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居間の方からは、ジュージュー……と何かを炒めている音。時折、コンコンコンと箸がフライパンを叩く音が聞こえて来る。香りも部屋まで伝わっていて、カレーのような香辛料の匂いに似ていた。段々と部屋が暖かくなって来たのは、エルが暖炉に火をつけてくれたのだろう。風呂にも入るなら、湯を沸かす手伝いをしようと思い、私は気になっていた本を棚に戻し、部屋を出た。どうせ着替えるならと思って、服は昨日袖部分を裁断した半袖ローブにした。若干寒いが、それでもどうしようもない寒さでもない。薪を焚くなら、動きやすい服の方が適しているとも考えた。
「エル。お風呂の支度をしようと思うのですが。薪はどこにありますか?」
「え? 飯の前に風呂にするのか?」
手慣れた手つきでフライパンをゆすって、宙を舞わせながら肉を炒めていた。昨日食べた小動物の残りだろうか。今日の味付けは塩コショウではなく、違った味であるのは匂いからして間違いない。楽しみにしながらも、辺りをキョロキョロ見渡した。部屋の中にも薪はある。しかしこれは、暖炉用に分けてある薪である気がする。
「いや、そうではなくて。エルが用意してくれている間に、お風呂をある程度温めておこうと思いまして」
「気にするなって。魔王はどんと構えている方がいい」
「何故ですか?」
「そんなの、決まってるだろ? 魔族の代表で、世界を統括する力を持った主導者なんだから」
「いやですよ、そんな肩書」
エルの言葉は冗談のはずがない。エルは誰よりも真面目に、魔王には魔王としての役目を全うしてほしいと願っていると思う。まだ、エルと再会してから数日しか経たない。その中で私はエルのことを考えると、エルにとっての『兄』はどんな姿なのだろうかと悩む。エルの口から出る言葉は、魔王とは『寡黙』、『冷淡』、『冷酷』なのだ。どこでどうなれば、違う種族である人間とも手を取りあい、『平和』を主張するようになるのか。悩みが絶えないのは私よりもエルだった。それでも、兄がそう言うのであれば……と、エルは手を貸し知恵を貸してくれるのだ。そのエルに対して、私はどれだけ真摯に向き合えるだろうか。これからの生き様で、エルに恩返しが出来ればいいと思う。
「魔王が本気を出せば、あっという間に世界を乗っ取れるのになぁー。もったいなー」
「自分の身の回りのことだけで手一杯なのに、世界に手を付けたいとは到底思えませんよ」
「だからー! 俺がこの辺のことはやってるだろ? 魔王の手を煩わせないようにするためにさ」
「あ、そういう意味だったんですか?」
あっさりと言ってのけられ、私は拍子抜けした顔を見せてしまった。魔の抜けた顔を目の前にして、エルもまたぽかんと口を開ける。ふたり揃って、情けない顔だ。
「ぷっ…………」
「ふっ…………」
同時に吹きだし、私たちは笑った。目を細め、くしゃっとした顔になる。笑えるところのネタが一緒なのは、価値観が同じ要素のひとつ。
魔王が世界を統治すべきだと考えるエル。
魔王が世界を放棄すべきだと考える私。
真逆にベクトルを向けている兄弟だが、やはり『兄弟』なのだ。
家族という繋がりは、頑丈な鎖で結ばれている。
酸化し錆びて、ボロボロになったとしても、容易に切れるものではない。
「ハハハ……まったく。暢気な性格になったもんだなぁ、魔王。昔のお前が知ったら、どんな顔するんだろうな!」
「それは私も気になりますね。エルが語る冷徹な“兄”という存在は、知っておきたいものです」
「ばーか。昔のお前も、今のお前も。俺にとっては“兄”なんだよ」
「…………エル」
「そこんとこは、分かっとけ! いいな?」
「男前ですね、エルって」
「だから、なんでそうやってお前はいちいち臭いんだよ」
照れた顔をしながら、エルはフライパンをコンロの上に置いた。炒めるのは終わったのか。それとも、私の話が臭過ぎたのか? いや、自分自身では臭いセリフを吐いているとは思っていないし、どちらかと言えば臭いのはエルの方ではないかと感じている。それを口にすると、エルが熱くなってしまいそうなので、大人の対応を試みた。にこりと笑って、エルの隣に並んだ。フライパンの上で焼かれていた肉は、やはり昨晩の残りだと思われる。黄色の粉がまぶしてある。これがカレー粉と似た成分なのだろう。独特のスパイスの香りは、空腹な身体に刺激が強い。再度、情けない空腹感を訴える音が居間に響く。
「ハイハイ。今、皿に盛るから。そこ座ってろって」
「お皿を運ぶことくらいはさせてくださいよ」
「平和主義を押し付けたいなら、俺のやり方も少しは受け入れろってーの!」
「ぁ…………はい」
それもそうかと、私は若干シュンとしながら肩を落としてテーブルの席に着いた。エルは圧倒的に家事力がある。私も、9年間ひとり暮らしをしていた身だ。ある程度の家事は出来るつもりでいるが、この世界の記憶が戻っていない以上。エル以上の振る舞いは難しいと思う。
(今は、見て学ぶ時でしょうかね……これから、恩返しをしていきましょう。埋められない穴なんて、きっとありません)
「どうした?」
「あ、いえ。なんでもありません。お腹が空きすぎてしまって」
「ちなみに昔の魔王は、あまり食事はしてなかったんだ」
「何故でしょう?」
「自分に聞いてくれよ」
だんだん、ネタになりつつある私の記憶喪失。エルがそうして接してくれるのは、ありがたい。悪態をついたり、ツンとした態度をしてみせたりするエルだが、全ては愛情あっての行動。エルほど優しいひとは、この世界に居ないのではないかと思わせてくれるほど、心が清らかに出来ていた。
テーブルの上には、木製の歪な平べったい皿。その皿には、先ほどエルが炒めていたカレー肉が盛りつけられている。野菜を食べる習慣はないのだろうか。炭水化物もなさそうだ。お米を作るほどの土は、この辺りで今のところ見かけていない。小麦くらいなら、育てられるかもしれない。そうすれば、パンを焼いて食べることが出来る。もちろん、手作りパンなどチャレンジしたことはない。だからこそ、一緒にゼロから始めるのはアリかと思われる。
「さ、食べようぜ。俺も腹が減った」
「はい。それでは……」
私たちは揃って手を合わせた。生命に感謝し、料理してくれたエルに感謝し。私は心の中で『ありがとう』を伝えた。




