26
中にあった風呂は、五右衛門風呂だった。外から薪で火を焚いているのだろう。掛け湯をしたかったが、洗面器などはない。礼儀に反しないかと心配だったが、そのまま湯船に浸かった。程よい湯加減で、気持ちがいい。いつの間に水を汲み、薪を焚いてくれたのだろう。私がひとり眠っている間に、エルはどれだけの家事をこなしてくれていたのか。ありがたみを噛みしめ、肩までしっかりとお湯に浸かる。ぽかぽかと体の芯まで温まったのを感じる。
水面に映るのは、魔王としての私の顔。赤い眼が揺れ、紫の髪は湯の中でゆらゆらと流れる。角が生えているというのが、未だに慣れない。頭を掻くときに、角が手に当たり不思議な感覚だ。
「魔王―。どうだ? 湯加減」
脱衣所の廊下扉は閉めて来た。そこから、エルの声がする。そちらに向かって私も応える。
「ちょうどいいです。気持ちがいいですよ」
「そっか! そいつぁよかった!」
「一緒に入りますか?」
「遠慮するー」
後の句を述べようとしても、既にそこにはエルの姿はなかったらしい。私の言葉は風と共に消えた。
今も薪を焚いているのか。早めに交代しなければ、エルが湯船で疲れを癒すことの邪魔をしてしまう。身体を洗うためのヘチマ……らしきタワシは置いてあるが、お湯を掬うものも無いので、洗わずに外へ出る。風呂の後に掃除をするとも言っていたので、タワシは身体を擦る用のものではなく、お風呂掃除の道具である可能性もあった。
ガラガラガラ……引き戸を開ける。脱衣所には、タオルが置いてあった。エルが先ほど用意してくれていたのだろう。ありがたくそれを借りて、身体の水気を取る。それから服に着替えて、バスタオルで髪の毛をターバンの要領で束ねた。
完全には乾いていない状態で、私は脱衣所を出るために扉を開けた。ドアノブを回して外へ出る。出て右には、開かずの扉……いや。開けてはいけない扉がある。気にはなるが、エルが嫌がることを好んでするような悪戯心は私にはない。
「お、もう出たのか?」
「お先に失礼しました。ありがとうございます。温まりました」
「それはよかったな。湯冷めしないうちに、寝ちまえよ。まぁ、散々寝た後だし。眠れるかは分からないけどさ」
「そうですね……でも、割と眠いんですよ」
お湯に浸かって癒されたからか。それとも、私が魔王としての力に振り回されている結果なのか。私には判断がつかない。眠いのだから、寝てしまうのがいいのかもしれない。ただ、どちらにせよエルのお風呂が終わるまでは、起きているつもりだ。私だけさっさと温まり、勝手に寝るのは都合がよすぎる。
「エルが上がって来るまでは、起きていますよ」
「え? なんでだよ。こんな居間に居たら、冷えるぞ」
「たとえ冷えたとしても、心はあたたかいので大丈夫です」
「は? なんだその臭い発言。変なの」
「はは、そうですか?」
私はつい面白くなり声を出して笑った。確かに、自分自身でも臭いセリフを吐いたものだと思う。自然とそんな発言を引き出すエルの存在感は、大きい。私が夢幻島で覚醒したあと、こうして生きていられるのは間違いなく、エルのおかげだ。
この先も、様々な局面に遭遇するだろう。その度に、選択を強いられることになると思う。それを乗り越えるには、エルの存在とエルの助言は必要不可欠な要素だ。
「変な魔王だ。じゃ、俺も風呂入って来るな?」
「えぇ、いってらっしゃい。ゆっくりしてくださいね」
「早めに出るさ。お前が風邪を引く」
「優しいですね」
顔を赤く染めながら、エルは右手で頭を掻き、脱衣所に向かって歩いていった。私はひとり居間に残り、椅子に座る。何か、読み物でもあれば、読みたいところだ。エルの言葉、ヨウ国軍の言葉が理解できるという事は、私はこの世界での教養があるということになる。魔族と人間が同じ言葉を使っているところにも、『太陽』を崇めていた名残があるのかもしれない。
ガラガラガラ。引き戸の音がした。エルもきちんと風呂場へ移動したようだ。私は辺りをキョロキョロと見渡す。基本的には丸太が組まれて作られている小屋。キッチンやふろ場には、金属製の細工もあった。木材と簡素的な金属材を織り交ぜて部屋を作り込んでいる。ある程度の文明が築かれているのは見て分かる。
居間には書物がないようだが、魔王の自室として使わせてもらっている部屋には、本があった。術式の資料本を手に取ったのが、紫色のカバーの本。手の取ったときに、鱗粉のような粉がキラキラと舞ったのは記憶に新しい。ただ、その様子をエルは複雑そうな目で見ていたのだ。必ず、本と私との間には関係性があるのだろう。魔王にしか開くことのできない書物。また、夜にこっそり目を通してみることにしよう。
クトゥクトゥクトゥ。
夜を知らせる鳥の鳴き声。
今夜も安定して、夜の夢幻島に響き渡る。
ガラガラガラ。
エルが風呂場に入ってから、だいたい15分が経過すると、引き戸が開く音がする。私はひょっこりと顔を覗かせた。廊下の先からは、しっかりと身体を黒の服で隠している。緑の髪はぺったりと頬にくっつき、顔のラインがしっかりと分かる。魔王の髪は紫で、魔族は緑なのか。赤い眼が同じ輝きのため、仲間であることは分かる。
「もう出たんですか?」
「それ、さっきの俺のセリフな」
「そうですね」
くすっと笑うと、エルも笑顔を向けてくれた。
「寒くなかったか?」
「ちょっとだけ、肌寒いですね」
「ほらみろ。風邪引いても知らないからな?」
「気を付けます」
そういうエルには、個室がない。この居間の片すみにある簡易ベッドで転がっている。隙間風が冷たいだろうに。やはり、私のベッドはダブルサイズ。一緒に寝た方がよいのではないかと提案する。
「エル。私の部屋で寝ませんか? 居間では、それこそ風邪を引いてしまいますよ?」
「俺は今までこの暮らしをしていて、風邪なんて引いてない。大丈夫さ」
「ですが、相当冷えていますよ? エルもベッドの方が、休めると思うんですけど……」
「気持ちだけでいい」
「……そう、ですか」
どこか、しゅん……としてしまう。そんな私を見て、エルは気を利かせてくれた。ポンポンと私の肩を叩く。顔を上げれば、エルがにっこりと歯を見せて笑ってくれた。