02
ひとしきり泣いて落ち着いたフィオレンティーナはソファへ移動し、リエトが持って来た温かい紅茶を飲んでいた。
「姉上、落ち着きましたか?」
「…ええ。ごめんなさい、わたくし…」
あんなに声を上げて泣いたのは物心ついてからは初めてだった。よりにもよって弟の前で泣いてしまったのが恥ずかしくて縮こまっていると、リエトは笑って頬杖をつく。
「姉上がちゃんと泣けるひとでよかったですよ」
「どういうこと…?」
「いえ、姉上が泣いたり怒ったりしているところを見たことがなかったので」
「それはリエトもそうじゃないかしら…」
「ぼくはむだな体力を使うのがきらいなので。それで、そろそろ話せそうですか?」
猫のように笑うリエトに小さく頷くと、どこから話すべきか考えながらフィオレンティーナは口を開いた。
「…はじめてアッシュさまを見たときに、アッシュさまとだれかの物語が見えたの」
「だれかの?姉上ではなく?」
「ええ。『金の聖女と6人の騎士』という、恋愛物語で……」
フィオレンティーナは記憶を手繰り寄せるように目を閉じる。アッシュと初めて会った初夏のことがずいぶんと昔のことのように感じた。
未だに恋愛ゲームがどういうものかわからないため、物語として語ることにする。
主人公の少女が魔法学園に通うことになり聖女として目覚めること。聖女は学園を卒業するとともに巡礼の旅に出ることになっているため、巡礼には騎士を一人選ばなければならないこと。その選定のために学園生活を通して騎士と仲を深めてゆき、やがて恋に落ちるという物語だということを、リエトに語って聞かせた。
「……なるほど。その聖女がえらんだ騎士がアッシュ殿だったわけですか」
「そう。…物語は主人公を中心にすすむから、わたくしのことはくわしくはわからないけれど…主人公とは親友になるみたいなの」
「はあ…それで?」
「それで…親友とアッシュさまのために、わたくしからアッシュさまとの婚約を……」
「……なんというか、その姉上は想像できてしまいますね」
呆れたような顔をするリエトに内心自分もそう思っていたフィオレンティーナは目をそらすが、気を取り直してティーカップを置き、立ち上がって机へ向かう。引き出しから日記帳を取り出して以前情報を書き留めたページをリエトに見せた。
「ここに書いてあるのがその物語に出てきたアッシュさまのことなのだけど…」
「……性格は確かにこのとおりのように思いますね。瞳のことを気にしているのもこの物語のおかげで最初から知っていたわけですか?」
「…ええ。アッシュさまは瞳の色が原因でご家族と…特にお母さまとあまりうまくいっていなかったみたいで」
「じっさいにアンナ夫人はアッシュ殿のことを…アッシュ殿が持っている力のことを怖がっている様子だったんですよね」
「そうなの。だから、わたくしはこの物語は未来予知のようなものだと思ったのよ」
「…すこし材料が足りない気はしますが、そうでもないと妙な内容ですね」
日記に綴られた”予知”の内容を指でなぞりながらリエトは頷く。フィオレンティーナが思ったのと同じところで納得したようで少しだけほっとした。
「それで、”もっと先だったはず”というのは?アッシュさまの誕生日がまだ先なのですか?」
「それもだけど…」
フィオレンティーナは少し口ごもる。フローラのことを考えるとまた涙が出て来そうだった。黙ってしまったフィオレンティーナを見てリエトが心配そうな顔をするが、それに首を振ってみせて目元に滲んだ涙を指で拭い、話を続けた。
「……フローラは湖に落ちて死んでしまったって物語のアッシュさまが言っていたの。アッシュさまとアンナさまの仲を取り持つために、アンナさまのお好きな花を取りに行ったときに……アッシュさまの目の前で」
「だから”湖じゃない”ですか」
「グレフォード伯爵家のお城には湖はなかったのよ。でもパルエには湖があって、フローラたちは夏のお休みをパルエの別荘で過ごすと言っていたから」
「ああ…これでだいぶ納得できました。姉上のアッシュ殿への行動力も、アンナ夫人のことを気にかけていたことも、先ほどの取り乱しようも。」
「……さっきのことは忘れてちょうだい」
「ごめんなさい姉上。ぼく、記憶力がものすごく良いので、むりです」
にっこり微笑まれては毒気も抜けてしまうというものだ。ため息をつくフィオレンティーナを放ってリエトは腕を組む。
「姉上の予想ではフローラ嬢の死は今年の夏以降のはずだったわけですね。そして、そもそもアンナ夫人は来年亡くなる予定だった」
「……そう、なるわね…」
「おふたりの死を回避するために、アッシュ殿とアンナ夫人の仲を夏までにどうにかしたいと思っていた」
「ええ」
「アンナ夫人はどうして亡くなったのですか?」
「フローラのことで気を病んでしまったそうで…」
「なるほど。フローラ嬢の死を回避することが、アンナ夫人の生存に繋がっているわけですか」
組んだ腕をトン、トンと指で叩きながらリエトはつぶやく。これはリエトが考え事をしているときの癖だ。フィオレンティーナに話しかけているというよりも自分の中で情報を整理しているのだろう。フィオレンティーナはそう思い、ティーカップを手に取って冷めた紅茶を一口飲んだ。
「姉上は、アッシュさまを悲しませたくないから、おふたりを救おうとしていたのですか?」
しばらくの沈黙の後、リエトが口を開く。紅茶の水面を見つめていた視線を上げると「気になっている」と言って憚らないような紫の瞳がフィオレンティーナを見ていた。
確かにフィオレンティーナはアッシュを悲しませたくはなかった。アッシュの優しさを”予知”で知り、実際にそれに触れてからは特にそう思っていた。フローラもアンナもそうだ。アッシュが悲しむ以上に、親しくしてくれたグレフォード伯爵家の全員を失いたくないとフィオレンティーナ自身が思っていた。
でも、リエトが聞きたいのはそういうことではないのだろう。きっと最初に”未来を変えたい”と思ったきっかけのことを聞いているのだ。
「……もちろん、わたくしがおふたりを失いたくなかったからというのが一番だけど…」
自分の手元に目を落とし、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「…物語の中のわたくしとアッシュさまはあまり仲がよくなかったみたいなの。アッシュさまはフローラやアンナさまをなくして、心を閉ざしてしまったみたいで…わたくしは、そんなアッシュさまに寄り添えなかったのよ」
アッシュとの”記憶”を見て、彼の人柄を知ったとき。赤い薔薇を見て微笑んだ寂しい顔を見たとき。たったそれだけと言われるかもしれないが、フィオレンティーナはただそれだけでアッシュと婚約解消する未来を「嫌だ」と思ってしまった。
「アッシュさまが悲しむことがなければ、心を閉ざすことがなくなって…わたくしとアッシュさまが、いっしょにいる未来があるかもしれないって思ったの」
フィオレンティーナの声は震えていた。止まったはずの涙がまた滲み、ぽろぽろと零れ落ちる。
「だからきっと、罰がくだったのね。未来を変えるなんて、聖女でもないわたくしに――」
できるわけがなかった。
そう言い切る前に嗚咽がこらえきれなくなり、フィオレンティーナは顔を覆ってしまった。
「姉上……」
リエトは何か言いたげにしながらもそっと口を閉じ、フィオレンティーナの丸まった背を撫でた。




