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「ミンヨの実はどうだった?」
「若干の渋みはありますけど、美味しかったです。ごちそうさまでした」
私は再度、手を合わせて軽く一礼する。エルはまた、物珍しそうに私を見てから、同じように手を合わせてくれた。ふたりで合掌。こうしていると、日本でまめと一緒に食事をしていたことを思いだす。つい先ほどまで、私はまめと平凡に暮らしていたのに、数時間でこんなにもかけ離れた容姿となり、人生に導かれた。私が数時間と思っているが、実際には数日。あるいは、何年もの年月が経過している可能性もある。私はどういった経緯で、この世界へ誘われたのだろう。
よくいう異世界転移とは違うと思う。私、『弥一』としての記憶は、雷に打たれたところで終わっている。そこで命が尽きたとすれば、新たに目覚めたこの世界は、まったくの新しい世界線なのだと判断できる。
「魔王の寝床はあっちの東部屋」
「あそこですね。エルの部屋は?」
「俺に部屋はない」
「何故です?」
この小屋で生活していたのは、魔王とエルのふたりとのこと。部屋がまだ一室あるようだが、そこではないのか。私は立ち上がると興味本位で、一番奥の部屋の前まで移動した。丸い形のドアノブを右手で握り、時計回りにまわす。すると、ガチャガチャと鍵のかかった音が響いた。中に誰かが居るのか。それとも、外側からあえて鍵をかけているのか。私が細かく調べようとしているのを見て、エルは慌てて駆け寄って来た。肌の色が青ざめていて、もともと色白の肌がよりいっそう白く見える。
「そこに触れるな!!!」
「?」
あまりの制止に、私はつい言葉を失くした。ぽかんと口を開けた状態で、エルの顔を見ているだけ。とりあえず、この開かずの部屋のドアノブから手を離したところで、少しはエルもほっとしたらしい。すぐに私の右腕を引っ張り、『魔王の部屋』として指示された東の部屋に強引に案内する。私はそれに、素直に従った。
「この家の中のものは、何使ってくれてもいい。だけど、あの部屋だけは……触るな。近づくな」
「理由は…………教えてもらえないのですか?」
「お前が本当に魔王なら、思い出すこともあるだろ。思い出せないなら、それまでだ。とにかく、触れるな」
「そうですか……わかりました。私はまだ、未確定の魔王ですからね」
「そういうことだ」
深い溜息を吐くと、エルは髪の毛を左手でクシャクシャと掻き乱した。緑の透き通った色は、美しい。人間離れしたその容姿端麗は、親譲りなのだろうか。この小屋を建てたのが、何代か前の魔王と言われた。つまり、血が受け継がれ、魔王なるものはこの家で身体を休めていたはずだ。
エルにも、『イチルヤフリート・ヤイチ』にも、親が存在していたのだろう。今はこの小屋でふたり暮らしということは、既に他界しているのか。聞きたいけれども、結果が他界だとすれば、エルも口にするのを躊躇う気がする。あまりにも配慮に欠けた言動は、すべきではない。
私は右手を差し伸べると、そのままエルの頭に手を乗せた。ゆっくりと優しく頭を撫でる。赤の瞳を驚かせ、びっくりした顔をしたが、すぐにそれにも慣れる。エルは照れた笑いを見せてくれた。右えくぼは、やはり可愛い。
「疲れてるんだろう? さっさと寝ろよ」
「エルの部屋は、本当にないのですか? 無いのであれば、私と一緒に寝ませんか?」
その言葉にも、エルは驚いた。大げさに顔を左右に振り、手をひらひらと舞わせる。
「なーに馬鹿いってんだよ。お前のタッパ考えろ。でかすぎて眠れやしない」
「そうでした。この姿には慣れないものでして……180cmほどありそうですよね」
「あるだろ。俺はあっちに転がって寝てるから気にするな。いつものことだ」
「ですが、私にだけ部屋があるのは気が引けます」
「お前なぁ……お前は魔王。俺はただの従者にすぎないんだ。それくらいの差があるのは、当然のことだろ?」
その物言いには、引っかかるものがある。私は首を傾げて追及してみた。声のトーンは自然と低くなる。
そういえば、この身体から発する声は、日本人『弥一』のときに持っていた声とまったく同じだ。声の太さも、高さも変わらない。容姿がここまで違うというのに、声だけは同じ。そこには何か、私もエルも知らないような理由があるのだろうか。それとも、単なる偶然か。
「エルは私の弟なのですよね?」
「そうだけど?」
「それなのに、エルはただの従者なのですか? 他に権力や地位などはないのですか?」
「魔王は世界にただひとり。後継者は、魔王が死なない限り分からない。そういう仕組みだ」
「では、代々。ヤイチの血を引くものだけが、魔王になっているという訳ではないのですか?」
「さぁな。俺にも分からない」
「?」
エルの声のトーンも落ちた。それでも高くて伸びのある少女のような声だが、気持ちが沈んでいる様子は分かりやすい。踏み込んでいい領域の線引きがうまくできず、私はずっとエルを傷つけてばかりだと反省する。軽く咳払いをしてから、私は素直に頭を下げた。
「詮索しすぎですね」
「記憶喪失なら、それも仕方ない。俺だって、魔王が記憶を取り戻してくれたらいいって思ってるから。謝んな」
「エルは優しいですね」
「普通だって。とにかく、お前はさっさと寝ろ。俺もあっちで横になる」
「分かりました」
部屋の敷居をまたぎ、中へ入る。こじんまりとした部屋で、木製のベッドがひとつ。サイズは大きい。ダブルベッド。そして、本棚。間接照明も無いため、室内を照らすのは、窓の外からの月明かりだった。眠るにはほどよい暗さ。私がベッドの上に腰を下ろせば、エルも安心したのか。表情がまた、穏やかになる。
「おやすみなさい、エル」
「おやすみ」
ぱたん。
木製の扉が渇いた音で閉まる。立て付けが悪いわりに、室内の扉だけはきちんと閉まるのも不思議だ。
本棚に並ぶのは、どれもこれも分厚い本。見たことも無い文字だが、それを『日本語』として読み取ることが出来た。チート能力とでもいうのか。エジプトのヒエログリフを解読するような感覚で、私は本の情報を得ることが出来そうだ。
一冊手に取ったら、読み終えるまで気になって眠れないタイプの人間だ。今日は休むことを優先にしようと、私は本棚への視線を辞めた。大人しくベッドに横になり、掛布団をかぶる。やわらかくて軽い。羽毛布団だろうか。大学を出たあと、田舎で暮らしはじめて5年間は、和室しかない家で生きてきた為、ベッド自体とても久しぶりだった。
良い香りがする。お香が焚かれているのだろう。自然と瞼を閉じ、私はすぐに眠りについた。