2-20
一瞬のことで、私はレクティスの動きを止めることも出来ず、ただエルがお茶を被るのを黙認してしまった。『あ…………』と思った瞬間には既に、エルはびしょ濡れ。エル自身も何が起きたのかと目を見開き、その髪からはぽたぽたと雫が滴れる。
「こんなお茶は不快だね」
吐き捨ててからレクティスは唐突に椅子をガタンと音を立てながら引いて立ち上がった。テーブルも揺れてお茶がやや零れる。部屋に戻ろうとしているのか。レクティスは私たちに背を向けた。それを見てすぐさま、私は彼を呼び止めた。
「なんてことをするんですか」
「……なに?」
私にしては珍しく、厳しい目つきでレクティスを捉え、口調も強めで彼を制する。レクティスはそれそらも気に食わないようだ。冷ややかな笑みを浮かべ、侮蔑の顔色をこちらに向けて来る。エルはこちらには視線を送らない。黙ってテーブルを見ていた。その間も、ぽたぽたと雫は垂れている。早く着替えないと、服もびしょ濡れだ。
「僕に指図でもする気なの? イチルヤフリートくん」
「青色に意味があるのかもしれません。ですが、これはお茶です。わざわざエルが煎れてくれたものを、ひっくり返すなんて。ましてや、エルにかけるなんて……謝ってください」
「嫌だね」
「いい大人がしていい行動ではありません」
「他者に指図されることは嫌いでね」
「魔王。俺は、大丈夫だから」
「…………でも」
「いいから」
エルが自ら謝罪を拒否することで、レクティスも満足したようだ。ふんと得意気な顔色を見せてはくるっと向きを変えて何を思ったのか。北にある閉ざされた部屋とは逆に歩き、玄関ドアを開けた。
何処へ行くんですか? そんな無意味な言葉は掛けなかった。私もエルも、ただその背を眼で追うだけ。その姿勢には満足したのか、にっと口元に笑みを浮かべながらレクティスはこの家から出て行った。少しの散歩にでも出かけたのか。それとも、またしばらくは行方をくらますのか。どちらにしても、私たちは彼の監視下にはあるのだろうだが、一旦緊迫した状態からは逃れることが出来た。私は扉が閉まって30秒ほどしてから、エルの方に向き直った。立ち上がると、脱衣所に急いで駆け込み、バスタオルを持ってくる。それをエルの頭にかぶせると、わしゃわしゃと濡れた頭を撫でる。
「酷い目に遭いましたね」
「……戻って来るなんて、思わなかった」
「先々代が生きていたことは、知っていたんですよね?」
「老魔王を殺したのが先々代だからな」
「聞きたいこともあるんですけど、とりあえずは着替えた方がいいですよ。風邪を引いてしまいます」
「…………そうだな」
エルは軽く溜息を吐きながら立ち上がった。カタンと椅子を引く音がする。エルには個室が無いため、その場で服を脱ぎ始めた。つい目で追ってしまっていたので、エルは私の視線に気づくと少し恥ずかしそうに目を逸らした。それに気づいて、私も目を逸らす。
ふぁさ、ふぁさ……と服を脱いでいく音が聞こえ、その後には壁側に置かれている棚の中から、簡易ローブを取りに行ったエルの足音が聞こえる。目では感じず、音だけでエルの様子を見守った。
しばらくして、エルはまたテーブルの方へと戻って来る。そのときにはしっかりと、濡れていない新しいローブに身を包んだエルの姿があった。さっきまでの服と何が違うのか、間違い探しの問題を出されてもきっと答えられない姿だ。
「今日の洗濯は終わったばかりなのにな」
「洗ってきましょうか?」
「魔王に行かせる訳にはいかないって。自分で洗う」
「川まで行くなら、一緒についていきますよ。エルをひとり行かせるのは、なんだか不安にも思えてしまうので」
「先々代は、俺には手を出してこないさ」
「?」
お茶を被せられた本人からその言葉が出ても、イマイチ信用性に欠けるところがある。私はつい眉を寄せた。そのまま首をやや傾げる。
「あぁ……お茶はかけられたけど。殺されるとか、そういうのはない。むしろ、そっちの心配は魔王がしてなきゃダメだ」
「レクティスさんは、魔王になりたがっている様子でしたね」
「先々代の頭にはきっと、それしかないんだ」
「…………エル」
私が問うより早く。エルは答えをくれた。何を聞きたがっているかなんて、一目瞭然だったのだろう。
「先々代が魔王に拘る理由か? そんなのは、魔王になったこともない俺には分からないな」
「そうですか……」
「とにかく! アイツには気を付けてくれ」
「わかりました」
私が力強く頷くことで、エルも少しは安心した様子だ。ふっと顔の筋肉から力が抜け、やわらかい表情を浮かべる。それを見て私も、ちょっとだけほっとした。目を細めて頷くと、エルが脱いだ濡れたローブを手に持った。
「もう一度、洗いに行きましょうか。まだ、日暮れまでは時間があるでしょう?」
「んー……そうだな。まぁ、洗わなくてもお茶だし。暖炉であっためて乾かせばいい気もするけどな」
「寒空の中歩くと、頭がすっきりしますよね」
「それは同感!」
「じゃあ、決まりですね」
エルが頷いたので、私はローブをよいしょと抱え直す。その先をエルが歩き、玄関ドアを開けてくれた。外に出ると、日は傾いてはいるが、まだ青空が広がっている。この感じだと、雨も雪もなさそうだ。
片道10分程度の土道だ。足跡をつけながら若干の坂を上っていく。そこまでの傾斜はないため、ほぼ平らな道を歩いているのと変わりはない。
空気はとても澄んでいる。すーっと鼻から吸って、口からはぁー……っと吐くと、体内の要らない感情も全て外へ流されていく感覚になる。頭の中にも新鮮な酸素がいきわたり、スカッとした気持ちになれた。どんよりとしたあの居間に居るよりもずっと、外へ出た方が健康的だ。良い判断をしたと、満足できる。
 




