2.不穏
朝、家を出て暫くした所で、不意に携帯電話が微振動する。
また高城が買い物の用事でも連絡しにきたのか――と思えば、ディスプレイに表示される番号には見覚えがなかった。
不審に思いながら、通話ボタンをプッシュする。
耳に押し当てれば、男の低い声が聞こえた。
『わりい、ちょっと時間取れるか? 《隼》さんよ』
聞き覚えのない声だった。
だが少なくとも、それは己を知っている者の申し出であり、そうである限りは応じぬ理由はない。
「……了解した。どこに居る」
『あんたが居る最寄り駅のサ店で落ち合おう。遅刻すんなよ?』
短く答えれば、彼はそれがさも当然であるかのように言った。
「お前との話を含めて使える時間は余裕をもって十分だ。わきまえろ」
『ああ』
軽薄そうな声で、納得したような相槌を打った。
男はそうして、嫌らしい笑みを浮かべていたのだと、顔を見ずとも良く分かるほどに上ずった声を上げた。
『時間がねーンすよね、色んな意味で』
伊達は短く息を吐く。
呆れたように目を閉じてから、
「そうだ。だから急いでくれ」
『承知。先についたら奥の席でな』
「ああ」
伊達は携帯をポケットに仕舞いこむと、今まさに通りすぎようとしていた駅構内へと足早に向かった。
二分も経っていないのに、階段を上がってすぐ先にある喫茶店には、手を振って伊達を招く男が居た。
短く息を吐いてからそこへ急ぐ。壁際にある二人掛けの席の、通路側の椅子に座った。
「ガッコーか? ご苦労さんだな」
「ああ。お前には到底理解できない苦労だろうな」
短い短髪は明るめの茶色に染まり、身体は服の上からでも分かるほどに筋肉質。細身でありながら、その肉体はしっかりと鍛えられていた。
服装はシャツにジーンズというものでラフなものだったが、男の鋭い目つきがそれらを含めて妙に威圧的にさせていた。
「それで」
店員が水を運び終えたタイミングを見計らって、伊達は言う。
「何の用だ。《鴉》?」
伊達の言葉に、目の前の男は少し驚いたような顔をした。
「どうしてわかったんだ?」
「あいにく、俺は全員の形成者の生身の姿と認識記号を記憶しているんだ……いや、俺だけじゃないが。そこにお前みたいなよそ者がしたり顔で来れば、嫌でも分かる」
「へえ。驚かせたかったのによォ」
ぶすっと唇をすぼめて、カフェオレの入ったグラスを口に運ぶ。ストローを吸えば、一息で中身が空になった。
伊達も水を飲み干し、一つの氷を舌の上で転がせる。
「しかし、意外だな」
伊達は言った。
「生身から形成者になるにあたって、普通は気がどうにかしてしまうものなんだが……お前は一見、まともに見える」
「そりゃあな。何時間にも及ぶ説得と説明を受ければ、こンな姿になってからの絶望感とか怒りみてーなのを先に消耗しちまうわけよ。お宅さん、そういう経験ない?」
「俺は物心がつくかつかない頃の話だからな。気がついたら、こうなっていた」
「へえ。大変だなあ――っと。まだ名乗って無かったな。俺は『矢田恭介』、あんたは伊達仁志でいいんだな?」
「ああ」
彼の言葉で、いくらか察しがついた。
これは何かの話し合いや新たな仕事の話ではないし、ましてやこの矢田を加えて活動しろということでも、どうやら無いらしい。
つまりは顔合わせだ。
なぜ伊達だけなのかと言うと、まだそこはわからないのだが。
「本題だ」
指を一本立てて、矢田が言う。
「上役の話によると、近いうちにそっちに居る《猟犬》と接触することになる。そこで、俺はその《猟犬》の戦闘能力を知りたいんだ」
口元に笑みを湛える男の顔。それとは裏腹に声は落ち着き、口調は真面目だった。
伊達は小さく頷き、男を見据えた。
「自分で試してみろ」
そう言えば、矢田は「わかってる」とでも言いたげに肩をすくめた。
「なんでも、《鴉》が死んでまだ一ヶ月前なんだろ? なら《猟犬》は動揺するかもしれねェし、まともに戦ってくれるかもわからねえ。俺はそのアドバイスを聞きたいわけだ。あんたに事情を話すついでにな」
「なぜ俺なんだ?」
分からない、といった具合に首を振る。
矢田はすぐに言葉を付け足した。
「ここ何日か見張らせてもらったが、あのグループで最年少のあんたが、一番頭角を現してた。正直な話、誰かが欠けても日常には色合いが薄れるが、俺は少なくともそう判断した」
「気づかなかった」
伊達は素直に言うと、矢田は得意げにニヤけた。
しかし、なぜ自分なのだろう。
料理番だからだろうか。胃を掴んだおかげで、主従関係がはっきりしてしまったのだろう。
簡単に納得した伊達は、口の中の氷を噛み砕いて飲み下してから言った。
「ともかく、《猟犬》……犬飼ありすはタフな女だ。ヤワな反応はないと思うが……戦いを促すなら、良い方法がある」
ほう、と声を漏らして思わず矢田は身を乗り出した。
伊達は得意げに笑って、
「挑発だ。人は誰でも、大切なものに気安く触れられれば怒りする。彼女の様子を見るに、既に吹っ切れているが――また目の前に《鴉》が現れれば、正直反応は俺にも想像できない」
形成者として九年も生きていれば、人の心を察することは容易いのだ。
どういった言葉が耳心地良く、どんな仕草が腹立たしいのか。仲間内ならなおさらだ。
伊達はそこで携帯を見やり、時刻を確認する。
駅から学校までおよそ三十分。だが、始業時間まで残り二十分だ。
走らなければならない。もっとも、走れば十分程度で到着するが、今の時点で伊達の身体は走る感覚を想起していたし、筋肉は既に運動を予測してみなぎっていた。
「済まないが、そろそろ時間がない。俺は行くぞ」
「ああ、悪かったな。会計は俺が持つ」
「当たり前だ。俺は水しか飲んでいない」
伊達は席を立つと、笑みを浮かべたまま手を振る矢田を一瞥もせずに店を出た。




