第34話 等々力渓谷(下1)
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陽が傾いたころ、宇多川鏡子は、瞬と並んで、天井を見あげていた。
二人とも、汗だくになって、肩で息をしている。
試合時間を想定して、三〇分ごとに休みを入れてはいたが、数時間にわたる攻防に、鏡子は心身ともに疲れ切っていた。サイも発動限界をとっくに超えている。
「やっぱり、鏡子さんは強いよ……」
「ううん、瞬君はますます強くなっていく。明日は、瞬君が本当に、優勝しそうな気がしてきた」
鏡子は、数時間、太刀を合わせる中で、如意棒に慣れたが、それでも瞬の技術が向上していくにつれ、押され気味になった。大河内といえども、如意棒のような変則的なAPに、慣れているはずがない。
瞬にも、充分に勝機があるように、思えた。
「……もう、私、限界。瞬君も、明日に向けて、身体を休めておいたほうがいいわ」
「ありがとう、鏡子さん。泣いても笑っても、明日で決着がつくんだね……」
どこか寂しげな余韻に気づいて、鏡子は、頭を傾け、右隣りの瞬を見た。
瞬が、自分を見ていた。
勝てば、まだ全国大会があるが、とりあえずは明日で、瞬との特訓の日々も、いったん終わる。
瞬が、宇多川家に来る理由も、消滅する。
その後、鏡子と瞬は、普通の同級生どうしの関係に戻ってしまうのだろうか。
――それは、嫌だ。
瞬は、自分をどう思っているのだろう。
鏡子を嫌いなはずがない。間違いなく瞬は、好意以上の感情を、鏡子に対して抱いているはずだ。
瞬は、自分と明日乃のどちらを、選ぶのだろう……。
「ねえ、鏡子さん。おなか、すいたね……」
もしかして瞬は、鏡子を見ながら、恋ではなく、食べ物について、考えていたのだろうか。
「シャワーを浴びてから、食事にしましょ。今晩は、本館で夕食を作ってもらったから……」
「本当に、いつも、申しわけないね……」
「だって、瞬君は……」
――恋人だもの……と、鏡子は、続けたかった。
だが、土壇場で、勇気が出なかった。鏡子は、天城明日乃に勝ったのだろうか。まだ、わからない。
「……おなか、空かすだろうって、思ったから、頼んでおいたの。それに、お祖母様も、まだ帰って来られないし、お父様が西ノ島に赴任されてから、独りぼっちだもの。……寂しいから」
宇多川家に分家の親族は多いが、本家本筋は、≪大災禍≫の結果、鏡子のほか、祖母、父と長兄だけになった。
瞬が半身を起こした。
「せっかくだから、遠慮なく頂戴させてもらうよ。シャワーもいただこう」
二人で、更衣室に向かう。
瞬は、着替えとバスタオルを確認してから、個室に入って行った。
鏡子も、隣の個室に入った。シャワー室に入るガラス戸のタオルかけにバスタオルをかける。着替えを、ラックに置いた。
汗だくになったコンバット・スーツを脱いで、裸になった。
隣では、瞬がシャワーを浴びる音が聞こえている。
もし今、鏡子が、瞬のシャワールームに入って行ったら、どうだろうか。
いきなり抱きしめたら、瞬は拒否するだろうか。
……しない、はずだ。確信に近い、思いがあった。
鏡子は、ドアノブに手をかけた。だが、立ち止まる。
万が一、瞬に拒否されたら、その後、鏡子はどうすれば、いいのだろう。
単に、瞬が新人戦を勝ち抜くことだけに、興味があるとしたら……。
兵学校に在籍することだけを目的として、鏡子の特訓を受けているとしたら……。そんなはずは、ない。
でも、今日も、明け方には、研究所に行ったではないか。
瞬と明日乃は、最初から、どこか秘密めいた関係にある気がした。少なくとも、キスまでしてしまう関係だ。ただの同級生では、絶対にない。
鏡子が思い迷ううち、隣でシャワー音がやんだ。
瞬がバスタオルで、髪をふき始める音がした。
時機を、逸した。
鏡子はしかたなく、シャワー室のガラス戸を開けた。
気をゆるめると火傷しそうに熱いお湯を、頭から、かぶった。
***
朝香瞬は、宇多川家の本館を出ると、暮れなずむ空を見あげた。
すでに午後六時を回っているが、陽はまだ、残っている。
瀟洒な食堂で、実に豪勢な料理を、二人だけで、食した。王侯貴族にでも、なった気分だった。
ラベンダー・アメジストのブレスレットを左手首につけ、薄いピンクのイブニング・ドレスを来た鏡子の姿は、輝いているようだった。
だが、鏡子は、いつものように微笑みを浮かべてはいても、どこか元気のない気がした。
長時間の特訓をしてくれて、疲れたのだろうと、思ってはいた。
だが、もしかしたら、鏡子も、瞬と同じ気持ちなのかも知れない、と思った。
瞬は、この二週間ほどの間、ずっと鏡子といっしょにいた。ほとんどの時間を、ふたりで、過ごしてきた。
でも、明日からは、いっしょにいる理由が、なくなる。
瞬と鏡子は今、中途半端な関係だった。鏡子が投げてくれたボールを、瞬はまだ、投げ返していなかった。
自分の気持ちは分かっていた。
もう、鏡子に対する恋愛感情を、否定できない。後は、明日乃に対する気持ちをどう整理するか、だけだった。
仮に明日乃が、瞬を今でも単なる「殺害対象」としか、考えていないのなら、話はおそらく、単純だった。瞬は、自分を想ってくれる鏡子を、選ぶべきだろう。
だがもし明日乃が、瞬をすこしでも、想ってくれているのだとしたら、瞬はどうすればいいのか。
「行きましょ、瞬君。駅まで、送るわ。渓谷を通りましょ」
鏡子が、歩いて駅へ向かうのは、疲れているからか、それとも、瞬と少しでも長く、いっしょにいたいと、思ってくれているからか。
言葉もなく、長い階段を下りた。鏡子のお気に入りの白いハイヒールの音がこだまする。
陽はまだ残っているが、樹々に覆われた等々力渓谷は、昼間と違って、ずいぶんと暗い。疲れているだろうが、鏡子がラベンダー光で足元を照らしてくれた。
長く続いた沈黙を、鏡子が破ってくれた。
「あの森のあたりに、横穴があるの。千数百年も前のお墓。三人が並んで埋葬されていたんだって……」
「どんな三人、なんだろうね……?
瞬はなぜか、自分と鏡子、明日乃の三人を思い浮かべた。
すぐに、話題が尽きた。川音だけがする。
「ねえ、鏡子さん。前に、温泉つきの別荘があるって、言っていたよね?」
「うん。……新人戦が終わったら、行こうか?」
「そうだね。いいね」
突然、鏡子のラベンダー光が輝きを増し、ソプラノが弾んだ。明らかに鏡子の態度が変わっている。子供のように、はしゃいでいた。
箱根、軽井沢や伊豆、そこかしこにあるらしく、その説明を始めた。
並んで石橋を歩いた時、鏡子の声が止まった。
石畳みに、いくつもの球が落ちて撥ねる音がした。
鏡子が短い悲鳴をあげた。
ブレスレットのひもが切れたらしい。
「預言者のお祖母様にいただいた、大切なブレスレットなの……」
二人で一時間あまり、ブレスレットの球を探した。
瞬は、裾をまくって川の中に入り、落ちた球も、いくつか見つけた。暗がりでは探しにくい。鏡子の光も、太陽光には、かなわなかった。
「鏡子さん、球が転がって向こうの茂みに入った可能性も、あるよね」
全部で十四個ある、大きめの見事な石の球が、あと一個、足りなかった。輝きで分かるが、相当高額な石に違いない。
しょぼくれたというより、衝撃を受けたような鏡子の様子に、瞬は心が痛くなった。
さっきはあれほど嬉しそうにしていただけに、落差が大きすぎた。よほど大事なブレスレットだったに違いない。
いつも冷静で落ち着いた鏡子らしくない、取り乱し方だった。
「僕はあきらめないよ。鏡子さん、見つかるまで、探そうよ」
「瞬君、もう、いいわ。石は別に、いいの……」
瞬は拍子抜けしたように、川の中で、岸にいる鏡子を見あげた。
「でも、君にとって、大切な……」
「そうよ、大切な石。でも、私にはもっと、大切なひとがいるの」
鏡子は、川の中に飛び込み、瞬に抱きついてきた。お気に入りの真っ白なハイヒールを履いたままだ。
瞬は、大好きな匂いとともに、柔らかい鏡子を抱きしめる。
「どうしたの? 鏡子さん?」
瞬は愛おしい少女に、やさしく問うた。
「お願い、瞬君……。明日の試合、棄権して」




