16
5分間ほど、こすりつける服の部分を変えながら、私はごしごしと洗った。あまり力を入れたら服が傷みそうだと思い、力加減には気を付けた。弥一は中肉中背で力がそこまで無かったが、この魔王の姿は力が強く入る。自分の拳を握って見ただけでも、その違いは明らかだ。
「そろそろいいだろ。洗い終わったらしぼる」
「しぼる、ですね」
それは、魔王の力があれば簡単だろう。洗濯板を桟橋に置くと、両手で服を握る。そして、強くぎゅーっとねじって絞った。だだだだー……と水が流れ落ちる。やはり簡単に水を絞り出すことに成功。何度かそれを繰り返すと、ある程度の水分は外に出せた。エルは私のローブを持って立ちあがり、私はエルのローブを持って立ちあがる。
「ほら、干しに行くぞ」
「はい」
のどかな天気。やわらかい風が吹く中、私とエルは家の方に向かって歩き出す。小屋の周りを気にしてなかったが、入口とは反対の方に物干し竿が立てられていた。洗濯バサミやハンガーがないところを見ると、直接掛ける仕様なのだろう。針金でもあるならば、それを受かってハンガーを作ると便利かもしれない。私の中に残る日本人としての知識を、多く活用できそうだ。
物干しの高さは、エルの背丈でも干せるくらいの高さ。地面から170センチほどの辺りで棒が横に掛けられている。よいしょと、エルは私のローブを上にかぶせた。二着分干せばいっぱいになるくらいの横幅しかない。私も自分が持っていたローブを干した。太陽も燦燦と照っている。これなら、夕方までには乾くだろう。この世界も24時間で1日が経過するならば……の、仮定は入る。
「これでよし、ですか?」
「そうだな」
「次は、何をしますか?」
「やけに積極的だな。こんな雑用、いつだって俺だけの仕事だったのに」
「昨日から心を入れ替えたと思っていただければ幸いです」
「確かに……昨日から、魔王はおかしいからな」
そういいながらも、エルは嬉しそうに笑っていた。それを見ると、安心する。私は魔王としての立場、エルの兄としての立場を今後守って生きたいと実感した。人間からすれば、魔族であるエルや、魔王である私を受け入れがたいところがあるのかもしれない。しかし、私もエルも、むやみに人を襲うような性格ではない。それを、言葉だけで発信しても、きっと人間は受け入れてくれないだろう。長い年月をかけながら、行動で示していくほかない。それでもいつか、努力が報われることがくると私は信じている。なんといっても、私もつい先日までは『人間』だったのだから。
それにしても、本当に気持ちがいいほどいい天気だ。私は空を見上げた。雲もほとんどなく、青い空が広がっている。
「そういえば……聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「まめ、という名前の犬か……何か。この世界に居ませんか?」
「まめ?」
「えぇ。私が以前大切にしていた仔犬なんですけど」
「さぁな」
エルには、まったく心当たりがないのか。あっさりとした返答で断たれてしまった。私は少なからず残念に思う。一緒に雷を受けたと思われるまめが、この世界に居ないということは、まめは極楽浄土に届かなかったのか。それとも、まだ日本で生きているのか。生きていてほしいが、ひとりで山に残されては、野犬になってしまう。ごはんを得る事はできるだろうか。小さなまめは、ひとりで大丈夫なのか。
「……まめってのは、大事なペットだったのか?」
「ペットというよりは、私の大切な家族だったんですよ」
「魔王にはペットも居ないし、家族は俺だけだろ?」
「まぁ、その辺のことは細かく追及しないでいただけると嬉しいです。私にもまだ、答えが見えていないので。諸々のことが明確化しましたら、エルにも詳しく話しますね」
「別に、構わないけどさ」
言葉の割には、しょげているような印象を与える。エルにとって、魔王は唯一の家族だったのだろう。この小屋にはあと1部屋あるが、住んでいる様子はない。それに、閉ざされているようで、エルが部屋に近づくことさえ警戒している。何かしらの重要な意味が隠されているのだろうが、エルが嫌がるようなことを無理強いしてはいけない。誰もが幸せで、誰もが平等な世界を実現することは難しい。私は万能なる神でもない。それなら、せめて家族だと紹介された弟だけでも、まずは幸せにしたいと考える。ひとりを幸せに出来ないような器では、世界平和など到底無理だろう。
「エル」
「ん?」
「この辺り一帯を、歩いてみたいのですが……エルも来ますか?」
「行く。もしかしたら、ヨウ国軍隊が潜んでいるかもしれないからな。記憶が抜けてる魔王ひとりを行かせるのはよくない」
「ヨウ国軍は、キルイール隊長が部隊長である限り、手荒な真似はしてこないと思いますよ」
「なんでまた、ヨウ国軍を擁護するんだよ」
ぷーっと頬を膨らませて、面白くないという顔を全面に出して来た。可愛らしい。そんなことを言えば、もっとふくれっ面になるだろう。齢40にしてこれは、もともと心優しく良い子なのだろうという裏付けとも思える。優しい年の取り方を私もしたい。
「ヨウ国軍を擁護しているつもりはないですよ。私としては、弟であるというエルをこの世界では一番大切にしたいと思っています」
「ほんとかよ」
「だから、泉で倒れていたのかもしれません」
「? どういうこと?」
目を細めると、私は左手をエルの頭に乗せた。そのまま優しく髪を撫でる。恥ずかしそうに頬を赤く染めながらも、エルは私の撫でを素直に受け取った。
「私には、あの瞬間より前の記憶がありません。どんな魔王だったのかも、覚えがないんです。人間のことも、魔族のことも、魔王族のことも、よく分かっていません」
「そうだな」
「でも、すべての記憶が消し飛んだからこそ、物事をフラットな視線で見ることが出来るようになった気がします」
「へぇー……」
エルは一度、視線を私から外した。その表情は、どこか複雑なものを抱えているようで、言葉の切れも悪い。それを今、追及したいとは思わない。今はまだ、言い出せないことがあっても、信頼関係を築いていくうちに、話してくれるようになるかもしれない。そのときを待てばいいと、私は納得している。
「とにかく。魔王をひとり散歩に出しては良いことなさそうだからな。俺もついていく」
「お願いします」
「そうと決まれば、早速いくか。陽が陰るまでには帰って来ないとな」
「そうですね。洗濯物も取り込まないといけませんし」
「そういうこと!」
エルはパッと花が開いたような顔をして、元気よく歩き出した。その後に続いて、私も歩き始めた。袖を切り落としたおかげで、歩きやすい。しかし、太陽の光が若干痛い。肌の色はとても白いことを考えると、陽に弱い肌なのかもしれない。紫外線はどの程度降り注いでいるのだろうか。
夢幻島の夜が冷えることは、昨晩体験している。陽が落ちる前に帰らないと、風邪でも引きそうだ。