2-16
エルは気配に気づかなかったのか。ハッとして後ろを振り返る。そこに居たのは、気配を消して忍び寄っていた先々代魔王、レクティスだった。不気味なほどやわらかな笑みを浮かべている。その眼は決して笑っていない。二重の切れ長の目が、冷たく光っていた。凍てつくような微笑みの奥底には、黒々とした熱が隠されていそうだ。私はそれに気づきながらも、冷静でいた。動じないという姿勢を相手に見せ、圧力には屈しないという意志をぶつけた。それにレクティスも気づいている。彼は虚けではない。
「楽しそうだね?」
「レクティスさんも、温まりますか?」
こちらの様子を窺っているように見える。レクティスは気配を覚られまいと、忍び足で私たちの背後まで来ていた。エルは驚いたが、私が一切の反応を見せなかったところで、『面白くない』と感じさせたと自覚がある。不快の中レクティスが取った行動は、こちらの観察。私が本当に動揺していないのか。そして、私の狙いを見抜きたいと考えているように見える。その為の笑みだ。泣けないクラウンは、仮面をつけて誤魔化しているということが言える。
ただ、私は別にレクティスと敵対したいと思っているのではない。レクティスから命を守らなければならないのは当然のことだが、レクティスが改心してくれることを望んでいる私は、彼と分け隔てなく会話としたいと考えている。話してみないと、相手の本質とは掴めないもの。そして、相手は元魔王であり、魔族として生きてきた年数も私よりも遥かに長い。何に於いても『先輩』なのだ。ある程度の敬意は払わなければ、それは彼も面白くないだろう。
もっとも私は、偉そうなことを語れるような僧侶ではなかった。
にわかであり、好きなように思考し生きた、楽天家だった。
(まめは、あれからどうなったのでしょうか。生きていてくれたら嬉しいのですが……それだとあの山で独りぼっち……心配です)
まめのことを思いだすと、目の前に居るエルのことが重なって見えた。猫のようなくりっとした釣り目のため、猫っぽい印象はあるのだが、性格はどちらかといえば犬っぽさを感じる。それこそ、初めて会ったリクトルの泉では、ツンとした様子が多く見え、猫のように想っていたが、今では随分と懐いてくれたワンコというイメージが強い。
「そうだね。僕も混ぜてもらおうか? エルディーヌ。お茶でも持って来たらどうなんだい? イチルヤフリートくんが寒そうじゃないか」
「あ、…………あぁ。わかった」
「お茶が欲しいのでしたら、私が煎れてみますよ。ここではまだ煎れたことはありませんが、ひとり暮らしをしていたときには、適当にこなしていましたよ」
エルが立ち上がって台所へ向かおうとしたのを見て、私はエルを制した。代わりに立ち上がると、私は台所へ向かう。しかし、何がどこに仕舞われているのかを把握できていないため、どうすればいいのかが分からない。私は『えぇと……』と、辺りをキョロキョロ見渡した。
「イチルヤフリートくん。キミは何故下々の役割を奪ってまで庶民的行動をするのかな?」
「下々?」
「キミは昨日、ミスティーユの町に出かけていたよね? そこで何をしていたのか。僕は知っているよ」
「そうですか。今度は一緒に、喫茶店リーバーへ行きますか? 美味しかったですよ」
喧嘩を売っている訳では無いのだが、レクティスは面白くなさそうな表情を一瞬見せた。ぴくっと眉を動かしては、また元のにこやかな顔に戻る。内心が面白くないと感じているのは手に取るように分かる。意外と子どもっぽさがある人だなと、内心で呟く。
「監視していたのか?」
「監視? そんな大層なものじゃない。ただの遊びさ」
「…………」
エルは厳しい目をしながら、ゆっくりと立ち上がっては台所に移動してきた。私ではどうせお茶を用意できそうにないので、エルに任せてレクティスの相手をしようと歩み寄った。その行動は、彼的に正解だったらしい。満足げに口角を上げる。
「レクティスさん。私は今のあなたには魔王の力をすんなり渡そうとは思えないんです」
「へぇ? “今の”ということは、いずれは僕に明け渡してくれるのかな?」
「あなたが平和を優先してくださるというのであれば、譲りましょう」
「お安いことだね。約束しようか?」
私はフルフルと首を左右に振る。流石に二つ返事で『YES』とはいえない。
「安っぽい返事では、真実を掴めませんよ」
「なんだい? 僕に説教でもするつもりかい?」
「そんな身分だとも思っていません。レクティスさんは、私よりもずっと昔から魔族であり、魔王であったお人ですからね」
「年長者である私に、キミはもう少し敬意を払った方がいいんじゃないかな?」
「誠意をもって応えているつもりです」
トン。
テーブルにカップが置かれる。
私はそれを見て、エルの方に視線を送った。
「ありがとうございます、エル」
「冷めないうちに飲んでくれ」
「そうですね。さぁ、レクティスさんも……冷えた身体を中から温めましょう?」
「逃げていることに、キミは気づいていないのかい?」
レクティスは腕組みをしてこちらを睨んでいる。背丈は私よりも低い。それでも、170センチ以上はある。日本人の一般的男性よりは、高い方かもしれない。前髪の一部の紫の髪はしたたれ、他の部分の緑の髪は腰辺りまで伸びている。ややカーブはあるが、ほぼストレートといえる髪質だ。肌も白く透き通っている。黙っていればとにかく美しい青年といった印象だ。生意気な態度と口調も、この美しさならば許されると思えてしまうほど、彼は綺麗だった。
「何から逃げているのでしょう?」
「無論、僕からさ」
自信たっぷりにそう告げられても、残念ながら思い当たる節がなかった。確かに、彼の思考はぶっ飛んでいるところがあり、私利私欲のために争いを好んでしようとしているその神経は、理解できるものではない。しかし、私が彼に恐怖を抱いているのかと問われると、答えはそうではない。しかし、ここで思ったことをそのまま口にすると、要らないいざこざが起きてしまいそうだ。それを察して私は首を傾げる程度に留めておいた。