15
しゃがんだところで、手を川へと伸ばす。澄んだ川で、透明度が高い。この辺りには、川を汚すような設備はないのだろう。小屋の中にも、生活排水が出るような仕組みは無かった。トイレも当然、水洗ではない。慣れれば気にならないだろうが、現代社会の日本人として育っていたはずの私には、少々の抵抗はある。しかし、郷に入れば郷に従え。電気設備のない世界で生きていくにあたって、発電を考えるよりは田舎暮らしに慣れた方が早そうだ。環境を守っていくことも大切なことである。
「冷たいなぁ、相変わらず。これから冬になる。もっと寒さは厳しくなるぜ」
「どれ……」
後ろについてしゃがみ、私も川の水の中に右手を入れてみる。すると、ピリピリするほど肌を刺激する、かなり冷たい水であることが分かる。
「たしかに。相当冷たいですね」
「夢幻島の冬は冷えるからな」
「夢幻島というのが、この地方の名前なんですか?」
「そうだ。俺たち魔族と魔王が生きる地。それがこの、夢幻島。そんなことも忘れてるのか」
「きっと、私の中にはこれっぽっちも魔王としての記憶が残っていないと思うんです」
「やれやれ。面倒だ」
口ではそういいながらも、今日のエルは楽しそうだ。しばらくの間、独りでこの地域で暮らしていたのだろう。話し相手が戻って来たことで、少しは気の持ちようが変わったのかもしれない。まるで性格が違い、記憶までもない『魔王』を兄として迎え入れるには、それなりの覚悟も必要だったと思う。成りすましという可能性だって、はじめは捨てられなかっただろう。それでも、エルは私を受け入れてくれたのだ。感謝する以外ない。泉でエルに見つけてもらえなかったら、私は今頃ヨウ国軍の兵士に殺されていただろう。
争いを望まないのはもちろんのことだが、私は自分の命を軽視しているつもりもない。誰かが涙を流し、血を流すのであれば、その役を変わりたいとは思う。しかし、私にも生きる選択肢が与えられるのであれば、生きながらえたい。
エルは私に手を伸ばして来た。首を傾げると、私の後ろを指さしている。
「それ。取って」
「洗濯板ですか?」
「なんだ、これのことは覚えているのか?」
「実物を見たのは初めてですよ」
「初めて…………まぁ、そうかもしれないな」
「?」
私は、肯定されたことを不思議に思い、きょとんと眼を丸くした。エルはそれに気づくと、笑いながら洗濯をはじめる。板の上に黒のローブを乗せると、くしゃくしゃと潰しながら、ざらざらの面で擦っていく。
「魔王が洗濯をしにこの川まで来たことは無い。少なくとも、俺が知る上ではなかった」
「いつも、エルがひとりで洗濯をしていたんですか?」
「そういうこと」
慣れた手つきでごしごしと揉み洗いを続ける様子を、私は後ろから眺める。まずは私の着ていたずっしりとしたローブから洗いはじめてくれた。洗剤などは使わない様子で、水洗いに留めておくようだ。汚れなどが特にない場合は構わないが、もし派手に汚した場合は、何かしら洗剤があると便利そうだ。この辺りに生えている樹木を調べ、葉などで粘性がありそうなもの。実の汁など、試せそうなものは試してみるのがいいかもしれない。元々植物に詳しいわけでもなかったので、全くの別世界の木々について、分かるはずもない。エルが把握しているのかも分からないので、一緒に探すのがいいかもしれない。兄弟仲良く洗剤探し。なかなかいい響きだ。
「エルのローブは、私に洗わせてください」
「いいよ、魔王は見てるだけで。俺がやった方が早いし」
「そう言わず。私もエルのように手早く出来るようになるまで、やらせてください」
「でもなぁ…………川の水は冷たいぞ?」
「そうだからこそ、尚更エルひとりにはやらせたくないんですよ」
私の言葉を受け、エルは頬をピンク色に染めた。可愛らしい。照れている様子が分かりやすい。
昨日、泉で会った後。海岸でヨウ国軍と向き合っているときは、ツンツンしていたし、好戦的な態度を見せていた。しかし、私が撤退を申し出れば、エルも私に倣って退いてくれた。魔王に従順なだけのようにも見えるが、それでも独走突破されないのはありがたい。平和への道を歩むには、エルの助けは必須条件のひとつだ。
太陽の光が燦燦と照る。川の水面がキラキラと光って美しい。魚は居ないのだろうか。綺麗すぎて住んでいない可能性もある。
「交代しましょう?」
「気は進まないけど……」
そういいながら、エルは私に服と板を渡してくれた。ゴシゴシと擦ればいいのだろう。擦り方にコツがあるのかもしれないが、慣れるまでは下手なりに階数をこなそうと思う。
板の面に押し付けるようにして、こすり洗いを始める。黒一色の服の為、たとえ汚れがあったとしても、気づけないかもしれない。そのため、洗剤も必要としてこなかった可能性はある。
「いちに~さんま。し~ごでロック」
「は?」
唐突に口ずさみ始めた私を見て、エルはぽかんと間の抜けた顔をする。歌詞にもメロディーにも意味はないが、何でも楽しむことは私の人生の歩み方のひとつだ。世の中とは、楽しんだものが勝ちなのだ。
「ななはっちきゅ~じゅ。じゅ~じゅ~じゅ~」
「だから、なんだよその歌。新しい魔術か何か、考えてるのか?」
「魔術って、こんな詠唱があるんですか?」
「いや、聞いたことないけど。新種の術なのかなーと思って」
「意味はないですよ。さぁ、エルも一緒に」
「え?」
私はくすっと笑みを浮かべた。視線をエルから洗濯物に戻す。
「いちに~さんま。し~ごでロック」
「またそこに戻るのか?」
「ななはっちきゅ~じゅ、じゅ~じゅ~じゅ~」
「…………変な歌」
右手で頬杖をつきながら、エルもまた笑った。馬鹿々々しいと思っているのかもしれないが、笑うことは大切なことだ。口角を上げるだけでも、幸せな信号が脳から分泌される。悲しいときにまで笑えとは言わないし思わないが、何でもない日常の中でなら、笑っていたい。笑っていれば、つまらないことも楽しく感じられる。脳を誤魔化して生きるのも、選択肢に入れて悪くはない。