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ザッザッザ……。素直を蹴り、前に進む。ゆったりとしたローブの裾は、地面にすれすれ。肌に触れる布の感じからは、絹だと推測される。贅沢な逸品だ。
私が進む、その二メートル後ろあたりには、エルの姿があった。ちらりと肩越しにエルの顔を確認するが、その表情は暗い。目の前に居る『兄』であり、『魔王』のはずである『ヤイチ』が、合流するやいなや、人間たちを前に全てを放棄してしまったのだ。生粋の魔王族の少年エルからすれば、屈辱的だっただろう。奥歯を噛みしめ、眉をひそめる。目にはうっすらと、涙が浮かんでいるように見える。それは、光の加減でそう見えただけかもしれない。
エルが、一度は私の制止を無視してヨウ国軍に攻め入る姿勢を見せたが、一度それを止めれば次に攻めることはなかった。私のことを『兄でもない、魔王でもない』と非難したが、最終的には私を裏切らなかった。
「エル」
「…………」
「すみませんでした」
「…………」
謝罪するには、顔と顔を合わせてから行うべきだった。私は何を急いでか、泉のほとりを目指して歩きながら、流れでエルに謝罪の言葉を告げた。それでは誠意は伝わらない。ただでさえ、エルは深く傷ついているのだ。私は自身の身勝手な思想に巻き込んだことを後悔はしていないが、今のはよくなかったと足を止めた。私との間を詰めないように、二メートルの距離を保った状態で、エルも足を止めた。
「エル」
「…………なんだよ」
「怒っていますよね。私は、あなたの兄ではないと……魔王ではないと」
「前言撤回はしねぇからな」
「いいんです、それで。ただ、私は今後も争いをしたいとは思いません。この木々に囲まれた、泉のご加護を受けながら静かに生きるつもりです」
「人間たちが攻めて来たら?」
私は軽く息を吐いた。人間とは欲深く、罪深い。ヨウ国軍隊長も言っていたように、人間はより強い力を誇示し、領土を広め権力を掲げたい生命体。私が避けたところで、戦争が無くなるのかといえば、YESとはとても言えない。
しかし、諦めてしまえばそれまで。前世の『弥一』では成しえなかったことを、魔王として生まれ変わった私『ヤイチ』になら、出来ることがきっとあると信じたい。人間は前を向き、信じることもできる。
そういえば、この世界にも『仏』や『神』として崇められる存在はあるのだろうか。『魔王』を崇拝しているようではない。むしろ、虐げようとしている。それなら、その真逆に位置する絶対的何かがあっても、良いような気はする。もし、その存在が明らかとなれば、私はその存在の力を借りたいと考えた。人間たちの敵としか見てもらえない『魔王』が、人間たちの祈りの象徴である何かに許しを請い、協定を結べたならば。大きな争いを封じる一手となる可能性がある。
人生とは徳を積むこと。
どれだけの徳を、私はこの世界で残せるのだろうか。
エルは、問いかけを無視されたと思ったのか、眉を吊り上げた。つい、思考を巡らせてしまい、答えぬままとしてしまっていた。私は頭を下げた。
「すみません。人間が攻めて来たら……ですね? もちろん、今回と同様の対応をしますよ」
「……どうしちまったんだよ」
「何がです?」
「魔王とは恐怖の象徴で、絶対的力の保有者。睨みを利かせるだけで、人間が蒸発するほどの強力な魔力を持つ! 無慈悲で残虐。それでいて美しい。それが、魔王のはずだった」
「そうですか」
「そうですか……じゃねぇの!!」
半歩踏み出し、身を乗り出してエルは怒りを爆発させた。叫び声で、木々で身体を休ませる小鳥や虫たちが慌てて飛び立つ。私には感じ取れないが、これが魔王族の持つ力のひとつなのかもしれない。
「お前は魔王なんだろ!? ヤイチなんだろ!?」
「弥一ではありますが、ヤイチであるのかは分かりません」
「意味わかんねぇ!! ちゃんと答えろよ!!」
「誤魔化そうとしているのではないのです」
「お前は!!!」
お腹の底から空気を吐き出し、そこに言葉を乗せ叫んだ。甲高い響きのある声が、耳の鼓膜を振動させる。ピリピリするほどの大きな声だった。
「…………お前は……………………」
その次に発せられた言葉は真逆で弱々しい。めいっぱい叫んだ後の言葉だからか、その言葉は掠れていた。感情も揺れ動き、エルの情緒が不安定であることも関係しているのかもしれない。
「お前は、魔王じゃないのか…………?」
「…………」
即答はしなかった。何といえば、私はエルに対して誠実であれるのか。エルが求める答えは、『YES』と『NO』のどちらなのだろうか。
いや、きっとどちらの選択肢を選んでも、エルは傷つくことになるのだ。私がこの人間外の姿で目を覚まさなければ、エルをここまで困惑させることにはならなかったはずだ。
心なしか、身体を撫でる風が冷たくなって来たように感じる。陽も傾いてきているせいで、木々の影も伸びている。異世界でも、太陽と同じ性質を持った光がある。光量も見える高さも、太陽といって差支えなさそうだ。広い銀河のどこかで、この地が存在しているのかもしれない。銀河は天の川銀河だけではない。
「答えろ」
「…………つい先ほどまで。私は地球という星にある、日本に居ました。いつものように仏様に手を合わせに行くため、山道を上っている途中で落雷にあい、そこで命が尽きてしまいました。どれだけの時間が経過したのかは分かりません。気づくと私は、あの泉のほとりに倒れていたのです」
私は両手を広げた。エルに私の姿をしっかりと見せるためだ。
「この、見慣れない魔王という姿になって。私は、倒れていたのです」
「見慣れない姿、か…………」
「はい」
エルは目を伏せ言葉を失くした。しばらく、会話のない時間が訪れる。エルにはエルの考えるところがあり、私は私で考え事をしていたためだ。
さらに陽が西に傾く。空の色もオレンジ色から次第に薄暗い灰色の空に変わって来た。浮かんでいる雲も増える。雨こそ降らなさそうだが、気温は下がっている。私は顔を上げ空を見た。星もうっすらとだが、見えはじめた。
どこかで暖を取らなければ寒い。このローブは、防寒具としての役割もあったのかもしれない。それでも足りない程、冷えている。
エルはまだ、考え込んでいる様子だ。ただ、時折顔を上げ視線を私に送って来る。それに合わせて頷くと、再びエルは視線を外す。それの繰り返しを何度か繰り返した。