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しかし、目を閉じたのもつかの間のこと。少年は再び目を見開き、やや釣り眼の赤い瞳を光らせた。その瞳の裏側には、何故か『歓喜』の色が浮かんでいる様に見えるのは、私の気のせいだろうか。風がひゅるる~と吹くたびに、見慣れない紫の髪は変わらずにゆれる。
黒い雲はどこへやら。ここには、私が日本国内を歩いてきて、一度も見たことのないような景色が広がっている。泉の色も然り、小鳥のおしゃべりも、あまり聞きなれない声が多い。ピンク色の蝶々も、初めて眼にした。私が世間知らずのだけかもしれないが、此処は日本ではない。私はそれを確信していた。そして、極楽浄土でもないのかもしれない……という考えも、頭の片隅に生まれている。
「やっぱり、魔王じゃん!!」
「……ん?」
何を言うのかと思いきや、少年は再度『魔王』という単語を口にした。それも嬉しそうだ。少年がなぜ、急にテンションが上がったのかを私は察することが出来ない。そのため、大人しく次の言葉を待った。少年は意気揚々と弾んでいる。
「イチルヤフリート・ヤイチ! お前の名前じゃないか、魔王!!」
「魔王…………魔王? 私が?」
「あぁ、いいからいいから。またそうやって、俺を騙して笑いたかっただけなんだろ。ほら、ヨウ国軍に向けて攻撃態勢とるぞ!! あいつらに血の雨を見せてやろうぜ!!」
「それは穏やかではないですね」
やれやれと私は息を吐き、またゆっくりとその場に座り込んだ。今度は体操座りではなく、座禅を組む。ふーっと息を吐くと、肺の中から外へ二酸化炭素が吐き出される。限界を感じるまで吐き続けると、酸素を求めて今度は外の新鮮な空気を肺にたっぷりと取り込む。酸素が血中に取り込まれていく感覚を、確かめているようだ。
草の香りが心地よい。木々が揺れ、擦れる度にファサファサという音が響く。自然豊かなこの世界、悪くはない。気温も程よい。温かく、時折吹く風は涼しいくらい。冷たい空気の流れは、どこからなのだろう。確かにここは、山々に囲まれた、谷のようにも見える。山から冷たい空気が下りてきているのだろうか。
のんびりと時間を使おうとしている私を見て、少年は一度地団駄を踏んだ。私の左腕を再び引っ張る。私は顔を上げ、少年の眼を見た。再び少年の眼には、怒りの色が浮かんでいた。気分がコロコロ変わるところは、とても子どもっぽいと感じさせる。それも、少年の良さである。
「だーかーら! 何余裕ぶってんだよ、魔王。放っておけば、ヨウ国の奴ら。構わずこっちに侵略してくるぞ!? そんなことになってみろよ。他の魔族連合の奴らに顔向けできない!!」
「キミのいう魔王というのが、私のことなんでしょう?」
「そうだぞ? イチルヤフリート・ヤイチ。お前の名前だ」
「それなら私は…………やるべきことは、ひとつのようです」
「お!! やっと、やる気になってくれたか!?」
「えぇ…………まぁ」
歯切れの悪い言葉で、この場を誤魔化す。
私は現実世界で雷に打たれ、おそらくは絶命。その後、この世界に転生したのだとしよう。つい先ほどまで、私は『弥一』としての人生を歩んでいたし、その記憶がしっかりとある。しかし、この『魔王』としての姿も、少年にとっては正しい姿なのだとする。そうすると、私はこの世界でもすでに何年も生きてきたことになる。時間軸がズレ、そのような現象が起きている可能性が高いが、私は人間と争いをする『魔王』であるとすれば、やるべきことは今のところひとつしか思い浮かばない。私は再度立ち上がった。
「ヨウ国のもとへ、連れて行ってください。少年」
「おう!」
「あぁ、その前に……少年。あなたの名前をうかがってもいいですか?」
「なんだよ。それも抜けてるって? 長いことどこかに出かけていて、うっかり忘れたってか? 弟の名前くらい、把握しとけよ」
(あぁ、この少年は私の弟なのですね。弥一は一人っ子でしたから、新鮮なものです)
内心で頷く。人間としての人生では体験できなかったことが、魔王などという存在が許される世界において、新しく体験できることは不思議な感覚だ。私は口元に笑みを浮かべた。
「俺はエルディーヌ。エルって可愛がってくれてるだろう?」
「そうでしたね」
まったく記憶にないが、それを言えば彼はまた面白くない顔をし、叫び出してしまう。ここは静かに事の次第を見届ける方が賢いといえよう。私は少年を受け入れた。
「さて、行くとしましょうか」
「おう!」
立ち上がり、歩き始めた私を見て、少年……エルは、再度私の左手を強く引っ張った。今度は何だろうかと首を傾げる。
「バカ。そっちじゃねぇだろ。ヨウ国は反対。あっちだ!」
「そうでした。つい、長年眠っていたようですので。感覚がずれてしまっているんですよ。ヨウ国まで、案内してもらえますか?」
「やれやれ、困った魔王だぜ」
「すみません」
「方向音痴もほどほどにしておけよ?」
悪い気はしていないようで、エルはニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべている。ここまで顔に出ると、可愛らしいものだ。仔猫のような、仔犬のような。小動物に見えるエルを、私は愛しいと実感した。もちろん、私の弟だというのであれば、兄弟の仲も深めていきたいところだ。
私がこのような異世界に転生してしまったということは、まめもどこかで生まれ変わっている可能性もある。まめが、そこでも孤独を感じてなければいい。私はそれを強く願った。
天気が崩れそうな中、山道を上ることを選択したのは私だ。私のせいで死んでしまったとすれば、私はそれ相応の罰を受けなければならない。私はその罰を、甘んじて受けよう。
その、一歩ともなる選択。
私はそれを、『ヨウ国』といわれる人種の前で、宣言することを決めた。




