぶら下げ、エルからタオルも受け取った。黒のタオルも隣へ並べて干す。タオルまで黒いところからみても、今の魔族が人間族に対して悪しき気持ちを持っていることが浮き彫りにされている。
「終わったな。さーて、今から何する? ハンガーの設計図でもつくるか?」
「そうですね。でも、まずはエルのお茶を飲みたいところです」
「また飲むのか?」
笑いながらエルは語った。満更でもない表情を浮かべて、家の中に入っていく。その後に続いて、私も家の中に戻った。外は温かくなってきたが、光が入ってきていない室内はひんやりとしていた。冷たい川の水を使って洗濯をしていたこともあり、指先は冷え切っていた。エルはまず、暖炉に火を灯してくれた。薪も永久にあるものではない。薪割をするのも、天気のいい日にするべき日課のひとつだと覚えておく。
隙間風がぴゅーぴゅーと吹き荒れるのは、小さな隙間を通って来る時に風の勢いが強まるためだろう。この隙間風をどうにかするのも、早々になんとかしたい課題だ。まだまだ、この家は改善の余地がある。エルと温かく過ごすために、必要なものを揃えたい。本格的な冬を迎える前に、行動したいと思う。エルだけに厳しい冬を感じさせるのは間違っている。こんなにも優しい子が、いつまでも報われないのは心苦しい。
リクトルの泉でエルが私を真っ先に見つけてくれたことは、本当に幸運だった。真っ先に見つけたのがレクティスだったら、とっくにこの世界とも別れを告げていただろう。そう考えると、エルは私の命の恩人であり、私を導いてくれる『仏』に近いものといえる。
「外は割かしあったかかったけど、中は寒いよな」
「粘土があれば、それを丸太の隙間に埋め込んで、風を凌げるかもしれません」
「粘土か。まぁ、なくも無い資材だな」
「どこかで仕入れて来ましょう」
エルは台所に立ってお湯を沸かしてくれていた。ポッとが無いのも不便だが、そこまで文明の力が追い付いていないのだろうから、そこは望まないことにする。少しの水なら、鍋に入れて沸騰させるのも大して時間はかからない。私はエルの後ろに立った。