2-6
「エルは、記憶のない私を支えてくれている大切な弟です。弟を守れないような兄が、世界を救いたいなんて、言えるはずがないでしょう?」
「キミは本当に、イチルヤフリートくんなのかな? 僕の知るイチルヤフリートくんは、そんな優男ではなかった」
「過去がどうであったのかは分かりません。でも……」
息を吸って、間をあける。もったいぶっているのではなく、言葉に重みを含ませたかったからだ。私はしっかりと呼吸をととのえて、レクティスに言葉を届けた。
「私は、私。魔王です」
「…………厄介な男に、魔王が継承されてしまったね」
そう呟けば、レクティスは立ち上がった。
だぼっとしたローブは、華奢な彼には大きすぎる。大きなデザインが好きなのか、それともぴったりとしたサイズのローブでは困ることがあるのか。大きなローブのため、胸元の紫の薔薇がちらついて見える。それをまわりに見せつけることが目的のひとつである可能性も高い。ただ、何であっても私には関係のない話だった。どんな服を着ようが、それは相手の自由である。
レクティスは椅子を戻すと、この家の一番北にある個室に向かって歩き出した。開かずの扉の部屋はやはり、彼の部屋だったようだ。
「馬鹿々々しいから、僕は先に寝るよ」
「えぇ、おやすみなさい」
「…………」
エルは声を掛けなかった。なるべく、自ら関わろうとはしない姿勢を保ちたいのだろう。エルは過去のレクティスを知っている。そのときに植え付けられた恐怖心というものは、簡単には拭いきれないものだ。恐怖とは、一度植え付けられるとなかなか切り離せない厄介な種だった。
時間をかけてでもいい。私はエルからその恐怖を根絶やしにしてあげたいと心底願った。そのために出来ることを、模索したい。今の私には、記憶も知識もなければいい案もない。残念なことこの上ない。
レクティスが北の部屋に消えてからしばらく、エルは黙ったままであったし、私も椅子に座ったまま静かに時の流れに身を任せていた。数分が経ったところで、エルは大きく息を吐いた。
「まさか……レクティスが現れるなんて。思いもしなかった」
「嫌な記憶があるんですね」
「この件に関しては、記憶が抜け落ちている魔王はラッキーだぜ」
「そこまで酷いひとなんですか?」
「…………昔の魔王だって、冷徹で冷淡だった。でも、先々代魔王はもっと厳しく、氷のような男だ」
「口調はなめらかで温和ですけど、目の奥はとても冷えていましたね」
思ったままの感想を、私はエルに伝えた。その返しが来ることを読んでいたのか、エルも静かに頷いた。お盆に3つの湯呑を乗せて、流しへ運ぶ。蛇口をひねって水を出すと、洗剤などは一切使わず、手洗いをはじめた。今日はタワシも使っていない。お茶くらいをすすぐなら、水で手洗いで十分だと私も思う。
お湯は出ない。寒さが厳しい中、エルはひとり黙々と手洗いを続ける。若干エルの手が赤くなってきているのが確認できた。洗い物も当番制にしたほうがいいと私は思うが、きっとエルが譲らないだろう。魔王だって、もともとは『魔族』なのだから、そこで差をつける必要性はないと私は考える。しかし、この世界に戻って来たばかりの私の案が、あっさりと受け入れられることはないと、それも頭のどこかでは理解している。どうすれば、身分差のない世界を手に出来るか。今後の課題のひとつになる。
レクティスは、一度死んでから再度同じ姿をもって生まれ変わって来た。このケースが私にもすっぽりと当てはまるのだろう。ただ、レクティスは紫だった髪が緑に戻っている。一部分紫なのが、魔王だったことの名残だろう。一方私は、今こそ完全なる魔王の姿をしている。そのあたりの相違は、どこかで知ることが出来るだろうか。気になる問題点だった。
「あまり、先々代には関わらない方がいい。魔王が痛い目を見るだけだ」
「そうかもしれませんね。あのひとは、頭の回転もよさそうですし」
「それだけじゃない。先々代の力は本当に……群を抜いて強い」
「それでも、一度は死んだひとなのでしょう? 何故、死んでしまったのか。理由を知っていますか?」
「…………」
エルは眉を寄せて目を細めた。厳しい顔つきはエルには珍しい。聞いてしまってはいけなかったのかと、私は口を開けた。その瞬間、エルが言葉を返した。
「老魔王の最期の地。覚えてるか?」
「え? あぁ、はい。あの切り株のところでしょう?」
「あの地で老魔王にトドメを刺したのは、先々代だ」
「!? どういうことですか? 先々代が亡くなって、老魔王に魔王の権利が移ったんでしょう? それなのに、何故レクティスさんが老魔王の時代に存在しているんですか?」
「どういうサイクルかは分からない。ただ、死んだはずの先々代が現れ、老魔王の心臓に刃を突き立てた。それによって、老魔王は息絶えたんだ」
「…………そのとき、レクティスさんは私とエルを見たんですね」
「あぁ」
ギリっと奥歯を噛みしめる。エルが悲痛と共に悔しさに顔を歪ませる顔を見ると、胸が痛んだ。エルにとって、老魔王はきっと本当の祖父のような存在だったのだ。ジクヌフ国との戦争最中、致命傷を負ってこの地に戻って来たとは聞いたが、そのトドメを刺された状況を目撃していては、それは辛さと恨みも倍増だろう。そのひと刺しがなければ、生きていたかもしれない。そういった可能性を探してしまうからだ。
「胸に刻まれている紫の薔薇。あれはきっと、魔王にしか扱えない秘儀なんだと思う」
「そのような感じでしたね」
「魔王はアレを言い当てた。魔王、多少は記憶が戻ってきているのか?」
「そうかもしれませんね」
エルの表情は晴れない。レクティスがこちらに手を出して来る可能性は、今のところ低いと言えそうだが、断言は難しい。平気にひとの命を絶つことが出来る男だ。簡単に信用しては必ず痛い目を見る。信じることからはじめなければ、相手から信用してもらうことなど難しいとは分かっている。しかし、レクティスという先々代魔王に至っては、簡単に心を赦すのは間違いだと警笛が聞こえる。