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私が魔王でなかったとしたら、なんだというのか。
日本人を引退し、魔族の世界に転生した……その事実を覆されるものなのか。
そこまで詳しいことは、まだ私には分からない。
きっと『そのとき』が来たならば、エルは教えてくれるはずだ。私はそれを信じることにした。この世界でまず信じなければいけないのは、『エル』だと思う。弟であるエルのことさえ信じられないようでは、私は魔王失格であり、この世界から戦争を根絶やしにし、真の平和を築くことなど夢のまた夢に終わってしまうだろう。それではいけないと、私は首を左右に振った。その意図は、エルにもおばあさんにも分からない。
「坊やは、魔王陛下の弟さんか何かかえ?」
「弟だ」
「そうかい、そうかい」
「それで……魔王から、ばあちゃんは何を感じ取ったんだ?」
「これやね」
おばあさんは椅子に座った状態で、よいしょと後ろを振り返った。カウンターの後ろにはちょっとした作業スペースがある。その壁に、古びた紐を編んだアクセサリーがぶら下がっていた。これは何だろう。長さ的にはチョーカーだろうか。赤の紐で、中央につけられているのは花のモチーフ。それだけは透明なクリスタルではなく、ほのかにピンクで5つの花弁が咲いている石だった。花弁の中心にはやはり赤い輝きがある。これも、魔光石なのだろうか。
ただ、その花はどう見たって『桜』だった。この世界には、『サクラ』があるとエルも語っていたことを思いだす。『サクラ茶』自身は茶色で何の変哲もないお茶葉だったが、もともとは白や淡いピンクだというのだから、『ソメイヨシノ』と同じようなものだとは思っていた。その現物を再現したのがこのチョーカーなのかもしれない。
「サクラじゃん!」
「そうやねぇ。サクラやねぇ」
「おばあさん。サクラはこの世界にとって、何か意味のある存在なんですか?」
「そりゃあもう、そうやねぇ。サクラは、魔族にとってふたつ目の神様やなぁ」
「神?」
おばあさんは背が低い。腰が悪いようで、腰を曲げているためより背丈が小さくなっている。目線は150センチほどのエルと同じくらいだ。そのおばあさんの眼は、にこにこと笑っている。温厚な眼差しで、優しく私を見つめて来る。この目の先に、私はどう映っているのだろうか。
サクラは、神。
ふたつ目の、神。
「ひとつ目の神は、太陽やなぁ。その太陽信仰を人間との争いで許されなくなった。それは魔王陛下も知っておるやろ?」
「なんとなくは話に聞いています」
「太陽信仰を諦めなあかんくなった魔族は、このサクラを次の信仰対象にしたんや」
「サクラは一年中花を散らさない。そこに希望を見たんだ」
おばあさんの話に、エルが補足を繋げた。サクラが第2の神というのは、新しい考え方だ。ただ、自然を崇める風習は、日本の神道に通じるところがある。私はこのサクラのチョーカーが気になった。それを察したのか。おばあさんはチョーカーを手に取ると、それを私に差し出してくれた。
「魔王陛下さえよけりゃあ、もらっていってくんなされ」
「え? ですが……これは、おばあさんにとって大切なものなんでしょう? これは、商品として陳列されていませんし」
「ばぁばはもう、年やでなぁ。あといつまで生きられるかもわからん。せやけぇ、これを魔王陛下に持って行ってもらえりゃあ、嬉しいもんだ」
私は少し悩んでから、おばあさんが差し出して来るそのサクラのチョーカーを受け取った。手に取ると、思っていたよりずっしりとした重みを感じた。これが、希望を失った魔族の新たな希望。それゆえに、この重さがあるのかもしれない。
真ん中で輝く赤い陽は、太陽を閉じ込めたようにも見える。古来信じて来た太陽を閉じ込めることで、魔族はより永遠な光を見出したということだろうか。
「大切にします」
「はっは、失くしたときは、そのときはぁそのときやでなぁ」
「つけてもいいですか?」
「えぇよ?」
私はこのチョーカーを早速首につけた。アクセサリー類にハマったことがなかった私にとって、これは人生初のアクセサリーとなる。それがとても意味のあるチョーカーなのだから、これは運命だと感じてしまう。それも、『サクラ』だ。私がとても大切にして来た日本の春の風物詩。ソメイヨシノに似たこのサクラを、私は大切にしようと強く思う。
「似合ってるぜ!」
「魔王陛下にもらってもらえて、ありがたいことやねぇ」
エルもおばあさんも、喜んでくれた。それを受けてやや照れながらも、私は軽く石の部分を手にした。つるんとした手触りで、若干ひんやりしている。赤い紐がきっと、黒のローブにも映えるだろう。
窓から西日が差し込んでくる。いよいよ橙色の光が伸びてきた。陽が落ちるのも時間の問題。それほどゆっくりしているつもりは無かったが、時間の経過は早い。帰りが遅くなってもいけないと思い、私はエルのヘアクリップを探すために右奥の棚に移動しようとした。
「おばあさん。ヘアクリップ見させてくださいね」
「どうぞどうぞ。えぇものが見つかると良いんやけどねぇ」
「きっとありますよ」
エルは目を輝かせ、先に棚へ移動した。そういえば、エルは何色が好きなのだろうか。基本的には黒や赤の紐やクリップが多いが、そのほかにも青や緑、黄色などの色も置かれている。私はまだ、エルのことすらまともに理解していないのだと知ることになった。エルが何を知っていて、何を隠しているのか。エルを知らないのだから、分からなくても当然だ。私はもっと多くの地へ行き、エルと様々なものを見て感じて、世の中や人々を知る必要があると強く感じた。
「エルは、何色が好きなんですか?」
「特別好きとか、嫌いとかはないかな。気分で変わる」
「それでは、今日はどんな気分なんですか?」
「今日は…………緑!」
「緑。魔族の髪色ですね」
緑をベースにしたヘアクリップも、何種類かあった。その中でも私は、見ていて『これが可愛い』と感じるクリップをひとつ見つけた。深い緑、若草色の緑、黄緑の3色が織り交ぜられて、サクラの葉が再現されていた。その上にはサクラの花の石がくっつけてある。そこには春と夏のソメイヨシノが再現されている様に見えた。完全なる私の好みだが、私はそれを手に取った。そのまま、エルの髪の毛にそれを当ててみる。目の前のエルは恥ずかしがった様子もあるが、嬉しそうに笑っている。
「どう? どう? 似合う?」
「とても似合いますよ」
「じゃあ、それにする! ばあちゃん。これ買う!」
「持って行ってえぇよ」
おばあさんは、よいしょと椅子に再び腰かける。ニコニコとした目でこちらを見守ってくれていた。エルは不思議そうに眼をあけて、おばあさんを見た。




