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私が立ち上がると、エルは一歩後退した。視線は私に向けられている。その視線に気づいて、私は微笑む。
弥一のときには、兄弟が居ない1人っ子だった。兄や姉が欲しいとも、弟や妹が欲しいとも思わず、私は1人っ子を謳歌していた。学校でも、そこまで親しい友人と言う物は出来ず、何故か遠巻きにしか私を認識されないでいた。その背景には、教師からの優遇があったからだと思う。私がそれを望んだのではなかったが、私は所謂『優等生』や『模範生』となり、教師からの信頼は厚かった。そのため、同級生との間に薄いものも含めて、壁が出来てしまった。
それはそれで、慣れれば気にならないもの。ひとは、どんな道が敷かれても、それなりに歩いていくことが可能だった。もちろん、何かしらの壁が大きすぎて、その場で立ち止まってしまうこともある。私も実際、自分の理想と現実が重ならず、生きることが苦しいと感じることもあった。それこそ、友達が出来なかったことも要因だ。学校生活に望むものというのは、勉学に励むことに絞られていた。
大学に進学すると、高校まででは専門的に学ぶことが出来なかった講義や、私の人生を大きくゆさぶる形となった『宗教論』などという、怪しげな題目の講義まであった。私はなにも、名のある宗教に属する信者ではない。今でこそ、仏の道を選んで歩いていたが、本格的な信者ではなかったので、宗派に拘ってもいなかった。ただ、念仏を唱え、仏様に教えを乞う。そして、死した後には極楽浄土へ旅立てるように願った。
その結末が、これだ。
私にとっての極楽浄土は、夢幻島。
そして、弥一には居なかった『弟』に恵まれた。
「エル。何か話があれば、いつでもお話聞きますよ」
「なんだよ、記憶喪失の癖に。そんな余裕ないだろ?」
「たしかに魔王としての記憶はないのですが……一応、27年分の徳は重ねてきたつもりですので。私に出来ることなら、したいです」
「27年?」
「私は日本人として、27年生きました」
その言葉を聞いて、エルは笑った。楽しそうに笑った顔ではなく、少しいたずらっぽさを感じさせる笑みだ。それでも、私はエルには笑顔が似合うと思った。
「日本なんて、そもそも存在してないけど。魔王が27歳ってことか? そんなわけないだろ。笑わせんなって!」
「じゃあ、私は何歳なのですか?」
すると、エルは右手で『6』を。左手で『0』の数字を作って私に見せた。
「60歳?」
「きちんとは数えていない。だけど、それくらいは経ってるはずだ」
「その割には、泉に映った顔は若々しかったですよ? 偽りの姿ですか?」
「マジで言ってんだよな、それ。早く記憶が戻ればいいんだけど」
「すみません」
「いい、いい。そろそろお前の記憶喪失にも慣れてきた」
エルは『はぁー』と長い溜息を吐いた。先ほどまでの、緊張した面持ちが今はもうない。これでいいと、私は頷いた。エルからすれば、なんの頷きだったのかは、分からないはずだ。
「俺たち魔族や魔王族は、長寿の生命だ。100年生きてやっと青年ってところだな。寿命は様々だから、なんとも言えないけど。言い伝えでは、1000年生きた魔王が居るって話だ」
「それは流石に、長生きしすぎですね。苦労はなかったのでしょうか」
「さぁな」
私の今の背丈は180センチほど。一方エルは150センチほど。背丈では年を計れないとは思うが、エルは明らかに子どもに見えた。私の中の好奇心は、エルの年齢へ移った。素直に聞いてみることにする。
「エルは、何歳なんですか?」
「俺か? 俺は40くらいかな」
「それでも、40年も生きているんですね。エルはまだ、10代ほどかと思っていました」
「そんなガキじゃねぇーよ!!」
「あはは、すみません」
軽く声をあげて笑った。この夢幻島へ来て、はじめて笑ったかもしれない。そんな私を見て、エルもつられて笑った。
一度は、この部屋から去ろうとしたところで、エルは敷居をまたいで部屋の中に入って来た。もちろん、私はそれを受け入れる。すると、エルは本棚の前で足を止めた。色とりどりのブックカバーの本の背表紙を見ていく。中には、背表紙に文字が書かれているものもある。
しかし、エルは眺めるばかりで本を手に取ろうとはしなかった。魔王にしか、開封することが出来ない、封印された本。そのため、手を伸ばさないのかもしれない。
エルの眉が、きりっと吊り上がった。目もとも厳しい。
「なぁ、魔王」
「なんでしょうか?」
「魔王……兄は、なんで本に鍵をかけたんだと思う?」
「……何故でしょうか」
「お前は、この本を手に取り開くことが出来た。それはイコールでお前が魔王であり、俺の兄だってことの証明になる」
「外からみれば、そう捉えられますね」
「でも、お前にはまだ……記憶が無い」
「はい」
目を伏せた。ネコ目で愛くるしい表情が完全に影を帯びている。
暗闇の中では、人とは前向きな思考に転じないことが多い。魔族もそういう類なのか。ミンヨの実を食べた後。夜が更けるとエルの顔からは笑顔がほとんど消えてしまった。そんなエルを見て、私がエルを苦しめているのだろうという、罪悪感に襲われた。
「いつか、思い出せるときが来るかもしれません。しかし、思い出せることもないかもしれません」
「…………」
「ですが、私はあなたをエルと認識し、あなたが私の弟だと嬉しいと思います」
「俺だって、お前が兄だったらって思う」
「それなら、それでいいと思いませんか?」
微笑む私に対して、エルは怪訝な顔をしている。首を若干傾け、私からの続きの言葉を待っている様子だ。私はそれに応える。
「私は冷徹な兄にはなれそうにありません。人間と戦争をしたいとも思いません。ですが、あなたの兄ではありたいと思います」
「俺は、強い魔王がいい」
「気持ちは強く持っていますよ。私は、絶対に戦争はしません」
「………………ったく」
怒ると思った。
しかし、エルは逆に笑った。
「変なところだけ、お前は魔王だ」
「?」
「まだ、2時過ぎか。寝なおそっと」
「私も、もう少し眠れたらいいなと思います」
「そうしとけ」
エルは、どこかスッキリした顔をして、意気揚々と扉を閉めた。その足音も軽快。居間の奥にある簡易ソファーの上で、おそらくは寝転がった。それを感じると、私もベッドに戻り、マットの上に腰かけた。丁寧にシーツまで敷いてある。そういえば、埃っぽさもない。この部屋は、綺麗な状態で残されていた。
何年、魔王が不在だったのかも訊ねなければ分からない。ただ、この部屋が大切にされていたことだけは、確かなようだ。魔王は、人間からすれば怖がられる存在なのかもしれないが、魔王族には愛される存在だったのかもしれない。
立場や種族が変われば、象徴とするものも大きく変わる。私の魔王としての価値を、どうやって捨てるか。どうやって生かすか。それがこの先、この世界で平和を掴むには、必要な思考になるのだろうと感じた。
布団に入ると、私は数分で深い眠りについた。




