19
どこまでも広がる青い空に向けて、ぐっと腕を突き上げ背伸びする。穏やかな風が吹けば、泉から不思議な香りがしていることに気づいた。若干甘い、ほんのりつけた香水のような匂い。いや、香水ほど強い刺激はないか。ユリやランなど、香りが強い花の匂いがした。昨日もこんな匂いがしていただろうか。自分に起きていることが整理出来ない状態で、すぐにエルに導かれて海岸へ走ったせいか。まるで気づかなかった。
「この辺りに、香りの強い花でも咲いているのですか?」
「あー……この甘い香りのことか? 冬が近づくと、匂いを発する植物が近くにあるんだ」
「泉からの香りではないのですね」
「泉は無臭だ。でも、うっかり飲んだりするなよ?」
「何故ですか?」
言われなくとも、飲みたいとは思わなかったリクトルの泉だが、エルが止めるのであればきちんとした理由がありそうだ。飲んだら毒だとか、そういうことだろうか。
「これは……魔族と魔王族が代々守って来た泉だからだ。うっかり口でもつければ、罰が当たるぞ」
「そういう意味ですか」
毒ではなかったらしい。
私は内心、どこかでホッとした。魔族に対して、偏見を持っていたかもしれないと心改める。
「どういう意味だと思ったんだよ」
「いえ、毒とか呪われるとか……そういういわくつきの水なのかと思いまして」
「ひでぇなぁ。そんな卑怯なものを用意するのは、非力な人間種族くらいだぞ」
「その解答は、なんだか頷ける気がします」
「だろ?」
エルは私の言葉に納得したようだが、私がとても人間的であり、人間寄りの思考を持っていたことは、あからさまに出さない方がいいと考えた。言葉を発しようとしてから、口を閉じる。物事は、思い付きで話すよりも、熟考してから口にする方が賢いと言える。
「この泉には、どういった用途があるんですか?」
「見てみろよ」
「?」
泉を指さすエルを見て、私は視線を水面へと向けた。そこには、紫の髪を伸ばし、赤く光る眼を持った、人間離れした姿の魔王が映りこむ。ついでに、黒い角もしっかり見える。こうして向き合うと、本当に私は人間ではないのだということが、ハッキリと窺える。さて、この姿を見ることは出来るが、鏡の役目ということで合っているのだろうか。
「ただの水より、姿を映し出すことが出来るだろ? これは、異世界と繋がっているっていう伝説がある」
「異世界?」
「伝説だ。あくまでも、伝説。結局、異世界を見た者も、異世界へ行った者もいないんだから」
「…………異世界」
「なんだよ」
異世界=日本。
イコールで結ばれる方程式が、突然現れた。
私が生きてきた世界は、本当に存在していたのかもしれない。
そして、運が良ければ……帰れる可能性も出てきた。
「…………魔王?」
「あ、いえ。何でもありませんよ」
エルには黙っておこう。静かに頷くと、私はエルの顔を見た。キョトンと不思議そうな顔をして、赤い眼を揺らす。魔族特有の赤い眼は、ルビーのような深い紅色をしている。常人離れした美しい顔立ちも、エルがいうように『美しい』ものだ。私は、アメジストのような紫の髪を風になびかせ、薄い唇には笑みを浮かべた。
「小屋へ戻りましょう。なんだか、お腹が減ってきました」
「飯にする?」
「そうしたいですね。“弥一”の頃は、そこまで空腹には見舞われませんでしたが……魔王となると、どうもお腹が空いていけませんね」
「“ヤイチ”の頃って、どういう文法使ってるんだよ。今だって、ヤイチだろ?」
「ややこしいんですけどね、そこ」
ははは……と笑いながら、小屋への道を歩む。昨日案内されただけだが、そこまで複雑な道は今のところないため、しっかりと覚えていた。物覚えが悪い私でも記憶して行けるのはありがたい。ちょっとした可能性があるとすれば、私が本当にこの地に生きていた魔王で、頭では忘れてしまっている記憶を、身体が覚えている説もある。
「なんにせよ、腹が減るのは健康な証拠だ! でも、家にはもう食べ物ないぞ? その辺で調達しながら帰ろう?」
「ミンヨの実なら、まだまだありそうですね」
「昨晩ミンヨで、昼飯もミンヨ? 飽きないのか?」
「なかなか美味しかったですよ、ミンヨ」
「…………俺の知る魔王も、ミンヨは好物だった」
「そうですか」
エルは照れた顔を隠すように、左手で顔を半分覆って、小指で頬を掻いていた。魔王と一致する場面は、時折ある。魔王として私が存在していた時期があるのならば、兄として、記憶を取り戻したいとも思う。ただ、魔王としての世界線と、日本人であった世界線がどう交錯し、どう平行線を辿っているのか。その仕組みが分からない限り、私は上手く立ち回れない気がする。
小動物のようにコロコロと表情を変えるエルを見ていると、大切にしていた『まめ』のことを思い出す。雷に打たれたのが私だけであり、まめは無事だといいのだが。
「ミンヨ以外を、今日は食べましょうか。記憶をたぐるキッカケになればと思います」
「それは賛成だ。でも、今から狩りに出かけてたら、腹が余計減るだけだしなぁ」
「木の実は他にないんですか?」
「そうだなぁ……ちょっと遠回りすれば、クルックの実が採れるかもしれない」
「かも?」
ミンヨの実と違い、エルの反応はあまりよくない。私は歩きながら軽く首を傾げた。
「旬な時期じゃないからさ。あるっちゃあるんだけど、味は落ちるかもしれない」
「それもまた経験ですね。クルックの実にしましょう?」
「オッケー。じゃ、左から回ってくぞ」
真っすぐ歩いていた道から外れ、ちょっとした獣道に入った。それでも、まったく通ったことのない道ではないらしく、土が擦れた痕がある。
黒のブーツは底が厚い。靴の裏には、硬い金属が埋め込まれている。これで、アスファルトなどで舗装されていなくとも、多少の荒地であったとしても、歩くことは容易くなる。金属があるならば、針金だってどこかにあるだろう。近いうちに調達し、ハンガーを作りたい。エルと暮らすにあたって、小屋の周りを改善するのはいいことだ。メモ用紙をもらって、改善リストを立てるのもよさそうに思える。
異世界から日本へ戻れることがあるのか、ないのか。今のところは判断がつかない。ただ、私は今、夢幻島に居ることだけは確かな事実。それなら、存分にこの地で生き抜くために、弥一の知識を使っていきたい。