初夏の薔薇 01
その日、ラ=トラッソ家の応接間では、現当主ランベルトとその娘であるフィオレンティーナが客人を迎えていた。婚約者との初めての顔合わせがあるためだ。
「コスタクルタへようこそ。グレフォード卿」
「お招きいただきありがとうございます。コスタクルタ伯爵、フィオレンティーナ嬢」
父親であるコスタクルタ伯ランベルト・ヴィットーレ・ラ=トラッソの少し後ろでフィオレンティーナは目を丸くしていた。目の前にいるグレフォード伯爵家の次男、アッシュ・グレフォードがとんでもない美少年だったからというだけではない。彼女の脳裏には、今生のものではない記憶が怒涛の勢いで流れ込んできていたからだ。
それは『金の聖女と6人の騎士』という、少女を主人公にした恋愛ゲームの記憶だった。
作品の舞台は『エランティア』と呼ばれる大陸にある、学園都市『ウェネティ』。水の都とも呼ばれ、学園を中心に街中を運河が縦横に走っている美しい都市だ。
エランティア唯一の魔法学園へ入学することになった主人公は入学試験で『聖女』としての力を見出され、卒業後に世界巡礼の旅へ出るために勉学に励むこととなる。旅には『聖女』が選んだ『騎士』が同行することになっており、この『騎士』たちを選定するために主人公は彼らと仲を深め、やがて恋に落ちてゆくストーリーだ。
その騎士の一人として登場するのが『銀の騎士』アッシュ・グレフォードで、フィオレンティーナは彼の婚約者だったが、主人公の親友となったことで、アッシュと主人公の恋を応援するために自身は身を引くという展開だった。
10歳のいま初めてアッシュと出会ったにもかかわらず、何年もアッシュのことを見ていたような感覚に陥ってフィオレンティーナは困惑していた。
「フィオレンティーナ、ご挨拶なさい」
突然の記憶に固まっていたフィオレンティーナにランベルトが優しく声をかける。混乱はまだ解けないが、伯爵家の令嬢として教育された身は幼いながらにきちんとカーテシーを行う。
「グレフォード伯爵さま、アッシュさま、はじめまして。フィオレンティーナ・ルーチェ・ラ=トラッソです。お会いできてうれしいですわ」
フィオレンティーナの美しくまっすぐな黒髪が揺れる。伏せたまつ毛も黒々として長く、瞳は『コスタクルタの紫水晶』と呼ばれる神秘的な紫色。大人っぽい容姿に今日のために新調した淡い色のドレスが年相応のかわいらしさを添えている。
淑女の挨拶を受けたグレフォード伯爵カルロ・フィアマ・グレフォードはにこやかな笑みを浮かべて息子の肩を叩く。
「かわいらしいお嬢さんじゃないか。ほら、アッシュ。お前もご挨拶なさい」
「……アッシュ・グレフォード。よろしく」
促されてぶっきらぼうに挨拶をしたアッシュに「アッシュ!」とカルロが嗜めるが、ランベルトは笑ってそれを止め、フィオレンティーナの方へ目線をやる。
「大人が居る場では話しにくいこともあるでしょう。フィオレンティーナ、アッシュくんに庭を案内してきなさい」
「はい、お父様」
「グレフォード卿はこちらへ。葡萄酒はお好きですかな?」
「ええ、もちろん。コスタクルタの葡萄酒といえば、エランティアいちと名高いですから」
「それはよかった。子どもたちが語らう間、我々も親交を深めるといたしましょう」
父親たちと使用人が部屋を出て行くのを見送り、フィオレンティーナはアッシュの方を見る。ガーネットに似た深い紅色の瞳は逸らされたままだが、フィオレンティーナはこれが気恥ずかしいからだと”知っている”。
「…アッシュさま。当家の庭はいまがちょうど薔薇のさかりなんです。お茶もご用意いたしましたので、そちらですこしお話いたしませんか?」
「ああ」
アッシュからの返事を受けて、フィオレンティーナとアッシュ、使用人たちはテラスから庭園へと出た。
美しく手入れされたラ=トラッソ家の庭は今、色とりどりの薔薇が満開になっている。一年中薔薇が楽しめるように咲く時期の違う薔薇が植えられているが、初夏のこの頃が一番多くの品種が花開く。
「アッシュさまはお花はお好きですか?」
「……考えたこともなかった。きれいだとは思う」
薔薇に囲まれた小道を歩きながらぎこちない会話を交わす。アッシュはずっとふてくされたような表情を浮かべているが、フィオレンティーナの問いかけにはきちんと答えてくれるため、それが人見知りからくるものだということは容易に理解できた。もちろん、例の記憶のおかげでもあったが。
「わたくしはとても好きです。お勉強のあいまにお花をみて休憩したり…アッシュさまは、ふだんはどのような風にすごされているのですか?」
「普段…勉強をしたり、鍛錬をしたりしている」
グレフォード伯爵家は多くの騎士を輩出し、国に貢献してきた家系だ。家督を継がない次男のアッシュは騎士として領地の守護を担うことになる。どのような鍛錬をするのかをぽつぽつと聞いているうちに噴水の近くへやって来た。中央には学園都市の由来ともなった水の女神『ウェーネティア』の彫像が置かれ、庭師の手で朝摘みの薔薇の冠が被せられている。
フィオレンティーナはふと周囲で咲く薔薇のひとつに目を止め、使用人に声をかけて摘んでもらう。とげの落とされたそれをアッシュへと差し出した。
「この薔薇はアッシュさまへ」
「……おれに?」
「はい。この薔薇、うつくしい深紅でしょう?アッシュさまの瞳と似ていると思ったので…」
「おれの目と?」
きょとんとアッシュは目を瞬かせる。まんまるくなったガーネットの瞳を見て微笑みながら頷くと、アッシュは少し面食らったような様子を見せ、恐る恐る薔薇を受け取った。
「……そんなこと、はじめて言われた。おれの目は、あまり好かれないから」
ありがとう、と小さく呟き、アッシュは控えめに微笑みを浮かべる。真っ赤な薔薇を持った銀色の少年はそれだけで一幅の絵画になるほど美しく、フィオレンティーナはきゅう、と胸が痛むのを感じながら微笑みを返した。