現象学レイプ!間主観性と化した空手部
木村「唐突ですが先輩がた、目の前にリンゴがあったとします。その時、僕たちはリンゴの存在を疑ったりしませんよね?」
野獣「当たり前だよなぁ?そのままリンゴを食べるぜ」
三浦「そうだよ(便乗)」
木村「しかし、よく考えてください。本当は「そこにリンゴがある」と言う事だけが確かなのではありませんか?」
野獣「言われてみればそうだなぁ。自分の意識にリンゴが現れていることだけが確かだって、はっきりわかんだね」
木村「それにも関わらず、リンゴは自分の主観の外にありますね。そして自分はリンゴを見ている。だから意識の中にリンゴが現れるのだ、と確信しているのです」
三浦「どういう事かゾ?」
木村「つまり『客観的世界』が当然のように存在しているんですよ。この場合でも『そこにリンゴがある』と言う確信だけで、リンゴの存在を信じ切っているのです。もしかしたら、それはリンゴのように見えるパプリカかもしれません」
三浦「要するに、確かめられていない存在を"見ただけ"で確信し、無批判に受け入れることかゾ?」
野獣「なるほどなぁ」
木村「これを批判した哲学者がいます。その人の名はフッサールと言い、主著として『純粋現象学及現象学的哲学考案』、言い換えて『イデーン』があります。彼はこの無批判に受け入れる態度を非難しました」
三浦「確かに、誰もが見ただけで存在を確信したりしてるゾ…」
木村「この態度を『自然的態度』と言います。またリンゴ以外にも、他人や自分、身体や思い出も、全ては意識で見えたものを確信しています。なので、世界は自分の主観によって存在しているのだ、と確信します。何故なら"見えたものを無批判に確信しているから"です」
野獣「見えたものを疑いをせずに実在を信じ込む。だから世界も自分の外にあることを確信する。何故なら"見えたものを確信しているから"。…こう言いたいんだろ?」
三浦「確かに、俺が見ている木村と野獣も本当は存在しないのかもしれないのに、俺は無意識に存在を疑わないゾ…」
野獣「ですよねぇ?」
木村「そうです、人は見えたものを何も考えずに確信しているのです。ですから、目の前に崖が見えたら飛び降りたりしませんよね?何故なら、僕たちは崖を見ただけで、無批判に崖の存在を疑わないから」
三浦「でも、さっきは『世界は自分の主観によって存在しているのだ』って言ったゾ?…自分の主観によって世界があるなら、目の前に崖があるとは確信できないゾ…」
木村「いい所にお気づきになられましたね。…その通りです、主観によって世界があるならば、もしかしたら自分の妄想なのかもしれません。僕たちの主観が間違ったものかもしれません。しかし、僕たちは見たものを無批判に受け入れます。さて、どうしてでしょうか?」
野獣「なんか矛盾しているような…」
木村「鈴木先輩も流石です。…この二つは見事に矛盾しています。「自分の主観によって存在しているなら、全ては妄想かもしれない」のに、「見たものの存在を無批判に受け入れる」のですから」
三浦「あれぇ~おかしいね」
木村「これを解明するのが『現象学』です。フッサールはこれについて研究しました。しかし、『この世界は本当にあるのか?』と言う事を証明するのは不可能です」
野獣「証明出来ないのは、自分が主観から抜け出す事が出来ないからだろ?」
木村「ええ。なので、自分で自分を眺めることなんて出来ないのです。よって証明は誰にも出来ません。なら、主観と客観が一致して得られる確信の根拠はなんだろう、とフッサールは考えたのです」
三浦「つまり、さっき言った二つの矛盾ゾ?」
木村「はい。ですからフッサールは、当たり前に存在を確信している物事を、一旦かぎかっこに入れて疑ってみました。そうです、見たものの存在の確信をやめたのです。そして徹底的に存在を疑いました」
三浦「さっきのリンゴはパプリカかもしれない、品種改良した赤い梨かもしれない、幻かもしれない…」
野獣「なんかデカルト的だなぁ…」
木村「この時、リンゴなら「赤い」「丸い」と言った感覚的なものと、「アップルパイが作れそう」「おいしそう」と言った知識的なものの二つは、自分の意識の中にあることだけは確信できます。この感覚的なものを『知覚直感』と言い、知識的なものを『本質直観』と言います」
三浦「確かにリンゴの存在は疑っても、自分の感覚だけは疑えないゾ」
野獣「自分は赤色に見えたけど、本当は白色に感じたかもしれない、なんて事は有り得ないな」
木村「しかし、僕たちはこの知覚直感と本質直観の二つだけでリンゴの存在を確信していたのです。この「存在の確信を捨てて、徹底的に存在を疑う」ことを『エポケー』と言います」
野獣「このエポケーを行う事で、この確信の証拠を突き止められるかもな」
木村「こうしたエポケーを行う事を『現象学的還元』と言います。ですからフッサールは、道徳や法律といったものに対してもエポケーしてみたのです」
三浦「そうしたら自然的態度から脱却できるゾ!」
木村「その中で「意識は水槽ではない」と言います。どういう事かと言うと、意識は常に何かしらに対して意識する事で起こります。リンゴならリンゴに対する意識、自分なら自分に対する意識。こうした意識の性質を『志向性』と呼びます」
三浦「なるほどゾ。つまり意識は適当に意識内容が浮かぶ水槽ではなくて、それぞれの物事毎に意識が取り出されるタンスみたいなものだゾ」
野獣「MUR流石っすね…」
木村「この志向性には、主に二つの側面があります。まず、『知覚直感』『本質直観』をもとにして意識することを『ノエシス』と言い、逆に意識される対象を『ノエマ』と言います。リンゴで言うなら、リンゴがノエマであって、僕たちの意識こそが『ノエシス』なんですね」
野獣「ノエシスとノエマが合わさって初めて、俺らは意識できるのか…」
木村「この『知覚直感』と『本質直観』が組み合わさったものを『内在』と言います。さっきも言った通り、"内在"は存在を疑えません。ですが、内在によって意識されたリンゴは疑われる余地があるんです」
三浦「ノエマだからと言って存在が確信できるわけじゃないゾ…」
木村「ですから彼は、このような対象もといノエマを『超越』と呼びます。ここで言うなら、リンゴは「超越」なのです」
野獣「はえ^~」
木村「更にフッサールは研究を進め、僕たちが世界の存在を確信するまでの道のりを考えました。…まず僕たちは自我を持ち、やがて『僕の意識で動かせるから、これは僕の身体だ』と言った具合に"自我の身体の確信"をします」
三浦「自分の身体は自分の意識によって動かされる。これに異論はないゾ」
木村「その身体を通じて、様々なものに触れます。そして「これは僕の身体とは違うものだ。これは僕では無い」と、自我の身体ではない存在を確信します。そして、自分以外の「他者」と触れ合い、他者の身体に感情移入をします。こうすることで他者の身体を確信し、自分以外の身体を確信するのです」
野獣「しかし、身体に感情移入をするってどういう事だ?」
木村「例えば赤ちゃんは、母親によってオムツを変えられたり、ミルクを飲ませられたりします。このとき赤ちゃんは母親を『自分を養ってくれる優しい人だ』と無意識に思うのです。これが"感情移入"であり、他者の身体の存在を確信するきっかけなんです」
野獣「うー☆うー☆」
木村「ヴォエ!!」
三浦「赤ちゃんになったつもりでいるんだろうけど、正直気持ちわるいゾ…」
野獣「クゥーン…」
木村「…話を戻しますが、この他者こそを『他我』と呼びます。この他我の確信を『間主観性』とフッサールは述べました。間主観性とは、自分の見る世界と他者の見る世界は同じものだ、と言う確信なのです」
三浦「なるほど。確かに他者の身体の確信は、その他者のいる世界の確信になるゾ」
木村「この間主観性によって世界を確信し、『客観的世界』が生まれます。客観的世界の確信は、確信した人にとって存在することと同意義なのです。ですからフッサールは、この"間主観性"こそが世界の存在を基礎づけるのだ、と言ったのです」
野獣「全ては間主観性によるものだったのか…」
三浦「なんか推理小説を読んだような気分だったゾ」
木村「こうしたフッサールの現象学は爆発的な広まりを見せます。そして出てきた哲学者がメルロ=ポンティです」
三浦「ポンデライオン?(難聴)」
野獣「何がどうなったらポンデライオンになるのか、私は理解に苦しむね」
木村「まず彼は、手足などの身体には独自の意思があると考えました。例を挙げると、自転車に乗った時にハンドルを操作する手などは、障害物などに対して無意識に対応しますよね?」
野獣「今では『反射』って呼んでるやつだな」
木村「これは手足が独自に意思を持ち、互いに連絡を取り合っているからだ、と彼は言います。行動のための図式を作り、そして対応する。これを『身体図式』と呼びます」
三浦「要するに、身体図式が無ければ歩くこともままならないのかゾ?」
木村「ええ。意識だけあっても、身体が言う事を聞かなければ歩けないでしょう?」
三浦「あっ、そっかぁ」
木村「しかし、事故や手術などで手足がなくなった人の身体図式はどうなってしまうのでしょうか?…メルロ=ポンティは、最初は無いはずの手足を使おうとするのだ、と言います。これは元あった身体図式の更新が出来ていないからです。ですが、杖や義足を含めた身体図式が出来上がる事でうまく歩けるようになるのです」
野獣「身体図式は更新されるのか…」
木村「はい。この身体図式は、人の身体だけに存在している訳ではありません。さっきの例で言えば杖や義足のように、物にも作られるのです。メルロ=ポンティは自分の『身体』こそが、自分と物、自分と他者、そして自分と世界を繋いでいるのだ、と考えたのです」
三浦「だから大切な人を失った時や、大事にしていたものが無くなった時、立ち直るのに時間がかかるのは身体図式の更新が長いからなのかゾ?」
木村「そうなんですよ」
三浦「あっ、そっかぁ」
木村「しかし、意識は身体が無くなってしまった時は存在できません。意識は空を飛んでいるわけでも無く、地面の中にあるわけでもないのです。ですから彼は、身体は客体でありながら主体でもある『両義的の場』と捉えたのです」
野獣「他者と握手をした時、自分は「他者の手を握っている」でもあって「他者に手を握られている」ゾ…」
木村「ですから身体は両義的な存在なのです。この身体があるからこそ、僕たちは世界に触れることが出来て、また世界に触れられるのです。こうして身体と世界が接する部分をメルロ=ポンティは『世界の肉』と呼んだのです」
野獣「俺らは身体があるから、"世界の肉"と触れ合えるのか…」
三浦「そう考えると、身体って世界の肉と触れあうための握手券みたいなもんだな」
木村「さて、今回はここまでにします。今回は現象学をやりましたが、どうでしたか?難しかったですか?」
野獣「(確かに難易度は高いけど、理解出来ればなんてことは)ないです」
三浦「そうだよ(便乗)」