2-9
“抗ってみせよ”
いつもの落ち着いた女性の声。
いつもと違うのは、私が彼女を認識していること。
“この世界の魔王として、足掻いてみせよ”
昨日、姿を見せたのは、黒く外はねの髪を持った少女。
身長はエルと同じくらいで、ルビーのような赤い目を持つ。
“お前は………………ヤイチだ”
えぇ、聞きましたよ。
私は、弥一でありイチルヤフリート・ヤイチでもあります。
“お前は………………”
最後の方が聞き取れない。
しかし、名前の次に何かを告げようとしている言葉がある。
「…………もう一度、お願……」
パッと目を開ける。
残念ながら最後の言葉は聞き取れないままの、夢。
真っ暗な世界の中、物静かな少女の声が響く、夢。
あくまでも『夢』である。
それなのに、その夢とは現実と直結している。
そのように私は、この夢との向き合うつもりでいた。
この世界に来てから毎夜、眠る度に少女の夢を見る。夢の中は真っ暗で辺りを見渡しても何も見えない。ただただ、少女が私に語り掛けて来ることで、朝になると目が覚める。眠った感覚はまるでない。そのせいか、日に日に疲れが蓄積しているようには思えた。ゆっくりと眠りにつきたい。夢など見ず、たまには自分のタイミングで眠りにつき、十分に休眠してから目を覚ましたいものだ。
窓の外に目を向けると、すでに太陽が昇っている。眠った時刻は遅かったが、起きた時間もそれなりに遅い。目を閉じている時間は確保されており、睡眠は少なからずとれているはずだった。それなのにここまで疲れが残っていることには、何か意味があるのだろう。それを知るのはまだ、先のことになるかもしれない。
まだまだ、私はこの世界のことも、私自身のことも知れていない。エルに聞いて分かることもあるだろうが、エルも全てを把握していないだろう。現に、夢の中の少女の正体については、知らなさそうなイメージだった。もしかしたら知っていて、あえて知らないふりをしている可能性もある。しかし、それならそれで意味がある。エルからはまだ、私に告げることの出来ない事実があるということだ。
さらに、昨晩は『レクティス』という先々代魔王まで現れた。私も、イチルヤフリートの命を終え、日本に魂が移り、またこの世界に戻って来た可能性が高いということは、『転生』システムが起動していることは間違いない。キッカケがなにで、どうすれば転生できるのかなど知る由もない。レクティスは胸に紫の薔薇……おそらくは、『魔王』としての力を失う寸前にそこに力を宿したのだろう。それによって、転生術を操った。一方私の身体には、そのような痣は存在しない。私とレクティスは、別ルートによってこの世界に戻ってきたと考えられる。
いや、もしかするとそもそも私は死んではいなかった……という可能性もある。日本を経由して魂は夢幻島に宿ったのだろうが、時間軸は定かではない。
陽が東から昇り、窓から差し込んでくる。その角度からして、昼の10時頃と推測する。今日はエルが起こしに来なかった。レクティスはどうしたのだろう。私はゆっくりと起き上がると、まずはパジャマローブを脱いで、洗濯済のローブを取り出した。すっぽりと頭からかぶる。黒のローブで飾り物は特にない。肌を光から守るために、すべてが長袖であることも特徴のひとつ。ただ、実際には魔族こそが『陽』を拝み、崇めていた存在だった。今のこのしきたりは、戦争で人間族に負けてしまってからの風潮といえる。そのため、光を肌に浴びても支障はない。それは実証済みのこと。
着替え終わると今度は、扉をあけて居間に向かった。まだ、レクティスの姿はない。エルは既に起きていて、台所に立っていた。
「おはようございます、エル」
「あぁ、おはよ。魔王」
「ちゃんと眠りましたか?」
「まぁ……一応な」
元気がまるで無い様子なことが気になる。きっと、レクティスのことを警戒して早くから起きていたのだろう。私は何て言えばいいのか、言葉を選んだ。
「警戒しているんですね」
結局、考えたところで出た答えは率直に言葉をかけることに至った。エルは黙ってこくりと頷く。そこまで怯えなければならないほど、レクティスは脅威なのだろうか。私の中ではまだ、しっくりこない。ただ、老魔王にトドメを刺したのがレクティスであり、それを目の当たりにしていたならば……警戒し、恐れることもまた必然と言えよう。私はレクティスからエルを守り抜くことを内心でしっかりと決める。
「私の傍から離れないでくださいね。私がエルを守りますから」
「居なくなったのは魔王の方だろ……」
「ぁ…………それを言われると、申し訳ない」
「いや、戻ってきてくれたから……いいんだ」
エルは、自身に言い聞かせるかのように静かに頷いた。
今、野菜を洗っていたようだ。レタスのような葉野菜とキュウリだろうか。ちょっと大き目な形で輪切りにされている。ハムのような肉も並べられていた。まな板の上には、食パンが並べられている。全部で6枚。この枚数と野菜などの様子から察するに、サンドイッチを作ってくれていたのだろう。それも、レクティスの分もある。私はこの光景につい、微笑んだ。
「美味しそうですね。サンドイッチですか?」
「うん。たまにはこういうのもいいだろ? 肉とか、木の実ばっかじゃなくてさ」
「いいですね。好きですよ、サンドイッチ」
「ならよかった」
やはり元気が無い。それを少し気にして、もう少しエルと会話をしようと隣を陣取った。会話をしているうちに、気がまぎれることもある。