モルヒネ
その少女を美しいと思った自分が、あまりにも腹立たしかった。
彼女はよく笑い、よく泣き、そして周囲のために怒る子だった。誰からも愛され、可愛がられていた。どんなときも笑顔を絶やさず、決して不平不満を口にしない。まるで、絵に描いたような、そんな少女だった。この事実は、ちょっとした際に彼女を見かけるだけで、十二分に理解できた。
彼女の名は柄鳥真。まこちゃん、と皆から呼び親しまれていた。名前のごとく、人生を全うに生きている素敵な人物。
対して僕は江頭真。同じ「真」の字をあてるのだが、名前負けをしたと自身でも思う。それぐらい、今までの人生を不誠実に生きてきた。
彼女を知ったきっかけは平々凡々、ごく単純だった。何かの委員会が一緒になり、会議の席が隣だったこともあって彼女が話しかけてきたのだ。
出会いは、唐突。
「えがしら、まこと君?」
ちんちくりんの頭では、それを、小鳥がさえずったとしかいえない。彼女は、愛らしく、柔らかな微笑みと共に、何か説明をしている教師を気兼ねしながらたずねてきた。
「しん」
だが、当時の僕はそっけなく名前を訂正した。彼女を視界の端にも入れず、間髪入れず。するとどうだ、まこちゃんはふーん、と言って続けた。
「真くんね、分かったありがとう。わたしはね、つかとりまことって言うんだ、同じ字を書くからまことって読むのかと思った」
聞いてもいないのによく喋るな、と思った記憶がある。あっそ、とこれまた短く無愛想な返事をしたのも、よく覚えている。これだけ失礼な態度をとっておいてだが、彼女はとても、美しかった。眩しかった。だからこそ、嫌な態度をしたのかもしれない。
「そこ、うるさいぞ。江頭と柄鳥、お前達は月曜日の担当だからな忘れるなよ」
二人一緒に注意をされ、なぜか担当日も同一にされてしまった。正直勘弁して欲しかった。
まこちゃん(本人には一度も呼びかけたことはないが)は、それからたびたび僕に絡んでくる。廊下で顔を合わせると、ほわんと笑って挨拶をするし、下校時にはさよならを言う。
相変わらず、「ああ」とか「うん」とか。そんな、無愛想な返答しかしなかったのは言うまでもない。
一人虚しく下駄箱に向かう最中で、談笑しながらやって来る彼女の姿を見ると無性にいら立った。それで、バイバイ、と笑顔で言われるから、なおさらそんな対応をするしかなかった。
そもそも、学校に来ること自体珍い僕。いじめられているとか、そういうことではなく、単純に学校がいやだった。常に留年すれすれで過ごし、もう、後がない。内申点をあげるために入った委員会も、おざなりにしていたのは言うまでもなく、仕事は全てまこちゃんに任せていた。書庫の整理、本棚の整頓、図書委員のすることは山ほどあるが、一切手をつけない。
登校をしないせいもあるし、たとえ来ても椅子に座ってせわしなく仕事をするまこちゃんを見ていた。
「真君」
スマホを片手に、広がる電脳世界を見ていた或る日。まこちゃんは僕を呼んだ。
「……?」
顔を上げる。
「ごめん、手が届かないから、あれ、とってくれないかな」
まこちゃんが指差したのは、赤い背表紙の本。スマホを椅子の上に放り投げると、薄汚れたタイルカーペットを歩いて背をまげて近づいた。鼻につく古書の匂い、誰かはダニの匂いだといっていた。
「あの赤いやつ?」
「うん、そう。人間失格」
言われるがまま手を掛けると、独特の表紙をしたそれが目に入る。言ったとおり、人間失格とデザインされているわけで、大きく作者の名前が躍っていた。
「……太宰治」
さび付いた声で、作者の名を読む。
「芥川もそうだけど、彼もまた、自殺したんだって。昔の文学者は、大変だったみたい。女性からは多く言い寄られていたみたいだけど」
「へぇ」
「人間失格、読んだことある?」
いや、ないね。適当に言葉を返し、少しほこったままのそれを手渡すと、僕は頭を振った。座っていたカウンターからバイヴの音が静かに響く。
「電源きらないと駄目だよ」
まこちゃんは笑いながら言った。
「ありがとね、これ、金帯にするやつだから助かった」
「……ああ」
どか、とパイプ椅子に腰掛けて再び画面に熱中する。まこちゃんが本を集める音と、画面にタッチする音だけが虚しくしていた。
相変わらず自分の屑さに呆れる。人間失格、その言葉はちくりと胸を刺す。
恥の多い生涯を送ってきました。
最初の一文が、脳裏を過ぎる。あの、モルヒネにおぼれ行く哀しき青年、彼自身が太宰とするなら、太宰もまた、本当に悲しき人間だ。
「哀しいね」
思わず呟く。
「どうしたの、急に」
僕の呟きは、いつの間にか傍に立っていたまこちゃんに届いていたらしい。降り注いだ声に、思わず肩を跳ねた。
「……いや、別に」
正直恥ずかしい、顔をそらす。すると、彼女は少し思案するそぶりを見せたのちに、
「いまが大事なところなんだ。だからさ、ね、お願い。キスしてあげようか」
「はっ……?」
まこちゃんが発したその言葉に、今度こそ本当に驚いて、素っ頓狂な声を上げた。すると、彼女はころころと笑い出す。
「知らないの? 主人公の台詞だよ」
「……知らないね」
「びっくりした? ふふ、顔、真っ赤だよ」
悪戯に笑みを浮かべる彼女は、実に子供っぽかった。先のつやっぽい声音とはまるで反対で、別人かと思うほどに。それきり会話らしい会話はなく、まこちゃんは黙々と作業を始めた。
少しくらい手伝ったらどうなんだ、なんて、思うはずもない。
まこちゃんには確か、思いを寄せる奴がいたはずだ。定かではないが既に卒業をした。他とは違う笑みを浮かべて、頬を朱に染めて会話を弾ませている様子を、この、図書室のカウンターで見た。
あの男子生徒以外にみせたことのないひみつの表情を、僕は知っているわけだが。多分、まだ、まこちゃんは彼を想っている。そう思うのは作業の合間によく二人で話していた、窓際の席へ腰掛けて、ぼんやりとしているから。
窓の外から聞こえるカラスの声に導かれて、ふと、顔を上げた。辺りはすっかり夕暮れに染まり、夜の帳が垣間見えている。あれからどれぐらい時間が経ったのか、確かではない。まこちゃんは未だ、作業に没頭していた。
まん丸とした水晶玉の上でゆらめく長い睫。セロファンを切り貼りする、蝋のような指。乾いた唇を、時折薄い舌がちろりと舐める。その動作一つ一つがあまりにも艶やかで。
ふと、画面上で時計を確認すると、すっかり、下校時刻は過ぎていた。それは当然とっぷりと日が暮れるはずだ。
「あのさ、もう、六時半まわってるけど。僕帰るよ」
乾いた唇を一舐めして告げた。長く座っていたせいか、腰を上げると臀部が痛む。顔をしかめたタイミングで、まこちゃんが此方を見る。
「えっ……嘘、もうそんな時間なの」
「ああ。鍵閉めて帰らないと、事務員さんが困る」
慌てふためく彼女はまるで小動物。気付かれないように笑うと、鞄を持ち上げて出口に向かう。すたすた歩いていると、まこちゃんが言った。
「あ、え、えっと、ごめんね。こんな時間までつきあわせちゃった」
「……別に、僕何もしてない」
「いやでも、ありがとう。遅くまでのこらせちゃって本当にごめんね」
「ゲームしてただけだから」
そう会話している間に、手早くまこちゃんも身支度を済ませたらしい。一緒に図書室を出て、鍵を掛ける。なぜか下校まで一緒する事になったが、話題は、ない。
僕は音楽を聴いているが、まこちゃんはぼんやりと歩いていた。こんなとき、気の効いた奴ならなにか言ってやるのだろうが、生憎とそんなスキルはない。暗くなった道を無言で歩くのみ。
薄汚れたアスファルトの地面を照らすのは、等間隔に並んだ街頭。ぼんやりと発光する白熱灯に、蛾や羽虫が群がっていた。
さて、僕は音楽を効いているわけだが、脳内に響いているのは、あの艶やかなまこちゃんの言葉。
――キスしてあげようか
くるくる回る言葉の渦。ちろりと舌が垣間見える唇から吐かれた冗談。一男子高校生を惑わせるには十分すぎるほどで。見下ろすと、癖らしく、相変わらず舌で唇を舐めていた。
こんな可愛らしい子が、冗談でも言ったと思うと、堪らない。しかし、だ。どうせ誰にだって振りまく愛想笑いと、悪戯心だったのだと言い聞かせると、ちくりと針で刺した痛みがした。それに、まこちゃんは「彼」を想っているはずだ。冗談にしては、あまりにもたちが悪い。
そうだ、そうだ。所詮僕は彼女にしてみれば、ただの同じ委員会の奴で、仕事をサボってて、愛想が悪い奴に過ぎない。冗談も、冴えない僕を単純にからかっただけで、まんまと引っかかる様子を見て楽しんでいるに違いないのだ。ふいに我に返ると、つんと鼻に抜ける感覚がした。
「……い、家、こっち方面だから。じゃあ」
突然たどたどしく告げると、今まで歩いていたはずの道へ、踵を返した。かかとに力をこめ、鞄を胸元に抱き寄せてると走り出す。
何か、彼女が言っていた。だが、脳裏を駆け巡る言葉以外、何も聞こえなかった。
あの笑顔も、全て、皆に向けているものと同じだと思うと、どうしようもなく耐えられなかった。自分が腹立たしくて、あまりにも惨めだった。
馬鹿げている。
――キスしてあげようか
彼女が言ったそれは、どんなモルヒネより僕を麻痺させる。どうして彼女を美しいと思ったのか。あまりにも馬鹿げている。
熱くなる喉を押さえて、唇をかみ締めた。