第34話 等々力渓谷(上)
※等々力渓谷に行ってきました。素敵な場所ですね。
翌朝、朝香瞬が、柔らかい身体に抱きしめられ、ラベンダー色の光に包まれると、宇多川鏡子がウィンクした。
「眼をつむっていて。すてきな場所に、連れて行ってあげるから」
瞬は、言われた通りに、眼を閉じた。
洗濯が完了し、たがいに制服姿だが、抱きあうのは、やはりまだ慣れていなかった。
鏡子の香りが強くなった。光も強く輝いているだろう。
新緑の樹々をわたる風の匂いが混じった。
「さ、着いたわ、瞬君」
二人は、それほど大きくない鳥居の前に立っていた。二本のイチョウの大樹が、緑の葉をつけていた。
「……ここは?」
「等々力不動尊。実家の近く。まずは、必勝祈願しましょ」
神社フリークらしく、鏡子から、祈願のやり方まで、順序良く、ていねいに指導された。
「よく兄と、ここへお参りをしたの」
鏡子の、亡くなった次兄の話だ。鏡子の話に出てくるのはいつも、存命の長兄ではなく、次兄だった。
瞬には、過去もなく、したがって家族もいないが、今では瞬も、宇多川家の人間関係が、だいたい分かるようになっていた。
「お守りは軽々に買っていはいけないんだけど、ここのはおすすめなの。瞬君に、身代わりお守りを買ってあげるね」
「僕が買うよ。鏡子さんにはいつもお世話になってばかりだし――」
「私のお守りだから、効くの。プレゼントさせて」
神社フリークの話だから、否も応もない、鏡子が小さなお守りを買ってくれた。
こぶりな境内の脇に、手作り感のある展望台があった。
都区内には珍しい森を、並んで眺めた。空腹だった。
夜ふかししたせいもあって、今朝は二人とも、遅かった。
瞬は、研究所から戻った後、勉強机に向かったまま居眠りをしていたらしく、制服姿の鏡子に起こされた。
寮の朝食の時間も終わっていたため、食事もしていなかった。
「じゃ、ブランチにしましょうか。いいお店があるの」
長めの狭い階段を下りると、小さな滝があり、小川が流れていた。
橋を渡り、川沿いを歩いた。好天の祭日で、都会のオアシスを訪れる人たちもいる。二人は、縦列で歩いた。
鏡子が狭い道を選び、細い丸太でできた木の橋を歩く。
いつもはドキリとするくらい大人びた様子を見せる鏡子だが、両手を水平にして歩く姿は、子供のようだった。
五十段くらいの細長い階段が、左手に見えた。
「ここを上がると、うちなの。この前、ここを下りたでしょう?」
真っ暗な闇に、ラベンダー色に浮かび上がる、天使のような鏡子の姿を思い出した。
ぴちゃぴちゃ音を立てながら少し歩くと、頭上に橋があり、行きすぎる車が、何台も見えた。
橋のたもと、鏡子について階段を上った先に、イタリア・レストランがあった。
行き慣れているのか、鏡子は迷わず、入っていく。瞬が続いた。
渓谷の樹々が見通せる、一番いい席に、向かいあって座った。瞬が寝ている間に、予約していたらしい。まさに、才媛だ。
鏡子が澄ました口調で、オーダーした。
「Cコースに、自家製デザートを二人分、お願いします」
テーブルに置いてあったメニューを見ると、Cコースは一番高く、Aコースの倍近くの値段がした。
瞬も一応、準公務員だから、十分な給与をもらっている。だが、予科生が注文するには、やや高めだろう。直太や長介となら、Aコースを選んでいたはずだった。
「あ、このお店。宇多川の関係者だと全部、ツケでいいの。気にしないで、何でも、好きなだけ、食べてね」
鏡子は、名立たる有力家、≪六河川≫の令嬢だ。
瞬もまだ、宇多川屋敷の全貌を確認できてはいないが、おそらく敷地を一周するのに、二〇分近くはかかろうという豪邸だった。
恵まれた境涯にある鏡子は、金銭感覚があまりないのかも知れなかった。かく言う瞬もまだリハビリ中で、忘却の日の前に、どのような経済状態だったかを、知るよしもないのだが。
ピザとスパゲッティをそれぞれ三種類選べるコースだが、鏡子の提案で、シェアすることになった。
すぐに前菜の盛り合わせが来た。さっそく手を伸ばす。
イタリアパンにオリーブオイルをつけて食べる。あっという間に、なくなった。
「瞬君。ずいぶん、おなかが空いていたのね?」
「昨晩はせっかくのごちそうだったのに、何か疲れちゃって、結局、あまり食べられなかったから」
「じゃ、私のぶんもどうぞ。育ち盛りの男の子に、たくさん食べてもらいましょ。私、最近、あまり運動していないから」
「鏡子さんって、僕のお姉さんみたいだな」
「実効年齢は、瞬君よりも高いでしょうからね」
ピザが来ると、鏡子が取り分けてくれた。鏡子が触ったものを食べるのが、好きだ。瞬の鏡子に対する感情はもう、ただの好意のレベルではなさそうだった。
机に置いてあったタバスコを振る。
「瞬君……鹿島君も言っていたけれど、やっぱり、掛けすぎじゃないかしら?」
「長介にも、前に言われたよ。こんなに掛けるってことは、感覚がマヒしていて、何かの病気なんじゃないかって。でも、この前ね、僕がいたってまともだって事実が、判明したんだ」
新人戦の始まる前、瞬は、直太、長介と吉祥寺駅に、夕食を食べに出た。コスパを考えれば、ラーメンという話になり、からいことで有名なラーメン屋の行列に並んだ。
「からさは、全部で十五段階、あった。『辛いので、お気をつけください』とは、書いてあったけどね。僕のレベルなら、当然七は行けるだろうって、思っていた。一〇でも楽勝かなって、思っていたんだけど、食べられなかったらカッコつかないし、七で注文したんだ。直太はレベル三、長介はレベル一だった」
「それで、食べられなかったの?」
「ムリ。半分以上、残したよ。三人とも、ね。もったいないし、僕は死に物狂いで頑張ったんだけどね。三分の一も食べられなかった。長介のレベル一を味見させてもらったら、何とか行けそうだったけどね」
「からくて、美味しかったの?」
「ううん。美味しい以前に、からすぎて、味わえなかったんだ。でも、僕たちの周りでは、レベル一〇とかを平気で注文していた。これで、いかに僕の調味料使用量が少ないかが、証明されたわけさ」
鏡子は、あきれたような顔をしながら、スパゲティを取り分けてくれた。
「ところで、瞬君。昨日は、よく、寝られた?」
微妙な質問だった。
今から思えば、瞬は昨日、天国のような状態で寝ていた。
瞬は途中で、胸が重苦しくて目が覚めた。
気づくと、瞬の身体のうえに、鏡子が乗っかっていた。互いの肌と肌がそのまま触れ合っていた。
ずっとそのままでいたかったが、そうも行かない。
最終的に、起こさないように、鏡子の身体をそっとずらすと、起きることにした。
休み休みだが、夕食の時から寝ていたし、鏡子の魅力ですっかり目が冴えてしまった。
鏡子に掛け布団をかけてあげ、机に向かって、勉強を始めたのだった。
その後、習慣で、研究所へ走りに行った。
あの日以来、タコ入道が瞬の届け物を待ってくれているから、休校日でノートのコピーがない日は、その日あった出来事などを、手紙で書くようにしていた。
鏡子はすでに、瞬に対する好意を示してくれている。明日乃について、色々言うのは気が引けた。
結局、何とでも取れる表現をしてみた。
「うん、ありがとう。おかげさまでね。鏡子さんは?」
「二段ベッドの上に寝るの、初めてだったの。なんか、ワクワクしちゃった……」
昨夜の妖艶な肢体を持った少女が、子供のように無邪気な笑顔を浮かべると、瞬は、女性という存在の深淵を、かいま見た気がした。




