04
カーラやオリンドたちと談笑しているうちに、会場に音楽が流れ始めた。
「あら、ダンスが始まるみたいね。いってらっしゃいな。アッシュ様、フィーのことをよろしくお願いしますね」
「カーラ様、僕らも一曲いかがです?」
「フィーたちのファーストダンスを見たらね」
いち早く気づいたカーラがフィオレンティーナたちへ促す。返事をする前にカーラとオリンドはテンポよく会話をしながら離れて行ってしまい、どうしよう、とアッシュを見上げると深紅の瞳がまっすぐこちらを見ていた。
思わず息を飲んだフィオレンティーナを見つめたまま、アッシュが手を差し出す。
「……フィオレンティーナ。君が良ければ、一曲踊ってもらえるか?」
「は、はい!もちろんです、アッシュ様」
差し出された手にフィオレンティーナが手を重ねると、そっと握られてそのまま流れるようにダンスホールへエスコートされた。
向かい合ってダンスが始まる。自然と近くなる距離や腰に回された腕、触れ合う手に胸を高鳴らせながら顔を上げられずにいると、正面からふっと笑みが零れる音が聞こえて目線を上げる。当然、目の前にいるのはアッシュだ。その表情は笑ってはいなかったが、柔らかい視線に絡めとられて自然と頬が熱くなる。
「…アッシュ様?」
「すまない。君が、とても緊張しているようだったから」
「緊張…しています。家族以外と踊るのは初めてですもの」
「……俺もだ」
「アッシュ様も?」
会話をしながらも、アッシュの足を踏まないようにステップを踏む。あまり緊張しているように見えないアッシュを訝し気に見上げると、アッシュは少しきまりの悪そうな顔をして視線を横に逸らした。
「……俺はあまりダンスが得意じゃない。それに…」
「それに?」
「力加減がわからなくて、怖い」
不思議そうに首を傾げるフィオレンティーナを曲に合わせて引き寄せ、近づいた耳元でそう囁きかけられる。その言葉を証明するように引き寄せる腕の力は強く、しかし握る手は壊れ物を扱うように慎重だった。
声変わりをして低くなった声が囁くことでより低められて、フィオレンティーナに”異性”を強く意識させる。心臓が早鐘のように打ち、触れ合ったところから燃え上がりそうなほどに体が熱くなっているように感じた。
あ、と吐息のような声を零すと握る手の力が少し強くなる。自分の意識が目の前のアッシュにだけ向いて、まるで世界で2人きりのような感覚になるのが少し怖い。それでも、ちゃんと言葉にして伝えたくて、フィオレンティーナはほとんど息だけの声で囁き返した。
「…私はそんなに柔ではありませんから。もっと強くても大丈――…」
言葉の途中で腰がぐっと引き寄せられ、一度強く抱きしめられたかと思うとすぐに離された。
どうして、と離れる体温を追いかけそうになりながら、それがダンスの一部だったと気づいたのはいつの間にか曲が終わり、アッシュにエスコートされて会場の中央から壁際へ去ってからだった。
フィオレンティーナが自分のはしたなさに密かに赤面してアッシュの様子を伺うと、口をむすりと引き結んでなにやら難しい顔をしている。
「アッシュ様?あの……」
「……君は、俺に甘すぎる」
「え?」
何かしてしまったのだろうかとおろおろしながら話しかけると、アッシュは足を止めて大きく息をつき、空いている手で顔を覆った。きょとんとしたフィオレンティーナをどこか恨めし気に流し目で見たアッシュは不貞腐れた顔をする。
「俺は、君を大切にしたい」
「……はい」
「だから、あまり…、……そういう、俺を甘やかすようなことは言わないでくれ」
「はい…?」
アッシュは口ごもると、顔を覆っていた手で短い襟足をガシガシとかいてそう言った。フィオレンティーナにはよく意味が分からなかったが、自分の発言を思い返すと、確かにこちらを気遣って「怖い」と言ったアッシュに対しての答えとしてはズレていたかもしれない。
「その…すみません。ありがとうございます、アッシュ様」
「……いや。俺こそ…」
大切にしたい、という言葉が純粋に嬉しくてお礼を言うフィオレンティーナに複雑そうな表情を浮かべるアッシュだったが、気持ちを切り替えたのか、小さく頷いて話を終える。
「少し休むか?」
「はい…その、アッシュ様はこの後は…?」
「君が踊りたいなら付き合う。俺は君以外と踊るつもりはない」
通りがかった給仕からソフトドリンクをもらって静かな場所へ移動する。
ダンスを楽しむ男女を見ながらアッシュがこの後誰かと踊るのか気になって尋ねると、きっぱりした答えが返って来てほっとするのと同時に、「自分だけ」と言い切られたことが嬉しくてほんのりと頬が赤くなった。
「わ、私もアッシュ様以外と踊るのはちょっと…」
「…そうか」
しばらく沈黙が落ちる。会えなくなる以前からそうだったせいか、フィオレンティーナはこの沈黙が嫌ではなかった。アッシュがどう思っているかはわからないが、こっそり伺った表情はリラックスているように見えたから、悪くは思われていないだろう。
それにしても、本当に”未来予知”で見た姿の通りだ。
それだけでも胸が騒がしかったのに、アリアの登場でさらに混乱してしまった。
”予知”ではフィオレンティーナがアリアと出会うのは学園へ入学してからのはずだった。それ以前に知り合うことも、そもそもアリアがフィオレンティーナを知っているということもなかったはずだ。
フローラやアンナのこともあるが、”未来予知”とズレが生じているのが少し引っかかっていた。このズレが今後何かに影響してくるのか、それとも――……と、考え込んでいたフィオレンティーナはふと視線を感じて顔を向ける。隣からアッシュがじっとこちらを見下ろしていた。
「……アッシュ様、どうかなさいましたか?」
「いや…そのアクセサリーのことを話していなかった」
「アクセサリーですか?」
言葉につられて首元に手をやる。指先に触れる丸い感触に首を傾げると、アッシュは頷いてそっと手を伸ばしてきた。手袋に包まれた指先が耳に飾られたイヤリングに触れ、雫型の真珠が揺れる。
「姉上と相談して決めた…というのは話したな」
「はい」
「…このネックレスとイヤリングは、元は母上のものなんだ」
「アンナ様の…?」
頬に触れそうで触れない距離にある手にドキドキしていたフィオレンティーナは思いがけない名前が出てきたことに驚いて目を丸くする。そんな様子を見ながらアッシュは静かに話を続けた。
「ああ。母上のもので、いずれはフローラへ譲るつもりでいたらしい、と姉上が言っていた」
「フローラへ…」
「ドレスの案を聞いた姉上が思い出したんだ。君のドレスにはきっとぴったりだろう、と」
「でも…そんな大切なものを、私が……」
戸惑うフィオレンティーナにアッシュが薄く微笑む。ほんの少し口の端を上げただけの表情だったが、その表情は柔らかく、優しかった。
「よかったら君に貰って欲しい。母上もフローラも、きっと喜ぶ」
そう言って手を引いたアッシュを見上げながら、フィオレンティーナは涙が滲みそうになるのを堪えた。アンナとフローラと過ごした時間は短い。それでも、フィオレンティーナに彼女たちの思い出を託してもらえるという事実が嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「はい、…はい。もちろんです。ありがとうございます、アッシュ様」
「ああ」
「大切にいたします」
目じりに浮かんだ涙をそっと指で拭って微笑むとアッシュはほっとしたようだった。
その後、それ以上踊ることもなく2人はそれぞれの家族と合流し、会場を後にした。帰りは別の馬車になってしまったのが少しだけ残念だった。
余韻に浸りつつ、フィオレンティーナは馬車の窓から外を見る。橋の上から見える水面は舞踏会の灯りで輝き、夢のような景色だった。その光景を閉じ込めるようにフィオレンティーナは瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのはアッシュのことばかりだ。
背の高いアッシュの姿。低くなった声。父や弟とは違う男性の手、一瞬触れた固い胸板。すっかり大人びた容姿の中で、変わらぬ輝きを持つ深紅の瞳。
その瞳が自分を見つめる時間が、大きな手が自分に触れる瞬間が、自分を大切にしてくれる心が、これまで感じていた親愛にも近い好意を別の色に塗り替えてゆく。
淡い想いが確かな恋に変わる予感を覚えながら、フィオレンティーナのデビュタントは無事に幕を下ろした。




