2-22
忽然と姿をけした少女のことが、すぐに頭から離れることはなく。私もエルもその場に佇んでしまった。持っている濡れたローブが冷たくて、自身のローブも湿っぽくなっている。それもあって、身体は冷たい。冬へと移り変わろうとしている風がなびくたびに、濡れた身体はより凍る。
「命が危険にって……なんだよ」
凍り付いたまま、言葉を発することも無く、その場に居続けていた私とエルだが、先に言葉を発したのはエルだった。今は姿の見えない少女が立っていた桟橋を見据えたままだ。私もエルの顔ではなく、桟橋にくぎ付けとなっていた。
私にしか見えていなかった少女が、今度はエルにもしっかりと捉えられている点を見ると、何かが一歩進んだことを意味しているように思える。それがプラス材料なのか、マイナス材料なのかは分からない。ただ、危険を知らせに来ただけで、少女が不幸を運んでくるのとはまた、別のように思えた。安易に決め込むのはよくないが、敵か味方かを選ぶなら、少女は味方だろうと予想する。
「何か、あるんでしょうかね」
「あるんでしょうかね……って! 暢気な事言ってるなよ! 魔王のことなんだぞ!?」
「そうですね」
「何あっさりしてるんだ。絶対、先々代だ……先々代が元凶なんだ」
「確かに、タイミング的にはそんな気もしますね」
レクティスが登場したことにより、運命が大きく変わったという考えは合っていそうだ。レクティスが私の命を狙っていることは確かな材料。私を殺すことで魔王の継承権を得ようとしている。しかし、魔王を殺せば魔王になれる訳では無いことを、レクティスは知っている筈だ。それが、老魔王を殺したときに得た情報といえる。それにも関わらず、再度攻撃を仕掛けてくるというところに意味があるのかもしれない。
レクティスは一度死に、どこかへ転生。
そしてこの夢幻島に戻って来た。
その際に、何かしらのカラクリを得て来た可能性は高い。
(紫の薔薇の刻印が気になりますよね…………)
レクティスの左胸にハッキリと刻まれた紫の薔薇。花びらまで美しく、見る人を魅了するようなデザインだった。あれが単なるファッションではないことは、魔法についてまるで記憶も情報も無い私でも分かるくらいに異質なものだった。妙なのは、夢幻島の魔族が崇めているのは薔薇ではなく『サクラ』であること。サクラを象ったアクセサリーまであるほど、人々はサクラを信仰していた。ソメイヨシノとは違い、年中花を咲かせているというサクラは、魔族の永遠の繁栄を意味しているのかもしれない。それなのに、レクティスは『薔薇』を刻み込んでいる。その地点で、レクティスは私たちの知らない世界を見てきているのではないだろうか。
レクティスが私の命を狙っているとすると、命を守ることは難しい気がする。私が今の魔王であったとしても、まだ魔法も何も扱えない生まれたての小鹿なようなもの。魔法に長けているレクティスを前にして、やりあえるとは思えない。
「……俺が、あんなことをしたから」
「え?」
ぼそっとエルは何かを呟いた。聞き取れずに聞き返すと、エルは首を横に振る。その表情は真剣なものだ。
「何でもない」
「……わかりました」
気にならない訳では無かったが、エルが聞いてほしくないという表情をしたので、私はエルの意思を尊重しようと思った。にこりと微笑んで頷く。エルが話してもいいと思えた段階で、教えてもらえればそれでよかった。
「いよいよ日が傾いてきましたよ。洗ってしまいましょう」
ローブを抱えた状態で桟橋まで歩くと、私はそこでしゃがんだ。川に映った自分の姿は、まだ見慣れない魔王の姿。紫の長く伸びたストレートの髪が風に揺れ、黄色人種ではない真っ白の肌。そして、宝石のような赤い瞳が輝いている。弥一の頃とは別人で、自分でも驚くほどの美人だった。こんな姿で日本人をしていたら、恋人づくりにも困らなかっただろうなと、変な想像も馳せてしまう。恋人が居たことのない寂しい独り身に与えられたのは、美人で人間ではない『魔王』という未来だった。
さらさらと流れる川の水は、とても冷たい。
洗濯板にこすりつけるようにして、ごしごしと洗っていく。
これには割と、慣れてきた。
「俺のローブなんだし、俺が洗うって! 魔王は待っててくれ」
「いいですよ。もう少しで洗えますから。待っていてください」
「でも……」
「エルの手。結構赤くなってしまっているでしょう? いつも家事をしてくれていますし。水は冷たいですよね」
「だからこそ、魔王の手を煩わせないってことだ」
「大丈夫ですよ。私はこういったものが好きなので」
ご機嫌に鼻歌までまじってしまう。まるで、レクティスのことも先ほどの少女のことも、無かったかのような振る舞いだ。そのことにエルは違和感を覚えたのか。小さく『魔王』と口にして、私の鼻歌を見守った。
「いちに~さんま。し~ごでロック。ななはっちきゅ~じゅ。じゅ~じゅ~じゅ~」
「相変わらず変な歌だな」
「一緒に歌いますか?」
「……そうだな」
ハハっと笑って、エルは私の後に続いた。
「いちに~さんま。し~ごでロック」
「ななはっちきゅ~じゅ」
「「じゅ~じゅ~じゅ~」」
お互いに顔を見合わせて、声に出して笑う。曇り気味だった空から雲が流れゆき、光が差し込んで来た。笑っているだけで現状は何も変わらないのに、不思議と心も晴れ晴れする。笑顔は幸せを呼ぶことを実感した。不安だった気持ちも、今この瞬間からは消し飛んでいる。この幸せが連鎖を生むことで、世界から争いを根絶やしにすることに繋がるのではないかと、私は希望を見つけた。ハンガー屋さんは、思っていた以上に良い発想だったかもしれないとも思う。確かな感触を目指し、未来を考えようとする。エルも、先ほどの少女の言葉を今は忘れている様子に見える。私はほっと安堵した。




