7
何度目の頷きか。エルと視線がぶつかる度に、私は頷きを続けていたが、エルの方がそれに飽きたらしい。大きく息を吐き捨てた。
「あぁーーーーーーっ!!!! やめだ、やめ!!!!」
「?」
首を左右に振り、エルは何度も地面をガンガンと踏みつけた。ご乱心とも見えるその光景を、私は止めることをしなかった。その様子を静かに見守る。エルは、自分自身でこの現状に蹴りをつけたいように思えたからだ。何でもかんでも押し付けていては気の毒だ。
エルにとっては、魔王というのは『兄』のはずだったのだ。それも名は私と同じく『ヤイチ』という。偶然なのか、それとも私は選ばれたのか。
「魔王はアレだ。要するに記憶喪失なんだろ!? この世界に、地球なんていうものはない!! 二ヶ月も行方をくらましていたんだ。どこかで雷に打たれて、倒れていた。気づいた先で、なんとか戻って来たのがあの泉だったんだ」
「雷に打たれて倒れていたのは事実ですが、私は本当に地球の……」
「地球なんてない!!」
「…………わかりました」
口答えばかりしても悪いと、私は頷きエルの見解をのんだ。それに、エルの考察が間違っているという根拠も無い。もしかしたら、地球という世界の方が『夢』だった可能性もある。
とはいえ、私にはこの世界の記憶がまるでないことも確かなこと。エルの仮説によれば、私は記憶喪失ということだ。そうだとすれば、私がこの世界の記憶を残していないことも頷けるし、見ていた夢が地球での出来事としても、筋が通る。
私は、弥一ではなかった。
イチルヤフリート・ヤイチ、だったのかもしれない。
グ~…………。
情けない音が、この緊迫した空気が流れる私とエルの間で響いた。獣の鳴き声などという、緊張感あふれる音ではない。なんてことはなく、ただの私のお腹が空いた音だった。私は右手でお腹を撫で、照れたように笑った。
「お腹が空きましたね」
「腹? まぁ、たしかに。俺も空いてきた」
「夕餉にしましょうか。エル、私にはこの世界の記憶も知識もありません。どこで料理をすればいいのか、どこで食材を手に入れたらいいのか。教えていただけますか?」
そのとき、エルの眼がキラキラと輝いてみえた。嬉しそうにぱっと表情が明るくなる。右の口元下にえくぼがあることに気づいた。それもまた、可愛らしい。
先ほどまでピリピリとしていたエルの顔はどこへやら。私との距離を縮めると、私の右手を掴んで引っ張った。子どもが親に懐く様子に、似ているように感じる。私は微笑んだ。
「俺に任せろ! ったく、手のかかる魔王だぜ。飯の調達場所、案内してやるな」
「えぇ、お願いします」
私が頷くのをみて、エルは私の腕から手を離した。
「こっちだ!」
向かうのは、泉に向かって伸びる一本道から少し外れた小道だった。しっかりと慣らされてもない道で、小岩がゴロゴロとしている。黒のブーツはなかなか厚底。草履だと足を取られそうなところも、このブーツなら問題なさそうだ。
ますます陽は傾いてきた。冷たい風がぴゅーっと吹く。ローブの隙間を通り越していくことはないが、それでも身体は冷えていく。お腹が空いていたために、エネルギーをつくりだせていない可能性もある。食べればそれなりに、熱量が得られる。
「早くしないと、夜が来る。秋の夢幻島は冷えるからな。さくっと捕まえて、焼いてしまおう」
「そういう感じですか? 小動物をとらえ、焼く。その肉を喰らうのですか?」
「は? 当たり前だろ。それくらい分かれよ。それすら忘れたとかいうなら、ヤバいぞ」
「ゼロから教えていただけると嬉しいです。私には、何もないようなので…………」
エルはご機嫌だ。テンション高く、私の背中をぽんぽんと叩いてきた。ヨウ国軍のことはもう、頭にもない様子。いや、完全に忘れることなど出来ないだろう。私が困惑してはいけないと、話題に触れないのかもしれない。
私も、出来ることならば戦争の話などしたくはない。ただ、背を向けたままで済まされる話でもない。この先必ず、ぶつかってしまう現実が待っている。
仏の道を歩いていた私は、むやみな殺生はしない。しかし、食事はきちんと摂っていた。すべての命に感謝をし、いただいていた。そのため、小動物を狩って食べると聞いても、そこに抵抗感を覚えることはない。ただ、毎日狩りをするのは、気が進まない。
「任せとけ! 今日は魚を獲るには陽が沈み過ぎたからな」
「あ、待ってください」
「なんだ?」
たまたま上を見たとき、木々の枝に実がなっていることに私は気が付いた。オレンジ色の果実は、熟れているように見える。食用であれば、今日はあの果実で腹を満たしても悪くない。私のお腹は、とても空いていた。
「あの実はなんですか? オレンジ色の熟れた果実。もし食べられるなら、今日はあれでお腹を満たしたいのですが」
「あれか? あれはミンヨの実。この夢幻島によく生えている木。熟れすると渋みが出て、あまり美味くはない」
「そうなんですか? あれだと、もう熟れすぎているところですか?」
「んー……ギリギリセーフ、ってとこかな」
エルは両手を腰に当てた。まるで、何かの監督官のように格好をつけていた。ところどころで子どもっぽさが窺えるエルは、本当に可愛らしい。日本人……だったと思われる弥一には、配偶者も居なければ恋人もいない。共に居たのは豆しばの『まめ』だけだった。子どもが居れば、こんな風に接していたのかもしれない。新しい人生で、私は過去には体験できなかった、新しい境遇を目にしている。
死後の世界かもしれない。夢の世界かもしれない。夢だとすれば、日本がそうであったのか。今、ここに居る魔王としての自分が夢なのか。判断をつけるのは、まだ難しい。ただ言えることは、どちらであったとしても、私はこの世界線で自分にしか出来ないことを成しえたいと思う。それが、『弥一』であり、『イチルヤフリート・ヤイチ』であることの、証明になると信じたかった。