-3- 黒の懺悔
幸せがそこにあった。
当然のように、家の外を知らない私は笑っていた。それが永遠だと疑わなかった。
きっと過去の私に会えたところで私は何も言えないだろうけれど、「もしも」と後悔を口にする、唇噛んで無関係な屍の踏み付ける。折れる骨の音も零れ落ちる内臓も私には関係ない。
ただ歩く、悔やんで歩いた過去を遡るように。
ただ歩く、下を向いて歩いた道を辿るように。
逃げようのない罪に再び目を向けるために、誰かのために生きるために進む。行先は私が死んだ場所。
家族の死体が転がる家、私のアイデンティティの全てを落とした一軒家。
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幼い私は外を知らなかった。家が世界の全てだと思っていた程に、外の世界の存在を知らなかった。
それは軍の関係者だったお父さんが、私と弟を家の外に出すことを許さなかったからだ。
今に思えばそれは過保護で、相当に歪な幸せの作り方だったのだろう。でもそれは未来がある程度読めていたお父さんからすれば、継ぎ接ぎだらけで歪でも良かったのだろう、むしろ私や弟のその後の事を思えば、そんな脆い理想郷であるべきだったとすら思える。
「お父さん、どうして家から出ちゃいけないの?」
幼かった私は、本当に無知だった。頭の良かったお父さんと違って、無知という罪を背負った愚か者。
二階建ての一軒家の中で、当たり前のように用意された夕飯を口に運びながら、毎晩のようにそう訪ねていた。
決まって一つ下の弟は「外に出なくてもいいじゃん」と冷たく私に言い放っていたが、お父さんは「外にはいいものなんて何も無いんだ」と悲しい顔で訴えかけた。
お母さんは聞き分けのない私の事を笑っていたけれど、今にして思えばその笑いは誤魔化しだったのだろう。
「詠は、家の中にいるのは嫌か?」
鏡子 詠、それが私の名前だった。お父さんとお母さんが付けてくれた、今はもう呼ばれない名前。
お父さんは「昔この土地にあった国の神様の名前なんだよ、その国は日本と言って、美しい国だったんだ」と笑っていた。
今でもここを日本だと言う人は多いが、今の世界には国がない。ただエリアを区分けして、武力を持つ者が支配するだけになっている。
そう思うと、この名前も中々私らしかったのかもしれない。過去に囚われた名前。
「ううん、嫌じゃないけど外も見たいの」
「外も見たいか、いつか見れるようになるよ。この世界が辿る道筋は既に決まっている……私たちじゃもう変えられない」
そんな難しいことを言って煙草を咥えてライターで火をつけた。
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幸せがこの先にあった。
歩む足を止めれば無くなったソレに触れずに済むのは分かっているから足元に転がる死体の脆くなった頭を蹴り飛ばした、死人に口無し、例え首がもげて脳が零れて色んなものがガラクタの中にぶちまけられても、この死体は何も言わない。
「あなたたちに耳はあるの?」
その質問は頭のない死体には聞こえていないだろう。だが私は腐敗して脆くなった死体に質問を続ける。
「口がないから答えられないだろうけど、耳があるなら聞いて私を恨めるの?恨む心はあるの?それを伝える術はどこにあるの?」
死体に耳があるなら謝りたい。死体に心があるなら笑わせたい。
そんなふうに綺麗事の謝罪会見を心の中で開いて、私は目に溜まった涙を拭ってまた歩き出した。
どこまで歩いても希望はない、もはやここには絶望すらない。足元に転がる死体と崩れかけの建物を、私は歩き続ける。
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その日は朝から外が騒がしかった。轟音に慟哭、救いを求める声が私の部屋にある、板の貼り付けられた窓に当たった。
私は嵐が来たのかと思った、雨音はしない。
鳴り止まない怒号や泣き声が気になって、私は窓に釘で打ち付けられた木の板を外してしまった。
初めて開いた窓から差し込むのは太陽の光____何て物ではなく、そこにあった景色は地獄でしかなかった。
写真で見たようなビルは崩れ、燃え盛る死体の山や、自らの内臓を喜々として食べる妖怪のような風貌の人間。
想像していたような青空なく、黒い雨が降りしきる中で呻き声を発するゾンビのような人々が私の家に助けを求めている。
初めて知った。知ってしまった。知りたくなかった。知らなければよかった。
私は何も知らずに地獄の中に作られた、仮想の天国で生きていたのだ。
平和なんてなかった、お父さんが言っていた世界は、存在していなかった。
「裏切り者!!! 俺達の命を何だと思ってるんだ! 」
窓に石が投げ込まれてガラスが飛び散る、それでも勢いの残った石が私の額に当たる。
痛い。
……嗚呼、この痛みすら私は知らずに生きてきた。
額から流れた赤い血は、料理に失敗して指を切った時のように鮮やかな赤ではなく、霞んだこの空を混ぜ込んだような色をしていた。
もういい、そう涙を流して私は両親と弟のいるリビングに向かって力無く向かおうとドアノブに手を掛けた。
「畜生、お前達だけ人間らしく死のうとしやがって」
部屋から出る時に、確かに窓の外からはそんな男の声が聞こえた。
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「鏡子 詠は人間らしく死ねなかった」
風化しつつも形を残すシェルターのように作られている無人の一軒家の前に立った私は、あの時聞いた言葉を思い出して声を洩らした。誰も聞いていないし誰にも届かない嘆きは、案の定響きもせずに何処かに消えた。
私たち家族の、4人だけのユートピアだった場所に来てしまった。
この家来てしまった以上、私は鏡子詠と決着をつけなくてはならない。過去に選んだ逃げ道を逆走してでも、私は置いてきた罪と過去の自分を拾い集めて何処かに捨てでもしないと、冬が開けても私は目を覚ませない。
今度こそ私は、鏡子 詠を人間らしく死なせてあげなきゃいけない。お父さんとお母さんが嘘を吐いてでもそうしたように、私が過去の自分に引導を渡す。
頭でそう思っても、ドアを開ける気にはなれなかった。
開いたドアの先にあるのは、いつか見ていた夢のような幸せじゃなと分かっていたから、それを確かな物にしたくなかった。
だけれど、私には選択肢なんてなかった。
上昇する心拍数を鎮めるための深呼吸すら忘れて、今まで1度も触れたことのなかった錆の目立つ鉄のドアノブを、少し力を入れて回した。
「ただいま」
生まれて初めて破った門限を叱る声は無い、ただただ虚しく骨ばかりが転がるリビングで私は椅子を引いた。いつも私が座っていた椅子の対面には、当然誰も居ない。
少女にとって家族とは世界の全てで、少女にとって名前は自分の全てだったのでしょう。
二つを失って空白になった少女は、世界の色に染まっていく。
黒い、黒い世界の色と同化した黒の少女。その彼女の物語はもう少し続きます。