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「持って行っていいって……タダってこと?」
「そういうことや。えぇから、持って行きなはれ。ばぁばが使うもんでもないでねぇ」
「でも、ここは店だろ? ばあちゃんの生計が成り立たなくなるぜ?」
「はっは。えぇんや、えぇんや。ばぁばはもう、そこまで物も食べんでなぁ。それに、裏で畑しよるで。生きていくのに困ることはないんよ」
ここは路地裏の一番奥だった。日当たりもそう良い方ではなさそうである。この裏で畑をしているとすれば、そこまで耕作が難しくない野菜となる。芋類などだろうか。
それにしても、おばあさんの貴重な収入源を奪う訳にはいかない。私のチョーカー代も払っていないのだ。せめて、エルのクリップくらいは買いたいと思う。もっとも、どちらにしてもお金を払うのは私ではなく、エルにはなる。
「俺は、ばあちゃんからこれを買いたい。魔王のチョーカーはもらっていくから、俺のヘアアクセは買わせてくれ」
エルも私と同じ気持ちだったようだ。それは嬉しい気持ちの一致だ。頷いて、エルの意見に同意を示した。しかし、おばあさんは首を横に振った。
「久しぶりにばぁばの店に来てくれたお客さんが、魔王陛下と弟さんやということだけで、大満足なんよ。だから、これはばぁばの気持ちやと思って、受け取ってほしいねぇ」
「…………でも」
「えぇから、えぇから」
「……魔王」
エルは眉を寄せて困った顔で私を覗き込んで来た。私はそれを受けて『うん』と頷いた。ここまでおばあさんが言ってくれるのだから、ここはもらっていく方が正しいと思った。それをエルにも伝える。
「ありがたくいただきましょう。おばあさん、ありがたく受け取らせていただきますね」
「ありがとうねぇ。ばぁばの我儘きいてくれて」
「いえ、こちらこそ。でも、次に来た時には購入させてくださいね?」
「また来てくれるんかね?」
「もちろんです」
おばあさんは嬉しそうに笑った。口元に浮かべる笑みも上品で温かみがあった。シワが深い眼尻により一層のシワをつくり、何度も頷いてくれる。
「えぇ日になった。イチルヤフリート魔王陛下が魔王である限り、この世界は安泰やなぁ」
「もちろんだ! 魔王は最強だからな!」
「はっは。自慢のお兄さんやねぇ」
早速おばあさんからもらったサクラのヘアクリップで、エルはパチンと前髪を留めた。
「どう!?」
よっぽど嬉しいのだろう。目をキラキラと輝かせ、私を見つめて来るので私はまた『うん』と頷いた。おばあさんも同じ気持ちなのだろう。優しい顔でエルを見ている。何度か『うん、うん』と頷き笑っている。
「可愛いですよ、エル」
「いいもん見つかった!」
「本当ですね」
橙色の光が薄らぎ、闇が伸びてきた。あと15分ほどで日没だろう。私たちは窓の外に目を向けた。外は既に随分と暗い。この室内がやや明るさを保っているのは、サンキャッチャーなどが輝きを放っているからなのかもしれない。
「もうすっかりと、闇が深くなりよるねぇ。帰るんなら、はよう帰ったほうがえぇよ」
「そうだな。町にはまたこればいいし。魔王、帰るぞ」
「はい。おばあさん、本当にありがとうございました。また、必ず来ますね」
「楽しみにしてるでなぁ。待っとるよ」
ここを去る前に、おばあさんにもう一度感謝の気持ちを伝えたくて、私はおばあさんの前まで歩み寄った。そして、手を差し出して握手を求めた。おばあさんはそれに気づいてくれて、私の手を両手で優しく包み込んでくれた。その手は分厚くしわくちゃで、やや硬さがあった。畑仕事のせいで、こんな風にまめができたしっかりとした手になったのかもしれない。愛着が持てる手をしていた。
「冷えて来ますから。お身体ご自愛くださいね」
「魔王陛下も、気を付けてくださいなぁ」
「魔王、いくぞ」
「はい」
「またおいでねぇ~」
私とエルは頷いて、この店を後にする。
カランカラン、カランカラン。
ドアにつけられたベルが鳴った。
「いいお店でしたね」
「本当だな。入ってよかった!」
前髪を上げた状態で髪留めをしているエルは、おでこを出してかわいらしさが増している。猫のようなくりっとした目で、赤い眼も嬉しそうだ。男の子で可愛いものが好き。世の日本でも、結構見られる光景だ。ひと昔前では、あまり考えられなかった趣向かもしれないが、今は『個性』が大切にされている良い時代だ。その風習がこの世界にもあることは、良い傾向だ。
結局この日は、喫茶店リーバーとアクセサリー屋しか覗けなかったミスティーユの町だが、それなりの収穫はあった。エルが何かを隠しているのかもしれないということもそうだが、魔王に成り変わろうとしている存在があるということ。魔族のすべてが魔王を支持している訳では無いということ。角を失くす魔族が居るということ。そして何より、サクラが今の魔族の支えになっているということだ。
日本で暮らしていた田舎の私の家の庭。生えていた一本のソメイヨシノとこの魔族の世界のサクラには、何かしらの縁があるのではないか。そう思えて仕方ない。ただの偶然かもしれないが、日本人を引き寄せる何かがあったとしても、そこまで不思議ではない。
イチルヤフリート・ヤイチ。
この世界の魔王の魂は、私の魂を呼んだのか。
「魔王?」
何があるにしても、今の私はまだ知る必要が無い。
その段階には、差し掛かっていないと思えた。
だからこそ、私は何の疑いも無く笑える。
私は、足を止めていたエルの横を通り過ぎ、町の外へと歩き出した。少し行った先で足を止め、後ろを振り返る。そこには、口をぽかんと開けているエルの姿があった。私は目を細め、その姿をしっかりと焼き付ける。
「帰りましょう」
「あぁ!」
乾いた地面を蹴り、エルは駆け出した。今度は私を先導するように、先を走る。そこには、エルが空間移動するための魔法陣を描いた岩がある。再びそこに印を結べば、魔法陣を展開させる。眩い赤色の光が私たちを包み込み、数秒。その次に目を開けた際には、私たちふたりの家からほど近い岩場へと移動していた。
すっかり日は暮れ、真っ暗な空が広がる。点々と星明りが美しい。星空の下、私とエルは坂道を下った。
そこには、見慣れた我が家がある。電気はないため、真っ暗だ。エルは玄関ドアを開けた。
「…………えっ?」
エルは、驚きとも恐怖ともとれる声を漏らした。
その意味を、私はまだ知らない。