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冷淡であったと言われる『イチルヤフリート・ヤイチ』は今、そういった容貌に見えないほど別人になることが出来た。ミスティーユの喫茶店リーバーの店員シャーラも、以前の私には冷たい印象を持っている様子だったし、畏まった態度を崩さなかったのは、すぐには頭の中に在る『イチルヤフリート・ヤイチ』の印象が悪い意味で蔓延っているからだろう。それでも、少しずつは対応がやわらかくなっていった実感は得ている。その彼女の母親はジクヌフとの戦禍の中亡くなったと聞く。ジクヌフとの戦争においては、老魔王が対応していたと思われるが、その老魔王も死んでしまった。絶命させたのは先々代魔王であるレクティスであることをエルから聞いたが、とにかく多くの命が戦争の中では簡単に失われてしまう。それを見過ごして、誰が平和主義者を語れるだろう。理想を掲げるだけの思想家で終わりたくないと、私は強く願った。実行できてこそ、真の平和主義だ。誰かがスピーカー役になるのも大事だが、私の立ち位置が真ん中にあり、そこを陣取るのであれば、ぶれない精神と方向性をしっかりと持たなければならない。甘い戯言、机上の抗弁で終わるくらいならば、早々にレクティスであっても魔王としての権限は譲るべきとも言えるのだ。
出来損ないの魔王。
それが求められる世界はきっと、平和だろう。
(何とか、この世界から戦争という悲しい歴史を消し去りたいものです)
胸中で自分の考えを改めて持ち、私はエルの方に視線を向けた。
しばらく歩くと、ぽつんと小さく佇む家がある。私利私欲しかなく、魔王の力を貪欲に望むレクティスが、何を考えてあの家に現れたのか……それなら、すでにハッキリしている。レクティスはずっと、この世界から私が一度消えたことで、魔王の権利が誰かに移ったのだと察して、誰が魔王を継承したのかを探し続けるために俗世間からは身を隠し、静かにそのときを待っていたのだ。そこで、私が魔王の部屋に入り、魔王が封印した本を開いたことで何かのギミックが回りだし、レクティスは今の魔王が私であることを突き止めたはずだ。私を殺し、その死に立ち会うことで、再度『魔王』として生まれ変わる道を望んでいる。
「物干しに……はい」
私はエルの前で両手を広げた。その意図を組んで、エルは自身の持っていたローブを私に渡してくれた。それを受け取ると、よいしょと物干しにくたんと垂れるように掛けていく。低身長のエルにはやはり、物干しにローブを掛けるのは難しいようだ。私はサクサクと服を掛けていく。もう少し長いものを用意して、もうひとつ物干し竿を立てないと、数も足りていない。
「今日はいい天気そうだな。洗濯物もすぐに乾きそうだ!」
「よかったですね」
「なんだよ、他人事か?」
「そういうつもりではないですよ。ただ……」
私は頭によぎるレクティスの名を呟いた。
「レクティスさんはきっと、このまま大人しくはしていないと思いますよ」
「先々代か…………」
エルの表情も一瞬で陰った。それくらいレクティスは誰にとっても脅威なのだろう。それだけの圧倒的力を既に持っているのに、何故まだ『力』を欲するのか。絶対的力を得ていなければ、守れないものでもあるのだろうか。それを問いただしたところで、意味のないこと。その程度の問答で、レクティスが退くとはとても思えない。現状、この状況を好転させる切欠は見つかっていない。私は軽く溜息を吐いた。重々しい空気を、薙ぎ払いたい。
「先々代は強靭な力を持った、それこそ本当に冷酷な魔王だった」
「そうでしょうね。老魔王を絶命させるほど、欲に支配されているなんて……正気の沙汰ではありません」
「そういうお前も、それなりには冷徹だったんだぞ。人間族に対しては、特に厳しかった」
「そうですか……ヨウ国軍のキルイール隊長も、そのような話をしていましたね」
「魔族であっても、性格は変われる……ってことか?」
「レクティスさんも、心を入れ替えてくれたらいいですね」
苦笑いをしながら、エルは両手を左右に振った。その視線の先には、家の中。レクティスの部屋があった。レクティスはまだ寝ているのだろうか。それとも起きていて、私たちの話をこっそり聞いているかもしれない。
何を聞かれていたとしても、困る話はない。すべてが偽物ではなく、本当の感情。そして、考えであるのだから、むしろ聞いていてほしいとすら思えた。私とエルの話を聞いただけで改心するようなら、苦労はしない。一度死んだところで、性格を変えて来てもいいところだ。それをしないのだから、根っからの『悪』とでも言えようか。
そうであってほしくない。
弥一の心を持つ私は、それを願った。
「干せましたね。中に入りましょうか。手先が冷えて来ました」
「そろそろ雪でも降る季節だからな。仕方ないさ」
「冬場もやはり、川で洗濯をしているんですか?」
「見てのとおり、水を風呂場に運ぶことと、流し台で水道はあるけど。ローブを洗えるほどのスペースも水量も無いからな」
「凍えてしまいますね」
「仕方ないさ。魔族だって、自然には敵わない」
玄関ドアを開けると、中はそれなりに温かかった。けれども、ストーブはついていなかった。火をつけたままでは、火事にでもなったら大変だ。エルは慣れた手つきで薪ストーブに火をともした。パチパチと音が鳴って、火の粉が飛び交う。暖を求めて私もストーブに近づき、手を翳した。とても温かい。エアコンよりも味はあるし、温かいかもしれない。
「何か、あったかいものでも飲むか?」
「お願いしたいですけど……もう少しここで、温まりましょう? エルだって、冷えてしまったでしょう?」
「まぁ、そうだな」
「兄弟水入らず…………とは、いかないようですけどね」
私は背後から忍び寄る気配に感づいた。後ろを敢えて向かなかったのは、そのとき彼がどのような表情を浮かべているのかを、知りたくなかったからだ。私は相手に背を向けたままの状態で、変わらない顔のまま手をストーブで温めた。




