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二十七年間、保ってきた平凡な日本人の容貌から一変。どの国でも見ないような髪色に瞳、そして角。私はこれらを前にして、何を見出せばいいのだろうか。ピピピピ……という高く澄んだ声は、小鳥のさえずり。
私がのぼっていた山道の麓に、このような泉などない。私は雷に打たれ崖から転落。そのまま極楽浄土にたどり着いたと結論付けるのが早い気がしてくる。気がかりなのは、しっかりと抱きしめていたはずのまめの姿がどこにも無いことだ。まめは、生き延びたのだろうか。地上世界で助かり生きていてくれることを心から願う。それと同時、まめをひとり残し先に逝ってしまったことを申し訳なく思った。
「まめ…………」
美しすぎる泉の水面は、揺れもしない。それなりの広さはあるが、生物は宿っていないのだろうか。生物が住めないほどの酸性なのか、アルカリ性なのか。手を伸ばすのを躊躇ってしまう。透明度は確かに低い。水色のアクリル絵の具を溶かしたような水色が続く。そのため、映りこんだ私の姿はハッキリと浮かび上がる。いや、本来ならば純度の高い水の方が姿を反射し、写し込む。それならば、そこに矛盾が生じる。
「はぁ……」
溜息が止まらない。死んでしまったことを嘆いているのではなく、まめを独りにしてしまったことで、胸が痛むのだ。
その場にちょこんと体操座りをしてみた。うねりが強い紫の髪は、風に揺れる。慣れないその感触に私は更に俯いた。赤い眼の瞳孔は鋭く、まるで獣のよう。極楽浄土で、私は獣にでも成り変わってしまったのだろうか。
仏も僧侶も、極楽浄土にたどり着いた後の姿など、教えてはくださらない。その世界を見て、戻って来た者が居ないからだろう。私がこれで、元の世界へ戻れたならば、私は生き証人としてこの体験を語りたい。
もっとも、それが叶うはずのない願いだということは分かっている。
私はしばらく、地面にお尻を付けた体操座りを続け、泉を覗き込んでいた。小鳥のさえずりだけではなく、時折ビョウビョウという不思議な声も聞こえて来た。ピンク色の蝶々も優雅に舞を披露する。しかし、それらに目を奪われることなく、私は沈黙していた。
独り、泉に置き去りにされ、時間がある程度経過する。不思議とお腹は減るものだ。そういえば、まだ昼ご飯を食べていなかった。死んでしまった霊体でも、空腹になるものだったのか。新しい発見だ。生きている者が、死者に御膳を用意することにも意味がきちんとあったことが証明された。温かいご飯を供えることで、死者はその香りを楽しむとされる。
しかし、私に御膳を供えてくれるものは居ない。そのせいか、私の腹は一向にみたされない。
グー…………。
情けないほど大きな音が、腹から鳴る。
誰かに聞かれることもなく、私はこのままでは飢え死にしそうだ。
死んだ後に、更に死ぬなど……よくある話なのだろうか?
「仕方ない。食べられそうなものを探すとしましょう」
私はゆっくりと腰をあげた……それと同時くらい。泉の先が揺れ動いたように見えた。他にも死者がたどり着いたのか。私はそこに視線を送る。仲良くなれるといいのだが。私は真っ黒のローブに着いた土をパッパと払ってから、声を掛けた。
「やぁ。キミも何か不運に遭い、極楽浄土へたどり着いた仲間かな?」
「はぁ?」
声は若い。いや、若いというより少年だ。高く響きのある声を持った少年は、黒の式典服のような、私の物よりは簡素なローブを身に纏う。ショートボブほどの線が細く、やわらかな緑の髪を揺らし、私のすぐ目の前まで駆けつけた。耳の上あたりには、やはり黒の角がある。これもまた、私の物よりは小さい。眼はそっくりで、瞳孔の鋭い赤い光を放っていた。その赤い眼は、くりっとした円らなものだが、若干の釣り目である。そこがまた、愛らしい。
「魔王が行方不明で、とんだ問題が起きてるってーのに! なんでそう悠長に構えているんだよ!」
「魔王? 行方不明?」
少年は開口一番、何を言いだしたのだろう。つんけんとした顔と言い草で、私に喰いかかって来る。若干、人間に懐きにくい猫に見えた。小動物は可愛い。
「何をとろくせーこと言ってんだよ! ほら、行くぞ!!」
「どこへ?」
「どこって、…………そんなの、ヨウ国に決まってんだろ!? 魔王が不在ってのがバレた途端に、奴ら。でかい顔して攻め込んできやがった!! 許してはおけないだろ!?」
「えぇ、と」
私は右手の人差し指で、頬を数回掻いた。少年は私の背丈……正確に言えば、この世界での姿。百八十センチほどありそうだ。それよりずっと低く、百五十センチそこそこしかない。本当に小童なのだろう。血の気の多そうな眼をして、私の左手を掴んだ。その力は、姿からは想像つかないほど強い。
「キミは、この泉の近くに住んでいるのかい? よかったら、周辺を案内してほしいんですけど。なんせ、私はつい先ほど此処に召されたばかりでして」
「…………は?」
「あぁ、ついでに。お腹も減ってしまったんですよ。食事処があれば、そちらも教えていただけると嬉しいです」
「ま、待て……お前、何言ってんだよ」
「何って…………何か、可笑しなことを言っていますか?」
少年は、ワーワーと叫んでいた口を閉じた。そして私を、怪しんだ眼で見つめて来る。
「お前…………イチルヤフリートじゃないのか?」
私は首を左右に振った。
「私は、弥一。どうやらキミは、誰かと人違いをされているようですね」
私の言葉を受け、少年は唇を少しだけ開けた。そのまま眼を見開いて硬直する。まるで、これが『悪い夢』なのではないかと、ごくりと乾いた唾を呑む。そして、現実から目をそむけるように、猫のような眼を閉じた。