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(何の気配だったんでしょうね……)


 声には出さない。もし声に出してしまえば、エルに聞かれる可能性もある。それだけではなく、もし本当に私の命を狙うものが潜んでいるのだとすれば、彼らにも私の心の内を披露してしまうことになる。それは、得策とは言えない。

 暢気にハンガー屋さんを開こうとしていたのに、温和な隠居生活に早くも暗雲が立ち込めてきている気がして仕方ない。戦争を放棄し、権力を放棄し、争い事からは一切身を引くつもりでいるのに、世界はそれを赦そうとしない。もしかしたら、地球の中で起きていた戦争も、誰も望んでいないのに、思想や各々が崇める神や仏の相違など。価値観が違うだけの小競り合いからはじまったものかもしれない。もともとは、平和であったはずなのだ。戦争とは、どの時代から生まれたのだろうか。

 日本でいう弥生時代。あの当時は、まだ豪族というものも存在していなかった。それに近い存在はあったのかもしれないし、邪馬台国といえば有名だ。当時から、神。ここでいう神は、キリストではなく『自然』を崇める宗教は存在していた。その思想と星々の動きを見て、平民は卑弥呼を崇めた。後に訪れる飛鳥時代。そこでは、聖徳太子が冠位十二階を制定。天皇もすでに存在している。徐々に階級付けが進み、貧富の差が生まれ始めたのはこの時代からかもしれない。

 やはり、身分の差。貧富の差は大きい。人々の思想や固定概念が変に定着してしまう。人類皆平等。そうあるには、誰かが権力を誇示した時点で崩壊する。

 転生先の今。ここでも魔王という存在はきっと、人間たちにとっては『脅威』なのだろう。そうだとすれば、私が権力を捨て、魔法陣を捨てることは、平和を導くための必須条件となる。私はそれで構わないし、むしろそれで変なしきたりやいざこざが無くなるのならば、嬉しい。エルに協力してもらい、力の放棄を目指さなければならない。


 コンコンコン。

 ノック音が聞こえる。


「魔王。大丈夫か?」


 扉の向こう側からは、エルの声が聞こえた。脱衣所ではなく、廊下に居る様子だ。考え事をしていて、つい長湯をしてしまったため、心配してくれたのかもしれない。


「大丈夫です。すみません、つい遅くなってしまって。今、出ますね」

「いや、慌てなくていいんだ。さっき、妙なことを言っていたから……ちょっと、心配になって見に来ただけだから。何でもないならいい」

「いえ、もう出ますよ。心配してくださり、ありがとうございます」

「礼ならいいって。じゃ、待ってるな?」

「はい」


 ザバーッ……。

 立ち上がると、身体にまとわりついていたお湯が一気に下へ流れていく。浴槽と引き戸の間には、ちょっとしたスペースがあるので、まずはそこに出る。引き戸を開けば、バスタオルをひとつ取り。髪の毛から拭きはじめた。角があるせいで、髪の乾かし方には苦戦してしまう。なんとか身体の水気を取ると、脱衣所へ戻った。マットが敷いてあるため、その上に立って再度完全に水をふき取った。持って来たローブに着替え、着ていた半袖のローブは手に取った。


「エル、お待たせしました。出ましたよ」

「あったまったか?」

「おかげさまで」

「そいつはよかった。じゃ、俺入って来るから。先に寝ててくれ」

「起きてますよ」

「湯冷めするぞ?」


 エルは居間にある引き出しから、自分の着替えを出しながら応えてくれる。その様子を眼で追った。


「昨日のお茶、出してくれませんか? 後からふたりで、飲んでから寝たいです」

「あー……あれ? 気に入ったのか?」

「はい。とても綺麗な色でしたし。ほのかに香る甘い味がとても好きです」

「……」


 エルは、ふわっとした笑みを浮かべた。照れくさそうに嬉しそうに、口元が綻んでいる。はにかみながらも、必至に表情筋の崩壊を防ごうと試みているのが見てすごく分かる。ただ、そこは突っ込んではいけないと思って何も言わない。


「俺もあれ、好きなんだ」

「なんていうお茶なんですか?」

「サクラ茶っていう」

「桜?」


 私は驚いて目を見開いた。咄嗟に反芻してしまう。


「そう。サクラっていう木があってさ。綺麗に薄ピンクの花を咲かせるんだ」

「……それは、見てみたいですね。でも、この季節だと花は散っていますか?」

「え? いや、サクラは常に花を咲かせる特別な木だから。いつだって花見が出来るし、花を摘んでくることもできる」

「そうなんですか。私の知る桜とは、少し違うようですね」

「サクラのことは、知っていたのか?」

「同一ではないようですけど……一応、私も“さくら”という花は知っています」


 一気に記憶が溢れ返すほど、『サクラ』というワードは鮮明に私の頭に突き刺さった。庭で愛でていたソメイヨシノ。その地から去って、まだ3日。それなのに、随分と古い思い出のようになっていた。私の心の奥底に、仕舞われつつある弥一としての記憶。このまま過ごしていると、いつの間にか私は『弥一』を忘れ、完全に『イチルヤフリート・ヤイチ』として覚醒するのではないか。その感覚が想像できず、覚醒後の自分にちょっとだけ不安を抱いた。もし、エルに冷たく当たるような魔王に戻ったとしたら……私は、何のために人生をやり直しさせてもらっているのか、分からない。深く息を吐いた。


「サクラを知ってるなら、やっぱりお前はこの世界の魔王で、俺の兄で間違いないんだよ」

「そういうことになるんですか?」

「サクラを愛でていたのは、俺と魔王だけだった」

「…………それは、とても深い絆が結ばれていますね」

「だろ?」


 嬉しそうに得意げな顔をして、エルは目を細めた。つられて私も笑う。


「サクラ茶、あとから出してやるけど。冷え無いようにしとけよ? 寒くなったら、遠慮なく部屋へ戻れ。部屋にサクラ茶持って行ってやるから」

「わかりました。でも、きっとこの居間で待っていますよ」

「はいはい。じゃあ、さっさと出て来るな?」


 言葉はかけず、私は頷いてエルを見送った。両手に服を抱えてトタトタと廊下を歩いていく。脱衣所の扉を開け中に入ると、しばらくしてからガラガラという引き戸を引く音が聞こえてきた。無事、お湯に浸かれたようだ。

 私は、テーブルに両肘をついて、ゆっくりと手を合わせた。なんだか、嫌な予感がしてならない。その不安を取っ払うためにも、もし、霊的な何かが関係しているのであればと考え、小声読経を始めた。合掌、礼拝。般若心経を読む。すると、身体も軽くなり、気持ちも落ち着きはじめた。

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