2-13
「私は日本人として、27年間生きていたんです。しかし、私がこの世界から姿を消して、再び現れたのは5年の間なんでしょう? 計算が合わないんですよね」
「……時間軸がずれてるってことか?」
「時間軸と世界線が異なるのか。或いは、私がイチルヤフリート・ヤイチではないのか……でしょうかね」
「そんなはずはない! 俺が兄を間違えるわけないだろ!?」
「エルが私を兄と呼んでくれている間はきっと、兄なんだと思います」
その言葉を発した瞬間。エルはとても寂しく悲しそうな眼をした。その眼を見ては、胸が苦しくなる。儚い顔をして俯く。
「それじゃあ、いつかは消えて…………」
それ以上を続けることはなかった。先のことを想像して、辛くなって口を閉じたように見える。私はエルの顔から明るさが消えてしまったのを見てから、ひと息吐いて頷いた。
「わかりません。生きている以上、“絶対”という言葉は成り立たないものですからね」
「…………俺は、魔王と生きたい。魔王は俺の中で絶対なんだ」
「ありがとうございます」
静かに礼を述べ、洗い終わったローブを抱えた。洗ったローブは手でしっかりと絞って水気を取るが、それでも抱きかかえると着ている服が濡れてしまう。大きなカゴも用意した方がいいと考えた。カゴを編むことは出来ないので、それは今度、町にでも行ったときに調達しようと思う。
「魔王」
「はい?」
「……俺は、何があっても魔王が兄だと思ってるし。お前のこと、守るから」
「……エル」
「だから、あまり気にしなくていい。先々代のことも……突然現れたからびっくりしてるだけで。別に、あんな奴のことを気にしたりしないから」
強がっているようには見えなかった。エルは自分自身の中で何かを吹っ切った様子。迷いのない目が、それを物語っていた。私が心配しなくとも、エルはこう見えて大人だった。
不安を覚えていたのはエルではなく、むしろ私の方だったのかもしれない。そう思うと、自分の物差しでエルを計っていたことを申し訳なく思った。エルは記憶も魔法も忘れてしまっている私のことを、信じてくれているというのに、私はそのエルを信じてはいなかったのだ。それでは『兄』失格だ。頼もしい弟を頼りに、これから先を生きようと決心できた。
「家に戻ろう。魔王」
「はい」
よいしょと立ち上がる。桟橋も補強しなければ、水にさらされて傷んでいるように見える。家を建てたのが先々代なのだから、一緒に力を合わせれば、より住みやすい家や桟橋。それに物干しも作れることだろう。能力は他者を支配するために使うのではなく、共存するために使うべきものだと私は思う。強制は出来ないが、私はそうあろうと決めていた。
“どうする?”
……え?
不意に、頭に響いてくる声がする。
聞き覚えがある声。
漆黒の髪に、赤い目をした少女のものだ。
「どうした? 魔王」
「声が……」
「声?」
キョロキョロと辺りを見渡してみる。昨日は実際に少女をこの目で確かめたのだ。今も、どこかに立っているのではないかと思い、少女の姿を探した。しかし、見当たらない。エルは不思議そうな顔つきで私を見ていた。
“輪廻転生……ヤイチであり続ける宿命”
「ヤイチであり続ける宿命?」
「何言ってんだよ、魔王。具合でも悪いのか?」
「エルにはこの声、聞こえていないんですか? 少女の声です」
「え? どこにもそんな奴いないじゃん」
「そう……なんですけど」
落ち着かない。心の奥底がザワザワとしている。少女の声に狼狽えているというよりは、少女の声により、心の奥に眠っていた何かが覚醒しようとしている感覚だ。このまま声を聞き続けていたら、私は私でなくなってしまうのではないか。そんな不安が襲ってくる。自然とローブを抱えていた手に力が込められた。ギュッと抱き寄せることで、落ち着きを取り戻そうとした。
「……魔王」
エルは洗濯物を一旦桟橋に置いてから、小さな両腕で私のことを抱きしめてくれた。150センチほどしかない小柄なエルだ。両手を広げてもとても小さい。その細い腕に囲まれて、私は心音が徐々に落ち着いていくのを感じた。
ふわっと香る良い匂い。香水だろうか。いや、それよりも自然な香りで、落ち着く。匂いのきつくない花から取った香りを練って首や手首につけているのかもしれない。サクラの香りではなく、別の花のようだ。例えるなら、金木犀に近い。
「大丈夫だ。何がお前を操作しようとしても、俺が必ず取り戻すから」
「エル……」
「安心して、お前はハンガー作りだけ考えてろ」
「…………はは」
エルからの言葉を受けて、私はつい笑いがこぼれた。どちらかと言えば人間族に向けて攻撃を仕掛けて欲しそうにしていたし、魔王として冷徹であってほしいと思っていたはずのエルから、こんな言葉を掛けられるとは思っていなかったからだ。不意を突かれて私は笑った。エルも悪い気はしていないようだ。ふと口角を緩めて目を細めた。
「エルはカッコいいですね」
「俺は男前だからな」
「見た目は可愛らしいのに、中身は本当にカッコいいです」
「褒めてるんだよな?」
「もちろん」
ぽすっと私の背中に小さくパンチをしてから、エルは歩き始めた。その後に続いて、私も歩き始めた。頭の中に響いていた少女の声も今はない。幻聴だったのか、妄想だったのか、気のせいだったのか。確かめる術はないが、とりあえずは気にしないでおこうと決める。変に気にしていても、エルが困るだけだからだ。それでエルが不安になるならば、余計に悪い。少女の件が確定するまでは、胸の内に留めておこう。また、問題が出て来るようならエルに相談すればいいと考えた。エルはきっと、逃げも隠れもせず力になってくれるだろう。先々代魔王のことも、気持ちの整理がついたように見える。私なんかよりもこの世界のことをエルは把握しているのだ。兄弟であるのだし、頼らせてもらおうと思う。