第33話 夜、ふたり(上)
朝香瞬は、誰かに肩を揺すられていた。
だが、猛烈な眠気に、瞼はくっついたままで、離れようとしない。
「起きて、瞬君」
わずかに眼を開いた。優しく、あきれたような宇多川鏡子の表情が、あった。
ちょうどどこかの海溝くらいの深さの眠りに落ちたばかりだったらしく、強気な眠気が、瞬を襲い続けていた。
「瞬君。もう遅いし、今晩、私、ここにお泊りして、いい? 昨日も夜遅くまで特訓につきあったし、今日も、応援に力入って、疲れちゃったから、中距離のテレはきついのよ。どうせ明日また、迎えに来て、戻るだけだから。控室に置いてある下着も、持ってきたし……」
鏡子が何か、話をしているようだった。
耳に聞こえてはいるのだが、頭は理解していなかった。瞬はとりあえず、もう少しだけこのまま眠ろうと決めながら、ムニャムニャ言った。
「じゃ、お泊りするね、瞬君」
とにかく眠い瞬は、特に何も考えず、「うん」とうなずいた。鏡子はクラスでも、どこでも、賢明な少女だから、彼女の提案はだいたい、いつも正しかった。
瞬はベッドのサイドボードにもたれたまま、改めて本格的に寝入った。
†
また、誰かが、瞬の肩を揺さぶっていた。
「瞬君。お風呂、入ったら? お湯、貯めてあるよ。わたし、先にいただいたから」
眼を閉じたまま、瞬は応じた。
「ごめん。もう、お風呂はいいよ。試合の後、シャワー、浴びたから」
もういい。このまま、朝まで眠りたかった。
「でも、焼肉の匂い、ついてるよ。絆創膏も取りかえたほうがいいし。瞬君……瞬君たら!」
激しく揺り起こされて、瞬はしかたなく、うっすらと、眼を開いた。
本当はじっと見つめていたい。かと言って、見ていてはいけないものが、目の前にある気がした。
瞬は、悲鳴に近い驚きの声を発した。たちまち、覚醒した。
「き、鏡子さん? な? 何? いったい、どうしたの?」
瞬の目の前で、鏡子は、長い髪をおろし、下着姿で正座していた。
真っ白なレース地だが、刺激的なセパレート水着のように、本当に必要な個所を、必要な範囲でしか、隠していなかった。
湯上りで上気した頬や肌は、つややかで、むき立てで湯気を立てているゆで卵か何かを思わせた。だが、匂いは、鏡子の身体が発しているのか、ラベンダーのような香りだった。
瞬は、その魅惑的な対象から、適切な距離を取るべく、のけぞろうとした。が、背にベッドがあるため、身動きが取れなかった。
「き、鏡子さん。ど、どうして、そんな恰好、してるの?」
「だって、せっかくお風呂に入ったのに、汗かいた服、着るの、いやだもの」
「じゃ、じゃ、じゃあ、とりあえず、僕の部屋着か、何か、着る?」
鏡子は、白い掌で、頬を扇ぎながら、首を横に振った。
「今、湯上りで、暑いから、要らないわ。とりあえず、瞬君。お風呂、入ったら?」
「は、はい」
瞬は、リビングから逃げ出すように、洗面室に駆けこんだ。中は、独りなのに、なぜかあわてて服を脱ぎ、浴室に入った。
ラベンダーのような鏡子の香りがする。
シャワーを浴びた。
眼を閉じると、さっき見た鏡子の白い肢体が、浮かんだ。
(明日乃さんとは、全然違うタイプなんだけど……
似ているところがあるのかな……
それにしても、きれいだったな……)
身体を洗っていると、傷が痛む。
眼を開けて鏡を見ると、今日の試合後に、鏡子がてぎわよく手当てしてくれた身体中の絆創膏が、いくつも眼に入った。
傷に注意しながら身体を洗い終えると、湯に入った。
鏡子が使ったバスタブに身を沈めるのが、うれしかった。
(……明日乃さんと、鏡子さん……
……僕はいったい、どっちが好きなんだろう……
……どっちも、素敵だよな……僕は、いいかげんな人間だ……
……まずいな……
……僕は、二人とも、好きなのかも、知れないな……)
外から、鏡子のソプラノが聞こえた。
「瞬君。まだ身体、洗っているよね?」
「え? ああ、もう湯船に浸かっているけど」
「じゃ、入るわよ」
洗面室のドアが開く音がした。
「え? ちょっと、待って! そ、それはまずいよ!」
瞬は、叫びながら、浴室のドアに向かって、身構えた。
まさか鏡子も、明日乃のようにして、浴室に入って来るつもりだろうか。だいたい鏡子は、すでに入浴を済ませたはずだ。なぜもう一度、入る必要があるのか。
浴室の外で、からかうような声が聞こえた。
「あら、瞬君。なんか、勘違いしたんじゃないの? ここで洗濯機を回すから、まだ、入っていてね」
鏡子は、浴室ではなく、洗面室に入る許可を求めていたらしい。
瞬は、ほっとしながらも、ひどく落胆した。
浴室の天井を見つめながら、瞬は、己の失敗に気づいた。
鏡子の艶めかしい姿に焦っていた事情もあり、洗面室に着替えを持ってくるのを忘れた。人間は、同じ失敗を何度も繰り返すものだ。
まあ、バスタオルで腰を巻いて出れば、すむ話だ。
実は瞬も、風呂上がりに服を着て、むだに汗をかくのが、好きでなかった。
四月中旬以降、暖かい日が続き、汗がひくまで、パンツ一丁でいたりしたが、ルームメイトの長介の前では、特に問題がなかった。
だが、今日は何かを着る必要があるだろう。だが、鏡子は持っていないのではないか。
予科生の男女二人が、寮の一室で、夜遅く、下着姿のままで過ごすというのは、いかにもうまくない。
瞬はさて、どんな姿でいるべきか。
パジャマ姿は、女子予科生の手前、かっこ悪いから、やめよう。
――いや、待てよ。
最近、特訓続きで、しかも長介がいないから、洗濯物がずいぶん溜まっていた。着る服と言えば、パジャマくらいしか、ない。
そういえば、明日着る服も、今晩、洗濯をするつもりだった。
入浴後に鏡子は、また手当てをしてくれるはずだ。身体中に傷があるから、鏡子はパンツ一丁か、バスタオル姿を要求するだろう。バスタオルのほうが、隠せる部分が多いから、少し気が楽だ。
そうは言っても、時間も遅いから、鏡子は手当てをしてくれた後、すぐに帰るはずだ。それまでの間だけなら、バスタオル姿でかまわないだろう。
そうしよう。決めた。
瞬が、洗面室から出ると、鏡子は、さっきと同じ魅惑的な姿で、瞬を待っていた。
瞬の姿を見ると、食卓にコーヒーカップを置いてくれた。
「さ、ホットミルクを淹れたわ。よく眠れるように、はちみつを入れたの。どうぞ、召し上がれ」
鏡子が微笑むと、下着姿でも、優雅に見える。
「あ、ありがとう」
鏡子はやさしさだけでなく、気配りがある。
「飲んでいるうちに、身体も乾いているだろうし、手当てしてあげるね」
瞬は、鏡子とふたり、たがいに、尋常でない姿で、机ごしに向かい合っている。あまり見つめてはいけないと思い、鏡子のコーヒーカップに眼をやった。
「ねえ、瞬君は、神頼みって、意味がないと、思う?」
鏡子はカップをソーサーにコトリと置いた。
あくまで上品で優雅な仕草だ。だが、いつもは制服で隠されている白い二の腕も、肩から、胸元まですっかり露わになっている。
瞬はごくりと、唾を飲んだ。
「よく、分からないな……。神様はいるような気も、するけどね……」
胸がドキドキするだけで、うまく思考が回らなかった。せっかく作ってもらったハニー入りホットミルクの味も、分からなかった。
「瞬君を見ていると、兄に似ているなって、思う時があるの。兄はね、最後の最後まで諦めずに、努力する人だった」
亡くした兄について話す時、鏡子の視線は、いつも遠くを見ている気がした。
「瞬君。努力を重ねて、すべてをやり尽くした人は、最後の最後に、何をしたらいいんだろう?」
「……そうか、お祈りをするくらいしか、残っていないか……」
「そう、思う。私、兄の影響もあって、神社フリークなの。何もせずに、お祈りするんじゃないわ 。すべてをやり尽くして、もうやることがなくなった時に、お参りをするの。だから兄は、すべての戦いに勝ってきた。最後の最後、未適応症にだけは、勝てなかったけれど……。明日、神社にお参りしましょ。必勝祈願に行くの。さ、手当てしてあげるから、瞬君は飲んでいて」




