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平和主義を貫く覚悟だけは、伝わっていたなら幸いだ。ファーストコンタクトで、すべてを理解されたいとも思わず、楽観的に考えていない。彼らをまとめたいと考えても、私自身が彼らを知らなさ過ぎたのだ。彼らからすれば、私は異教徒のように映るだろうし、異端児とも捉えられるかもしれない。
彼らと共に歩み、人間界とも結託するには時間が必要だと改めて感じた。私は魔王としての力量を試されるのだ。魔法陣に、簡単や難しいなどの難易度があるのかすら分かっていないが、ひとつやふたつくらい、扱えるようになってから再度彼らとコンタクトを取りたいと覚悟を決めた。
「エル。閉会しましょう」
「あ、あぁ……」
エルは私の前に出て、窓に向けて再度手をつきだした。赤い5つの光がほわんと柔らかい輝きを放つ。窓を閉じる作業に入ったのだろう。
「私は、努力します。まずは魔法陣を会得します。その後にまた、お話合いの場を設けさせてください」
「接続を切る」
魔族たちに伝わったかどうかは分からない。ただ、直ぐに批判的意見が飛び交わなかっただけ、手ごたえを感じてもいいだろうか。エルが広げていた手を閉じていく。すると、赤い窓は収拾し、消えていく。窓を消した後、5つの灯をひとつひとつ指で差していく。すると、すべての光が消えてなくなった。もともと居た岩場で、エルと私だけが立っている。他の魔族の姿はない死、気配も完全に消えていた。
はぁー……長い溜息がエルから聞こえた。常に緊張感が走り、険悪なムードだったせいで、魔法陣を展開していたエルには、疲労が重なってしまったのかもしれない。私はすぐにエルの方を向き、頭を下げた。
「すみません、エル。せっかく展開してくださったのに……力不足でした」
「頭下げんなよ。俺は別に、気にしてない。十中八九、こうなるだろうなと思っていたしな」
「読まれていましたか」
「俺が魔王の弟でなくたって、そう感じていたはずだ。だいたいにして、俺だって戦争放棄だの、人間と争わないだの、“嘘だろ!?”って思ってるんだから」
「確かに……そうかもしれませんね」
エルは、おでこをだしていた前髪から赤色のゴムをとり、いつものように前髪を下ろした。上げていても綺麗な顔だったが、前髪があった方が私は落ち着く。この方が可愛いし、似合っている気がした。たまたま、初めて会った時のエルが前髪を下ろしていたため、慣れているという説もある。
静まり返った辺りを、私はゆっくりと見つめ直した。印が結ばれていた場所にある象形文字。これが読めるようになれば、魔法陣を展開することも出来るようになるのだろう。
じっと文字を見ていると、エルは不思議に思った様子で私の顔を覗き込んで来た。
「魔王、どうかしたか?」
「これが読めるようになれれば……と、思っているんですけどね」
「読めなきゃ魔法陣の展開は始まらないからな」
「そうですよね……」
「…………ただ」
「?」
エルは右手の指、人差し指で頬をポリポリと掻いた。視線は伏せて何かを考えている。その視線は、次に窓が出来上がっていた中心部に向けられる。
「どうされましたか?」
「魔法陣を、知らないんだよな?」
「えぇ、知りませんよ」
「読めないんだよな?」
「読めません」
「じゃあ、なんでこのレキスタントグラフが反応して光を増したんだろ?」
エルの問いかけに対する答えを、私は用意できなかった。ただ、窓の向こう側の魔族たちも、私が読経をはじめてからしばらくしてどよめきはじめていた。魔力がどうだと、話していたのを思い出す。
身体に何かが変わったことが起きた様子はない。強いて言えば、読経することで心身が落ち着き、身体が軽くなったような錯覚に見舞われたくらいだ。魔力を扱ったという自覚はまるでない。気のせいではないかというのが、私の見解だ。
「レキスタントグラフは、魔族なら誰にでも展開できるんですか?」
「中位魔族以上であれば、誰にでも出来る」
「中位? 魔族の中に位があるんですね」
「あるぜ。魔王族はみんな上位魔族。中には、魔王の素質を持たない魔族に中にも、上位魔族が居たりもするけどな」
「ランク付けがあると、余計に争い事は増えそうですね」
同じ種族の中で、そういった位置づけをすると、揉めるものだ。より上に、より優位な立場にのし上がりたいと考えたものが、反乱を起こす可能性だって出て来る。皆が平等であることに、意味がある。
今度は私が深く息を漏らした。長く吐き出した空気。吸い込むと冷たい空気が肺を満たしてくれる。影は伸び、気づけばもう夕方だ。一日が早く過ぎすぎている感じがして、驚いた顔をした。
私は、物事を難しく解釈しすぎていないだろうか。自身の行動を振り返ってみた。人間と争わない、魔族間でも争わない。その信念を貫く事には意義がある。私が命を代償にしてでも叶えたい平和だ。しかし、強引すぎたのではないかという反省もした。
「エル」
「ん? どうした?」
私の中に、今後のすべき道が幾つか見えていた。そこで、エルにも聞いてもらおうと話しかけた。エルは、いつか私から話しかけて来ると踏んで、待っていたように見える。すぐに聞き返して来た。
「平和主義を貫くためにも、ハンガー屋さんを開こうと思います」
「は?」
「人間族との間では、上手くいくかは分かりません。ですが、魔族間だけでなら……まずは、ハンガーを通してコミュニケーションを取りたいと思うのですが。どうでしょうか?」
「変だし妙な提案だと思う」
「そうですか?」
エルは、『またか』とでも言いたげに、息を吐いた。嫌気がさしているようには見えないが、やはり私は回りくどいことをしているとは感じているのだろう。あまり乗り気には見えない。
エルにとっては、力でねじ伏せて欲しいところがあるのだと思う。エルの知る兄は、そういった魔王だったからだ。
「それが役に立つかどうかすら、俺には分からないからな」
「まぁ、そうかもしれませんけど…………では、とにかく試作品をひとつ作りましょう。エルが使ってみて、使いやすいものを量産してみたいと思います」
「作るだけなら、タダだしな。やってみたいなら、やってみろよ」
「はい。ありがとうございます」
話がまとまったところで、私はふと。先ほど読経をしていた状態で、シュルシュルシュルという音、お鈴の音色が聞こえてきたことを思いだした。あれは、いったい何だったのだろう。誰かが巡礼しているような音に聞こえた。シュルシュルシュルは、まったく見当がつかない。